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コーヒー一杯3億円、怖い国には気をつけましょう。 [銀座]

IMG_0425.JPG私がクルマの免許を取ったのは大学3年生のときだから、今から30年近く前のことだ。路上試験は今でもよく覚えているが真冬で、深く降り積もった雪のせいで横断歩道の前の停止線は全く見えない状況だった。そんなことも幸いしてか、路上が不得手だった私も3回目くらいの試験で合格することができた。

試験教官がそのときに言った「学生さん、自動車というのは世の中で一番の贅沢品だよ。」という言葉を今でも忘れない。運動神経が鈍く、運転が下手な私に対し教官は「君は運転に向いていない。だから自動車には乗らないほうがいいよ。」とその言葉は暗に説いているようにそのときの私には思えたからだ。

世界一の自動車メーカー、トヨタが試練にさらされている。アメリカや日本で、リコール問題やブレーキの不具合に関する苦情問題が起きている。ブレーキの不具合を原因にした事故もすでに発生しているという。月並みな言葉で恐縮だが、世の中で一番の贅沢品が「走る凶器」と化したわけだ。

訴訟社会アメリカでは、不具合を承知していながらトヨタは適切な処置を怠ってきたとして、トヨタを相手取り集団訴訟をする動きが広がっているという。このニュースを知ったとき私は直感的に「ひょっとしたらトヨタは危ない」と思った。今から18年前、老女がマクドナルドで買ったコーヒーをこぼして火傷を負ったのはコーヒーが高温過ぎたせいだとして、マクドナルドを被告とした裁判がアメリカで起こされた。判決は、マクドナルドに対して3億円の損害賠償金の支払いを命じるものだった(最終的には数千万円の支払いで和解した)。アメリカという国は怖い、そう感じさせる裁判だった。

ガソリン価格が急騰した一昨年、クルマを乗る人が減る現象が起きた。それによって何か不都合な事態が生じたのかといえば、何も生じなかった。これは、クルマ社会がピークを過ぎていることを示唆する出来事であったし、トヨタをめぐる今回の一連のことは、そのことをさらに印象付ける出来事であるような気がする。

さて、昨夜は銀座で痛飲。実は今日の記事は昨日更新しようと準備していたものだが、いつものように午前様になったので今日になりました。写真は数日前に撮った和光です。

国民食、餃子はおかず、それともおつまみ? [銀座]

IMG_0423.JPG昨夜、銀座松屋の近くにある居酒屋で熱燗をしこたま飲んだ後(店員さんお勧めの福島「大七」は美味かった)、一人、銀座7丁目の中国クラブに行った。その店は以前から上海出身者か大連、瀋陽、ハルピンなどの東北地方出身者が多いのだが、昨日初めて、河南省出身のふっくらした美女に出会った。

以前河南省は、中国北部地区を指す「華北」に属していたが(現在河南省は「華中」に分類されている)、ウィキペディアによれば、今や堂々たる日本人の国民食となった感のある餃子は華北の料理で、北京語では「チャオズ」といい、主に東北地方で食べられているのだそうだ。

さて、「ギョーザ戦国時代」という記事が今日の日経流通新聞に出ていた。デフレ下で外食各社が苦戦するなか、「餃子の王将」「日高屋」「大阪王将」などのギョーザを扱うチェーン店が健闘しているという。ところで、あなたにとってギョーザはおかず、おつまみ、それともメーンディッシュ?どれだろうか。私はおかずとして餃子を食べるが、「餃子の王将」などではビールのおつまみとして餃子を食べている人も少なくない。

再びウィキペディアによれば、中国華北ではメーンディッシュとして餃子は食されることから皮が厚く、また、焼餃子ではなく水餃子で食べるのが主流ということだ。面白いのは、もともと焼餃子は残り物の餃子を焼いて食べたもので、あまり上品な食べ物ではなかったという話だ。でも私は、水餃子は食べない。あのぬるぬる感、べちゃべちゃ感がどうも苦手で、やっぱり焼餃子のほうがいい。焼餃子もわざとらしくつけたあの「羽根」は嫌いだ。シンプルでパリッとした食感のごくありふれた焼餃子が私はいい。

さて、昨日に続き今日も築地の居酒屋で飲み会があった。いつものように熱燗をやって最後は新潟のへぎそばで締めた。それから一人銀座に向かい(写真)、ネオンの温もりを感じた後タクシーに乗り込んで新宿に向かった。なんとなくもう一杯飲みたかったのだ。

明日は休肝日の予定。明後日には釧路に行く。

社会の宝は夜、酔っ払いたちが作る。 [銀座]

DSCF0095.JPG一昨日、人間ドックに行ってきた。病院も経営が苦しいのかどうか知らないが、看護師さんの人数が随分少なくなっていた。それにいつもは若くてかわいい看護師さんが一人くらいはいるものだが、今回は残念ながら年輩の方ばかりだった。

別に不純な動機で人間ドックに行っているわけではないのだが、看護師さんのことは結構気になるものだ。さて、血液検査などの結果は後日判明するが、毎回指摘を受けている血圧のほうは上150-下100と、今回も高かった。脂肪分の多い食事は控え、運動もしてくださいと看護師さんからアドバイスをいただいたが、そんなことは百も承知である。頭の中ではわかっているが、なかなか実行できないのが人間というものなのだ。

アースマラソンで世界中を走っているタレントの間寛平さん(60歳)が、前立腺がんであることを告白した。とても健康そうで高血圧とも無縁のようにみえる間さんであるが、たとえ強靭な肉体を持っていたとしても、病気になるときにはなる、そういうことなのだろうか。もしそうなら、DNAとか先日書いた「テロメア」という寿命をつかさどる物質というものが、人間の営みにかかわらず、肉体のなかで着実にその役割を果たしている、そう理解するのが自然のような気がする。

昨夜、築地、銀座と飲み歩き、最後は有楽町ガード下にある中華料理店のチャーハンと餃子で締めた。この、チャーハンと餃子がよくないことはわかっているのだが、でも食べたかったのだ。もともと理性なんてものは持ち合わせていない私であるが、酒が入るとわずかにある理性さえもどこかに飛んでなくなってしまう。要するにアホなのだ。

中華料理店で一緒にいたバツ2という輝かしい経歴を持つ部下によると、最初の奥さんとの間に出来た子供は、完全に酒の勢いだったそうだ。子供なんてそんな感じで生まれてくるものなのかも知れないね、よくわからないけど。子供は社会の宝、そういう言葉があるけど、社会の宝が酒の勢いで出来ることが多いとすれば、我々は酒というものに感謝しなければならない、そういう理屈にもなる。お酒、万歳!

写真は東銀座にある歌舞伎座。この威容を誇る建築物を見られるのもあと107日になってきた。

藤原紀香キャバレー、見えすぎ、歓迎です。 [銀座]

tnr0912192013004-p6.jpg前回の記事で、知りすぎることは決してよくない、そんな話を書いたが、それにちょっと類似するような話がANAの機内誌「翼の大国」に出ていた。

音楽プロデューサーの麻田浩さんの話であるが、最近、アナログ・レコードが人気だという。音質、耐久性、手軽さなどすべての点でCDの「圧勝」なのかと思っていたが、どうやら必ずしもそうではないらしい。

麻田さんによれば、CDは確かに「かゆいところに手が届く」くらい、人間が聞くことのできる限界ギリギリの低音、高音が出るという。ただ、「すべてが聞こえる音」が必ずしも「よい」ことではないというのだ。ある程度の音が聞こえなくても、そのバランスさえとれていれば、「余分な音はかえって聞こえないほうがいい」という。

私も中央線沿線の名曲喫茶に何度か行って、大スピーカーから流れてくるアナログ・レコードの音に耳を傾けたことがあるが、なるほど、それにはCDの音にはない重厚感とか風格のようなものがあった。いずれにしろ、「聞こえすぎる」ことは決してよいことばかりではないようだ。

さて昨夜、北海道にある関係会社の社員が数人上京してきたので、懇親会を東銀座の某豚しゃぶ店でやった。今年も酒浸りの日々がスタートしているが、実は来週12日、人間ドックに行く。昨年一年間も不摂生の連続だったので、悲惨な検査結果になるに違いない。

しかしながら、先日の話ではないが、血液検査をやってある物質を調べればその人の寿命がわかるということなので、人間ドックなんて一切やめて、血液検査で寿命だけ調べたらどうなのだろうか。そうすれば、あと何年生きられるかによって、その後の生き方が自然と決まるだろう。あと5年しか生きられないのに摂生生活を続けても詰まらないから、そのときは大いに不摂生に励めばよいのである。

まあー、私の話はいつも極論なので、話半分で聞いてください。

さて、写真はミュージカル、キャバレーで主演する藤原紀香。知りすぎることも、聞こえすぎることもよくないが、彼女の場合、見えすぎることだけは歓迎だ。ところで、昔ながらのキャバレーをこの頃本当に見なくなった。銀座のど真ん中に「白いばら」という明朗会計の老舗キャバレーがある。生バンドやちょっとしたショーがあり、ホステスさんも若く結構楽しい。以前ここで、完全に調子に乗って生バンドをバックに歌ったことがある。でも、誰も聞いてくれなかった。キャバレーはやはりホステスさんと楽しく飲んで、楽しく会話をする場所のようだ。

知りすぎて、秘密がなくなり、そして恋が終わる。 [銀座]

00000001.JPGムード歌謡のロス・インディオスが歌った「知りすぎたのね」という曲がある。
 知りすぎたのね あまりに私を
 知りすぎたのね 私のすべてを
 恋は終わりね 秘密がないから
映画では、ヒッチコック監督でジェームス・スチュアート、ドリス・デイが主演した「知りすぎていた男(The man who knew too much)」という洋画がある。今日は、どんなことでも「知りすぎる」というのは如何かなという話をしたい。

先日テレビを観ていたら、血液を採取してあるモノの長さを調べることによってその人の寿命が判明する、そんな内容の番組があった。あるモノとは「テロメア」と呼ばれる寿命をつかさどる物質で、このテロメアが長ければ長いほど寿命も長くなるらしい。このことを解明したアメリカの女性学者は今年、ノーベル医学賞を受賞した。

何人かの芸能人の血液を採取され、結果が番組で発表された。結果、つまり寿命宣告はいわば「死刑宣告」にも似ているから、最初はなんとなく気色悪いものを感じたが、バラエティー番組の軽いノリに負けて結局最後まで観てしまった。なかでもシリアスだったのは石田純一だった。55歳の彼は今年、33歳の東尾理子と結婚する予定だ。もしも彼の「テロメア」が短くてあと10年しか生きられなかったら、結婚すべきなのかどうか、私もドキドキして結果を見守った。

幸運にも、石田純一は100歳近くまで生きるという結果が出た。いずれにしろ、科学的手法で導き出された自分の寿命なんてものは知らないほうがいいと思う。世の中のために科学がもたらした功績は計り知れないし、そのことに感謝もするけれど、触らずにそっとしておく領域もあっていいと思う。「テロメア」の発見が医学の発展に資する部分は確かにあるのかもしれないが、寿命というあまりにもデリケートな領域に踏み込んでもらいたくなかった。

ちょっと話は変わるが、婚活花盛りである。なぜ婚活が人気になるのか。理由は簡単で、情報が多すぎるからである。情報とは、結婚したいと願う男性と女性に関する情報である。「きっといつか私の理想の男性(女性)に巡り会える」、今日紹介されて会った男性(女性)はダメだったが、明日会う男性(女性)は今日よりきっといいに違いない、もし明日がダメならまた明後日がある、こういう感じで理想の異性に出会うまで際限ない出会いが繰り返される。だから、婚活事業が流行るのである。

知らなくてもいいこと、知らないほうがいいこと、そんなことが世の中には結構あるような気がする。情報過多、科学の進歩はひょっとしたら想像以上に人間を苦しめているかもしれない。どんなことも「知りすぎないこと」、これが大切なことのように思う(冒頭の曲「知りすぎたのね」の3行目、恋は終わりね 秘密がないから、逆さまに読むと、秘密があるから 恋は終わらない、なかにし礼は流石だ)。

さて、明日から札幌出張。今年の初出張。素直に今日は帰ろうと思ったが、部下が一杯やりたそうな目をしていたので、意を汲んで彼らを誘い築地の焼鳥屋で一杯。それから一人銀座を散策(写真)。でも、本当に飲みたかったのは私自身だったような気がする。

予言します。今年の紅白、キムタクと櫻井君、偉そうに一言言います。 [銀座]

IMG_0388.JPG今年もあと残すところ10日余りとなった。御用納めの28日まで挨拶回りや環境整備でもゆっくりしようと思っていたが、急遽明日から北見に出張することになった。天気予報を調べてみると、明日は最高気温が0度、最低気温がマイナス9度で真冬日になるみたいだ。厚手のコートとマフラー、そして手袋は必需品である。仕事の後は、熱燗をたっぷりご馳走してもらおうと思っている。

さて、紅白歌合戦の歌唱曲が決まった。毎年大晦日は、母と妹夫婦と一緒に釧路で年取りをすることになっていて、今年も妹夫婦の家で夜は紅白を観ることになる予定だ。正直言うと私は、紅白ではなく民放のバラエティー番組を観たいのであるが、母や二人の甥っ子が紅白を観たいというのでいつも我慢しながら紅白を観ている。

我慢しているものは放送時間が長いとか、知らない歌手がたくさん出ているとかそういうことではなくて、いわばNHKの番組制作姿勢とでもいうものである。私が小さい頃観ていた紅白は、単に大掛かりな歌番組というとてもシンプルなものだった。曲の合間に踊りや太鼓など余興も入ったが、煩わしいものではなかった。

それに比べると最近の紅白は余計なものが多すぎる。SMAPなどを利用して、世界平和の大切さを訴えたり、人間の絆の大切さを訴えたり、また、歌手の生い立ちを感傷的に紹介して強引にお涙頂戴物語に仕立て上げたり(昔の紅白にもこの手のことはあったが、もっとあっさりしていたと思う)、紅白歌合戦なのだから、歌そのものにもっと徹するべきなのに、薄っぺらい政治的メッセージや強引なお涙頂戴物語で視聴者の関心をNHKは惹こうとしているように見える。このように感じている人は決して少なくないように思う。

さて、SMAPは何度目かの「世界に一つだけの花」を歌うことが決まった(私はこの曲自体、好きではないが)。キムタクあたりが深刻そうな顔をしてまた偉そうなことを一言言うに違いない。初出場の嵐は「スペシャルメドレー」を歌うらしいが、私はここで一つ予言をしようと思う。日本テレビのニュース番組に出ている櫻井君が何らかの政治的メッセージを必ず話すと思う。嵐は今年の紅白の目玉歌手だから、きっとそうするに違いない。しかしながら、私が嫌いなのはキムタクや櫻井君たちではなく、彼らを利用して歌番組を実に陳腐なものに貶めているNHKの番組制作姿勢である。

写真は先週金曜日、銀座並木通りで見つけたクリスマスツリー。ことしは銀座も新宿も街にジングルベルが聞こえなくてクリスマスムードがイマイチ盛り上がっていない。

怪僧ラスプーチン、悲しき願い、ダンシング・クイーン! [銀座]

IMG_0325.JPGこの頃、1970年代のディスコミュージックを聴いている。正確に言うと、聴いているだけではなくて、「YOU TUBE」を利用して歌の練習もしている。ところが、どの曲も原曲キーがえらく高く、キーを下げないと到底歌えない。なぜディスコミュージックかと言えば、新宿で先日飲んでいたときにアースウインド&ファイアー「宇宙のファンタジー」がBGMで流れてきて、急に若いころを思い出してしまったのだ。

アラベスク「ハロー・ミスター・モンキー」、サンタ・エスメラルダ「悲しき願い」、ボニーM「怪僧ラスプーチン」、ジンギスカン「ジンギスカン」、アースウインド&ファイアー「セプテンバー」、ビージーズ「ステイン・アライブ」、アバ「ダンシング・クイーン」等、皆さん、踊ったことのある懐かしいナンバーがたくさんあるでしょう。

さて、次は仕事の話。仕事の話で愚痴を言うのは好きじゃないけど、ちょっとだけお付き合いを。別に仕事のことに限らないけど、自分の思っていることが周囲の人に伝わっていないなあと感じることが、誰にでもあるのではないだろうか。でもひょっとしたら、あなた自身も、周囲の人の言いたいことを正確に受け止めていないかもしれない。こういうコミュニケーションのズレのようなことは、どうして起こるのだろうか。

思うに、人間には、他人の話を無心に聞こうという姿勢がもともとないのかもしれない。どういうことかというと、虚心坦懐に、心を無にして他人の話を聞こうと臨んでも、いざ相手とのコミュニケーションがスタートすると、最初のうちは確かに相手の言っていることを素直に受け入れているが、だんだん時間が経つにつれて、「自分はこう聞きたい」という「意思」のようなものが自然と湧き上がってくるのではないだうか。

この話は言葉に関することであるが、見ることに関しても同じようなことが言えるような気がする。例えば、あるモノが目の前にある。それを見た人間に映るものは、どれも同じように映っていなければ理屈としてはおかしい。でも、実際どうかと言えば、同じモノ(人間でも構わない)を10人が見れば、10通りの「見え方」というのがあるに違いない。これは単に10人の「感じ方」が違うということではなく、「自分はこう見たい」というものを10人がそれぞれ無意識のうちに持っていることから起きる現象のような気がする。

冒頭、ディスコの歌を練習していると書いたが、歌はもちろんすべて英語だ。そういえば学生の頃、英語の授業で、「hear」と「listen」の違い、「see」と「look、watch」の違いについて勉強したのを覚えているだろうか。「see」「hear」は受動的で「見える」「聞こえる」、「listen」「look、watch」は能動的で「聞く」「見る」というように習ったような気がする。でも、人間にはこの中間に位置する気持ちとして「聞きたい」「見たい」というものがあるように思うのである。この半ば「意思」を感じさせる「聞きたい」「見たい」という気持ちが、コミュニケーションのズレを起こしているのではないか、この頃そう感じるのである。

今日もまた、支離滅裂な文章になってしまった。

写真は台風一過の墨田川上空。見事な雲が広がっている。会社があるビルから撮った。

女子高生のスカートの中、動画でくっきり撮れます。 [銀座]

IMG_0315.JPG警視庁は今月、痴漢被害防止のキャンペーンを行い、3千人の捜査員を動員して混雑時のJRや私鉄で警戒にあたった結果、期間中の5日間に31人が痴漢、強制わいせつ、盗撮などの罪で逮捕された。逮捕された31人のうち約半数の15人は再犯者だった。

という報道が一昨日あった。なんでもない内容の報道であるが、これに関連して、ちょっと気になることがあった。某大手家電メーカーが先日、ハイビジョン動画と静止画が記録できる名刺サイズのビデオカメラを発売するというリリースを行った。これを知って私は「やっぱり出たか」と思った。

ビデオカメラの小型化が進んでいくと、いつかは名刺サイズまで行き着くだろうと思っていた。そうなると、「盗撮」がこれまで以上に頻繁に行われるに違いないと考えていたのだ。ある有名大学教授が以前、手鏡を用いて女子大生などのスカートの中を覗いて有罪になった事件があったが、今後は、スカートの中を動画で、それも鮮明に記録するような「輩」が必ず出てくるに違いない。技術の進歩は利便性を高めている一方、悪い奴に利用されたた場合は「凶器」にもなりうるということを示す好例になってしまうかもしれない。

もう一言。冒頭の報道にあるように、痴漢、強制わいせつなどの性に関する犯罪の再犯率は高いと言われてるが、何度もこういった罪で捕まる連中は一種の「病気」だと考えたほうがわかりやすい。それも一生治らない「病気」だ。だから、元某有名大学教授も、いつかまた女子高生のスカートの中を覗き込むだろうと私は見ている。

さて、一昨日、昨日と二連荘で飲み会が銀座であり、今日はダウンしてしまった。もともと風邪気味で体調がよくなかったのだが、一旦酒が入るととことこ飲んでしまう悪い癖が私にはある。昨夜も、銀座にある酒飲みの殿堂「酒の穴」で熱燗をやって気持ちよくなってしまい、それから新宿歌舞伎町、ゴールデン街と飲み歩いてしまった。

性に関する犯罪者はほとんど病気に等しいと書いたが、酒の飲み方に関して言えば私もほとんど病気のようなもので、人のことはあまり批判できないかもしれない。

写真は昨夜の銀座。午後6時頃、飲み始める直前に撮った。

のりピー、ぴよぴよ、本当に悪いのはだーれだ? [銀座]

IMG_0304.JPG「覚せい剤やめますか?それとも、人間やめますか?」は、覚せい剤使用撲滅を目的とした昔のテレビCMであるが、昨日釈放されたのりピーは今後二度と覚せい剤に手を染めないことを世間に「公約」した。民放のある解説委員はのりピーの釈放に関して昨夜、覚せい剤は単に使用者の精神や肉体をむしばむだけではなく、暴力団の資金源になっていることも忘れてはいけないことを強調していた。

「暴力団の資金源になっていることも忘れてはいけない」というコメントは、のりピー個人というよりは、世間一般の人々を念頭に置いて発せられたものだと理解すべきだと思うが、冒頭のCMもそうであるが、薬物の使用をやめましょうというキャンペーンも確かに必要だと思うが、どう考えも諸悪の根源は薬物を売る暴力団にあるわけだから、暴力団撲滅キャンペーンをやるほうが先のような気がする(警察は取り締まりを一生懸命やっているのかもしれないが)。

人間は誘惑に弱い。飲まなくてもよいのに酒を飲む、吸わなくてもよいのにタバコを吸う、浮気をしてはいけないのに異性とセックスをする、挙げたらキリがないが、薬物をやれば嫌なことをすべて忘れてしまい解放感に浸れると言われれば、一回くらいはやってみようかと考える人がいても不思議ではない。だからといって私は、のりピーを支持するということではない。ただ言いたいことは、本当の「悪者」はのりピーではないということを、我々は冷静になって知るべきではないかということである(のりピーだけをいつまでも責めても、覚せい剤犯罪が減少するとは到底思えない。)。

さて、今日は部下三人を引き連れて築地の焼鳥屋で一杯やった。普段あまり物言わぬ部下たちであるが、酒が入ると思わぬ本音が飛び出すこともあって、ドキッとすることも少なくない。酒が良いとか悪いとかいう議論はあるが、上手く利用さえすれば、酒は人間同士のコミュニケーションを図るための有力な手段になっていることは事実のような気がする。

写真は銀座和光。焼鳥屋を後にしても、一人銀座4丁目交差点まで酔い覚ましも兼ねて歩いた。今週はついに月曜日から金曜日までお酒皆勤賞になってしまった。

流れ流れて東京は、中途半端な根無し草。 [銀座]

IMG_0275.JPG学生時代によく五木寛之の小説やエッセイを好んで読んでいた。『蒼ざめた馬を見よ』『さらばモスクワ愚連隊』『青年は荒野をめざす』など、初期の小説は優れたエンターテイメント性があって躍動感に溢れていたが、いつしか五木氏は小説家から仏教の伝道師になってしまった。当時彼のエッセイを読んでいて初めて知った言葉があった。それは、デラシネというフランス語である。

五木氏は、自分はデラシネだと言っていた。デラシネとは、根無し草、転じて故郷や故国を何らかの事情で去り、帰れない人のことを指す。戦争などで祖国を追われ、帰ることの出来ない現実のデラシネは悲惨であるが、自嘲気味に自分のことをデラシネと表現することは文学的でなんとなく格好がいいものだ。

昨日、夏の高校野球は決勝戦を迎え、愛知県代表の中京大中京が新潟県代表の日大文理を接戦の末下し、優勝した。負けたとはいえ、この試合で見せた日大文理の9回二死からの猛攻は球史に残るものになるだろう。日大文理のこの驚異の粘りについてある新聞が今日「越後の誇り」と書いていた。「新潟の誇り」ではなく「越後の誇り」という表現に、熱い郷土愛がひしひしと感じられる。

私は生まれ育った北海道を離れ、花の都東京に来て今年で26年になる。釧路、札幌と北海道で生活した期間が23年だから、東京で生活している期間のほうがもう長くなってしまった。だからといって私は「江戸っ子」ではないし、かといって「道産子」と胸を張るのも気恥ずかしい。要するに、中途半端なのだ。あえて言うならば、単に北海道出身の東京生活者ということになるのかもしれない。

東京で生活しているからといって、西東京代表の日大三高を今回応援したのかといえばそうではなく、やはり、出身地である北北海道代表の旭川大高校を応援していた。そういう点でも私はデラシネになりきれず、やっぱり中途半端な生活者なのだという気がする。

さて、仕事上の懸案事項が今日ようやく片付き、一杯飲みたい気分だったので、部下を3人誘って築地の焼き鳥屋で飲み会をやった。その後彼らは帰ったが、私は一人銀座で出た。写真は銀座8丁目、ウォーター・フロントビル前の様子。新規オープンの店に向けて、同業者などから豪華な花が送られる。こういう風習は銀座に今も残っている。

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