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不老不死に興味なく、銀座でポックリ、それもよし。 [銀座]

IMG_0497.JPG久しぶりの痛飲。昨日、取引銀行の方々を銀座で接待し、注がれるままに熱燗を一気飲みし一次会ですでに酩酊状態。当然これだけでは収まらず、この4月に課長になった部下の昇格祝いと称し、二次会はその彼と某クラブで歌いまくり。さらに勢いは増し、タクシーを飛ばして一人新宿歌舞伎町に乗り込み、ここでも大合唱。大ヘベレケ状態で家に着いたとき、時計は午前2時を軽く回っていた(と、思う)。

さて、先日の日曜日、テレビ東京で面白い番組を放送していた。水だけ飲んで何年も生きている人間、20年以上眠らない人間、病気をしない人間、サーベルを背中から刺されても死なない人間など、いわゆる世界ビックリ人間の登場なのだが、考えてみると、70億人もの人間が世界にいるのだから、そういう「超人」が何人かいても驚くことはないのかもしれない。

不老不死を願うのは人情かもしれないが、90歳、100歳まで長生きすることがそんなにいいことなのか、私にはよくわからない。何度かここで書いたことだが、医学の進歩や極端な健康志向が人々を長生きにしてしまっているせいで、いびつな社会になっていることは年金や介護の実情を見るとよくわかる。少子化の一方で老人は長生きする、一方で経済のほうは低成長で給料が上がらないとくれば、現役若年層の負担が一方的に重くなるのは当然のことなのだ。

仏教に、生病老死(しょうびょうろうし)という言葉がある。人間が持つ4つの苦しみを表現したものだが、現代は老いも死も、そう苦しいものではないように見える。私は出張でよく北海道に行くが、行く先々で出会う現役OB組と思料されるツアー客の活気には驚かされる。とにかく明るいし、お金も持っているようだし、彼らに老いは全く感じられない。そういう彼らの姿を見て羨ましいとか、自分も将来そうなりたいとか、全然私は思わないし、どちらかと言うと、正直疲れる。

苦しい、痛いというのは嫌だけど、適当に病気をして、適当に老いて、適当なタイミングで死ぬ、人間はもともとそういうふうに創られているような気がする。不老も不死も本来、願うべきものでも、憧れるべきものでもないように思うのだが。

ということで、今夜は札幌から出張できた社員と懇親会を銀座で開いた(写真)。銀座レンチャンなのだが、一日置いて木曜日も銀座で飲み会がある。そして金曜日は地元浅草で飲み会と、今週は死にそうなくらい宴会がある。なにせいやしいものだから、ちびちび飲むとか、ゆっくり飲むというのが出来ない。とことん飲んでしまう。こんなことやってるとポックリ行くかもしれないが、それはそれでいい。

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