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携帯電話が鳴らない、私は哀れでしょうか。 [新宿]

RIMG0066.JPGコンビニ、飲食店、物販店などあらゆる場所で、東日本大震災に関する義援金募金箱が設置されている。私も、小額のお釣りがあるときは募金箱のなかにお金を入れるようにしているが、これまでの総額は多分、千円にも満たないだろうと思う。

一方、有名スポーツ選手とかタレントのなかには、億単位、千万単位の寄付をしている人たちも少なくない。凄いなあと、ただただ感心する。こういう人たちはきっと、自分とは全く別の世界で生きている人たちなのだと思う。世の中には貧乏な人、中くらいの人、金持ちの人、大金持ちの人など、いろいろな人がいるわけで、私には小さな人助けしかできないが、お金持ちの方は私たちには出来ない大きな人助けをしてもらえればいいのではないかと思う。

さて、昨日、私は満51歳になった。昨夜、歌舞伎町にあるバー「琥珀」「gekkou」「SUZY-Q」のオーナーさんたちが、私のために一席もうけてくれた。高田馬場にある居酒屋で、「琥珀」「gekkou」の常連さんたちも加わってワイワイガヤガヤ盛り上がり、それから酔っ払いながらボーリングをやり(3ゲームやりました。平均スコア110ほど。下手です。)、その後新宿に移動した。まず「琥珀」で軽く一杯やり、それから新宿二丁目のゲイバーでゴールデン街「スクエア」のスタッフたちと合流。朝までドンチャン騒ぎをしてしまった。結局、今年の誕生日も新宿で締めとなったが、仲間というか、友人というか、気を許すことができる人が周りにいるということは心強いものだ。東京砂漠という冷たい言葉があるが、私にとって新宿は血も涙もある、人情の大都会なのである。

ところで、私は口ベタなほうなので(違う!という声も多いが)、友人と呼べる人は多くない。その証拠に、私の携帯はほとんど鳴らない。淋しい人ね、哀れな人ね、そう指摘してくれる方もいらっしゃるが、私のほうは一向に気にならない。というか、どちらかと言えば、ピー、ピー携帯が鳴らないのは煩わしくなくて快適だとさえ思う。そもそも、固定電話でも携帯電話でも、ピー、ピーという高音が突然鳴ると、心臓によくないし、何事が起こったのかと心配になってしまう。

世の中にはいろいろな人がいる。良い人もいるし、悪い人もいる。物静かな人もいるし、うるさい人もいる。正直な人もいるし、ずるい人もいる。大切なことは、そのような様々な人のなかから、自分に合う人だけを選んで友人、仲間にすることだと思う。人の生い立ちとか、性別とか、学歴とか、年齢とか、そういったことは友人、仲間を選ぶ際に大切な要素ではない。肝心なのは、自分の感性、センスに合うかどうか、この一点ではないかと思う。

と言っても、プライベート、ビジネスで、自分の感性、センスと合わない人と付き合わなければならないことはある。そういう人と徹底的に闘うという選択肢もないわけではないが、ただ、長い人生のことを考えると、闘い続けることは精神的にしんどい。ならば、自分の感性、センスと合わない人とは、出来るだけ係わらない、そっとしておく、そういう態度がほうが賢明なのではないかと思う。

まあ、そうは言ってもこの世の中、自分の思うようにはなかなか行かないもので、最後は、ケ・セラ・セラの精神(なるようになるさ)で行くしかないのかもね。以上、51歳を迎えたオジサンの戯言でした。


写真は、新宿三丁目交差点の様子。みんな、何を考えながら歩いているのかなあ。

琥珀で、ひつまぶし、否、お暇なら来てよね。 [新宿]

RIMG0083.JPGある週刊誌の見出しに、「放送局を一つ潰したら、原発一基分の電力が賄える」というのがあった。なるほど、そういうこともあるのかなあと思ったが、テレビ好きの私としては少し複雑な心境だ。

通常モードの放送に戻り、深夜放送も復活した。時節柄、深夜は当分放送しないという選択肢はあるような気もする。これはもちろん、節電という観点からのことだが、実はそれだけが理由ではない。この頃つくづく、今のテレビは、お笑いタレントの生活のために存在するような気がしてならない。大袈裟かもしれないが、朝から晩まで(深夜まで?)出ずっぱりのお笑いタレントが何人もいる感じがする(彼らはかなり稼いでいるに違いない)。

彼らの芸が心底面白いのなら構わないが、中には、ちっとも芸が面白くないお笑いタレントもいる(素人のほうがよっぽど面白いと思うときもある)。こんなときだから、笑うということはとてもいいことだと私は思うのだが、もう見飽きたお笑いタレントが出ているテレビ番組を観るのを止めて、たまには違う方法で笑うことも一法のような気がする。

劇作家である野田秀樹さんの『ひつまぶし』は笑える本だ。「ひつまぶし」はもちろん「暇つぶし」にかけている。読んでいて、「なるほど、なるほど」という話がたくさんある。この本から一つ二つ引用してみたい。

野田さんのある友人が、某大手広告代理店に勤めていたときの話。彼は若い女子社員を集めて「いいか、これは俺の股間(こかん)に関わる問題なんだぞ」と眉間に皺を寄せて語り、ひかれた。もちろん正しくは「沽券(こけん)に関わる」だ。また、若い社員を鼓舞しようとして「お前たち、もう匙(さじ)は投げられたんだぞ!」と言ってしまった。これでは、いきなり終わってしまう。正しくは「賽(さい)は投げられた」である。この彼、寿司屋で「まぐろのみぞおちありますか?」と聞いたが、もちろん正しくは「まぐろの中落ち」で、決して「まぐろのみぞおち」ではない。

このような日本語の間違いというのはよくある話であるが、次の話はもっと面白い。野田さんは、近頃の若い人たちは、自分のことに、周りの人間が興味があるのは当然という前提で話しかけてくるという(私も同感です)。

「自分って、A型じゃないですか」 → 知らねえよ。
「俺って、甘いものだめじゃないですか」 → だから、知らねえよ。
「あたし、花粉症じゃない?」 → そんなこと威張られてもな。
「あたし、肩こりなんですよね」 → あのさ、世界中がお前の体調に興味あるわけじゃねえんだよ。

こんな感じで始まる会話がのさばっているというのは、やっぱり大人が悪い。その子が10歳を超えたら「世界中の人間がお前を知っているわけではないし、知りたがっているわけでもない」という現実を教えてあげるべきだと野田さんは主張する。私も賛成である。

これは少子化の影響が大きいと私は思うけど、それはさておき、この本にはお笑いタレントの肉体的、強制的笑いとは別次元の楽しい笑いが詰まっている。お薦めです。


写真は、新宿ゴールデン街5番街「琥珀」の店内。今週15日、16日一周年パーティーがあります。写真中央の腕は、ゆうママです。セクシーダイナマイトボディーで待ってます、とのことです。



飲んで~、飲んで~、そして、飲まれてしまいました。 [新宿]

00000003.JPG私はいい加減で、図々しく、アバウトな人間なので、仕事のことでめったに落ち込んだりしないが、それでも、年に一回くらいは仕事のことで滅入り、打ちひしがれることがある。今日は、その年に一回のスペシャルデーだった。

どんなことがあったのかは書かないが(書く必要もないし)、とにかく、ガックリきたのである。人間、本当にガックリくると、静かに一人で居たくなるものである。ということで、今日は会社を出てから、一人で新宿に来て(ここまではいつもと同じであるが)、それから、おでん屋に行って、カウンターに一人座り一杯やった。

辛口の菊正宗を燗で4合、ほぼイッキ状態に近い感じで立て続けに飲み、一気に酔った。河島英五のように「飲んで 飲んで 飲まれて飲んで 飲んで 飲みつぶれて 眠るまで飲んで」と格好よく行きたいところであるが、明朝も早くから頭の痛くなるような会議があるので、今日潰れるわけにはいかない。

嫌なことがあると、ストレス解消を人間はするわけであるが、私の場合、それは、カラオケでもセックスでもなく、とりあえず酒のような気がする。でも、いくら酒を飲んだとしても、今日と違う明日は当然のようにやってくるわけで、所詮、酒は一時の「憂さ」を晴らすだけのものなのである。それでも人間は、酒の力を借りてでも、ウトウトしながら「浮世の憂さ」をほんの少しの間忘れようと努めるのだ。おー、なんと人間は、いじましい存在なのだろうか。

眠たくなってきた。酔ったので、今日は写真も撮っていない。なので、今日は先日大阪の戎橋で撮ったグリコを掲載する。それにしても、グリコのお兄さんはいつも元気だ。ストレスなのて、ないのだろうね。

おしまい。



博多美人、調査の結果、約4割です? [新宿]

00000002.JPG福岡にやってきた。福岡は東京より寒い。できれば中州あたりで一泊して、本場のプリプリしたモツ鍋でも食べたいところだが(もちろん、モツ鍋だけでは終わらないが)、今回は日帰りが十分可能なスケジュールだったので、夜の社会勉強は次回にする。

福岡にやってくるのは、プライベートも含めて今回で5回目くらいになる。初めて来たときから感じていたことだが、福岡は美人が多い。色白で面長、目元がスッキリというのが私の印象だ。仕事の打ち合わせに行く前、美人がどのくらいの割合でいるのか、地下鉄天神駅に直結している天神地下街(通称「てんちか」)を歩いて検証してみた。

すれ違う20代から30代と思われる女性をチラ見して、美人と思ったら数をカウントしてみた。結果は、20人中、8名が「ピンポーン!」になった。この割合、結構高いような気がする(出張に行って、随分馬鹿げたことをしてますが、お許しください。)。

○○美人、○○には地名が入るが、どうだろう、私の思いつく限り、これに当てはまるのは、全国広しといえども、博多美人と秋田美人の二つだけではないだろうか。私は行ったことがないが、雪国秋田の美人も肌が白く、もち肌だと言われる(例えば、桜田淳子、藤あや子、加藤夏希などは秋田県出身)。そういえば、新潟の女性も綺麗だとよく言われるが、でも、新潟美人という言い方は一般的ではない。

福岡に、仕事をしに行ったのか、美人を見に行ったのかよくわからないが、兎に角なんでも勉強である。ところで、福岡に何度来てもよくわからないのが、「福岡と博多の関係」だ。行政面からみてみると、福岡県、福岡市というのはあるけれど、博多市はなく、代わりに福岡市のなかに博多区というのがある。交通面からみてみると、JR博多駅、地下鉄博多駅というのはあるが、JR福岡駅というのはない。九州一大きい福岡県にJR福岡駅というのが無いのは、ちょっと意外なような気がする。いずれにしろ、どうやら、福岡=博多ではないことだけは確かなようだ。

今度はプライベートで、福岡をじっくり探訪し、勉強してみたいと思う。今日の昼は予定通り、天神にある「一蘭」というお店で博多ラーメンをいただいた(「一蘭」は、新宿アルタ裏にもある。)。唐辛子をたっぷり使った辛目のスープが寒い身体を温めてくれた。

午後4時福岡発のANA便で東京に戻ったが、帰り際、福岡空港で明太子を買った。福岡のお土産といえば、明太子と銘菓・博多通りもんであるが、今日は明太子を買って(買う前に、いくつか味見をさせてもらった。)、新宿ゴールデン街の「琥珀」で明太子を肴に一杯やった(写真)。実は、「琥珀」のママのゆうちゃんは、生まれは名古屋だが、それからしばらく福岡で10年以上生活していて、彼女は福岡に縁があるのだ。

しりとり、りんご、ゴリラ、ラッパ、パンツ、もう止しなさい! [新宿]

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新年 あけましておめでとうございます。

今年は卯年。先日、新宿歌舞伎町のバーのカウンターで飲んでいたら、隣にいた若い女性が来年(今年のこと)年女だと話しているので、24歳ですかと聞くと、そうです、と答えてくれた。私は50歳だから半分以下だねと冗談を言ったら、「うちのお母さん、50歳だよ。」と返され、「そうすると、我々はまるで親娘だね。ハッハッハ。」と苦し紛れの冗談を言って、なんとかその場をしのいだ。

さて、夕方、一人で新宿の花園神社に行ってきた(写真)。元旦なので、午後6時過ぎにもかかわらず長蛇の列ができていて、賽銭箱の前に行くまでに20分くらいかかった。私のすぐ後ろに20代と思われる若いカップルがいて、時間潰しのためなのか、突然、しりとりを始めた。割と大きい声だったのでどうしても聞こえてしまったのだが、時間が経つにつれだんだん馬鹿馬鹿しくなってきた。くだらないしりとりはもう止めてほしかったのだが、「止めろ!」と正面切って言うのもおかしいことなので、仕方なく、少し大げさに咳き込んで中止を促したのだが、ラブラブの彼らは全然反応しなかった。


今年も、オジサンの愚痴はきっと続くに違いない。でも、オジサンさんは100回に1回くらいは気の利いたことを話せると思うので、少しだけ我慢して今年一年、またお付き合いください。

50歳には見えない、と言われても.....。 [新宿]

IMG_0541.JPG来月は師走。コンビニやケーキ屋さんでは、クリスマスケーキの予約をもう受け付けているところがあるが、いささか気が早いように私は思うが、如何だろうか。

クリスマスケーキではないが、昨夜行った新宿のバーで、馴染みのホステスさんからクリスマスパーティーのチケット購入をせがまれた。1枚13000円のチケットだったが、クリスマスまでまだ1か月以上もあり、今から購入する気になれなかった。仮に購入したとしても、クリスマスまでにチケットを紛失する可能性が高い。ということで、ホステスさんがお願い、お願いと私の腕をつかんで何度も揺すったが、仏の私もさすがに断った。

チケットを買ってほしい下心もあったのだと思うが、50歳にしては私は見た目が若いと、そのホステスはしきりに言う。年齢より若く見られるのは悪い気はしないが、しかしながら、年を取ると誰でも白髪や皺は増えるし、顔の色もだんだん黒くなってシミも出てくるものだ。それは仕方のないことで、そうならないようにする化粧品や薬があるのかもしれないが、それらは無駄な抵抗だと割り切って、自然体でいくしかないのではないだろうか。

私は10代の頃、自分が50歳になるなんて思っていなかった。変な話だが、自分だけは年を取らないと考えていた頃もあった。でも、現実は決してそうならなかった。これは実に当たり前の話なのだが、10代の頃と50歳の今の見た目は大きく変わってしまった。でも、見た目は変わってしまったが、あまり変わらなかったと思う部分もある。それは、私という人間の中身である。

確かに年は取ったが、私という人間の中身はあまり変わっていないように思うのだ。子供の頃、大人というのは「偉い人」のことだと思っていた。子供である自分とは別世界に生きている人たち、それが大人だと思っていた。分別があって、どんな問題にぶつかっても上手にそれを解決する能力がある人、お金もある人、それが大人なのだと感じていた。でも、自分が大人になって気づいたことは、人間の中身としては、大人は子供とそう違わなかった、ということなのだ。

人間の中身の部分に限ると、今の私は、30年前、40年前の私とほとんど一緒のような気がする。違うところが多少でもあるとすれば、それは、人間は社会の一員として生きている、自分だけでは生きられない、このことを大人になって初めて気づいた、それくらいだと思う(子供の頃は、自分が世界の中心にいて、何事も自分の思い通りになる、そんな風に考えていた。)。その他の自分の性格、精神といった部分は、子供の頃とそう変わっていないように思う。

年を取るとは一体どういうことなのかということは、実際に年をとってみないとわからない。死ぬということはどういうことなのか、それは実際に死んでみないとわからない(しかしながら現実には、死んでしまうと意識がなくなるわけであるから、死とはどういうものであるか、それを語れる人間は理屈的には誰もいない、そういうことになる。)。年を取ると見た目がだんだん悪くなる、かといって、人間の中身は一向によくなっていない、年を取って50歳になった私が気づいたことはそういうことである。

写真は、新宿花園神社の酉の市(昨夜の様子)。

仮面舞踏会、変身願望というよりは、自己隠蔽願望。 [新宿]

IMG_0532.JPG「一週間のご無沙汰でした」は名司会者だった玉置宏さんのセリフであるが、私のブログ更新は約一ヶ月ご無沙汰してしまった。そんなことではいけないと思い立ち、月末日の今日、今月二回目の記事を書くことにした。

さて、赤坂飲食店プロジェクトは明日ようやく日の目を見ることとなった。明日午前11時、グランドオープンを迎える。なんとかここまで辿り着いたというのが今の実感である。それにしても、バタバタの連続であった。料理なんかまともにしたことがない私がリーダーで進めてきたわけだから、スムーズに行くはずがないのだ。

そんな私の至らない部分についていろいろアドバイスをくれたのが、新宿ゴールデン街を中心とする新宿の夜の仲間達だった(皆さん、お店のオーナーの方々です。)。メニューの試作品をお客さんに出してくれてモニタリングに協力してくれたり、女性トイレには楊枝、綿棒、油取り紙、マウスウォッシュを置くように教えてくれたのも彼らだった。

そんな彼らに感謝の意も込め、オープン前の一昨日、出来上がったメニューを赤坂で食べていただいた。お店のエースメニューであるいくら丼、釧路発祥の鶏の唐揚げであるザンギ、ぷりぷりした食感の仙鳳趾(せんぽうし)の牡蠣フライ、珍しい焼いた燻製サンマなど、ほとんどの料理を美味しい召し上がっていただいたようで、私はほっとした。彼らからはいくつかアドバイスもいただいたので、それらは今後に活かして行きたい。

明日は午前8時、赤坂集合である。元気をつける意味で今夜は新宿歌舞伎町のとんかつ屋で、ロースかつ定食を食べた。もちろんいつものように一人で食べていたのだが、私の横のテーブル席には、三人連れの家族が食事をしていた。両親と中学生くらいの娘さんの三人で、お父さんは私と同じくらいの年齢に見えた。

そのお父さん、声が少し大きく、一人で喋っていた。お父さんはなかなかの勉強家のようで、奥さんと娘さんに自分の知っていることを自慢げに話していた。ヒレは豚のどの部位であるかとか、ドラフト会議の交渉権とはどんな権利なのかとか、お父さんは次々と説明を始める。奥さんはちょっと飽きたような顔をしていたが、娘さんは熱心にお父さんの話を聞いていて、たまに質問もしていた。

私が席を立つ少し前、そのお父さんは、昨日の新宿はハロウィンでとても賑やかだったという話をし始めた。そして、仮装をしているのは男性よりも女性のほうが多く、それは、男性よりも女性のほうが変身願望が強いからではないかという「見解」も示した。奥さんと娘さんは反応しなかったが、お父さんは自信ありげに胸を張った。

ヒレの部位とか、ドラフト会議の交渉権の話はどうでもいい話だったが、仮装と変身願望の関係については、私はちょっとだけコメントしたい気分だった。

仮装パーティーなどではよく仮面をつける。少年隊に「仮面舞踏会」という曲があるが(カラオケで私はたまに歌います。)、その出だしの歌詞は次のとおりだ。
♪ shyな言い訳 仮面でかくして
踊ろ踊ろ かりそめの一夜を きっとお前もなやめる聖母
棄てな棄てな まじなプライドを今は
この曲の場合、仮面で隠すものは「shyな言い訳」であるが(よく考えてみると、この「shyな言い訳」って何のことかよくわからない。)、それはそれとして、一般的に、仮面をつけるという行為は変身願望ではなく、どちらかと言えば、自己隠蔽願望、自己消失願望ではないかと思う。

仮面をかぶる行為は、変身して別のものに変化するという前向きなものではなく、どちらかと言えば、隠れる、消えるといった後ろ向きなもののような気がするのだ。なぜなら、仮面をかぶる最大の効果とは、自分が誰であるか相手に知られなくなることだからだ(もちろん、仮面をかぶっても自分が誰であるかバレてしまうことはあるかもしれないが。)。この自分が相手に認知されないという気分は、変身というより、隠蔽・消失という表現のほうがふさわしいように思う。

今述べた、自己隠蔽、自己消失という願望は、ネット社会に通じるものがある。ネット社会では、匿名という「仮面」が、自分が誰であるかを相手に知らせない効果を生み出している。正確なことは知らないが、商用目的以外の個人的なホームページ、ブログの9割以上は匿名なのではないだろうか。私も匿名でブログを書いている。しかしながら、匿名でブログを書いている私には、決して変身しているという気持ちはなく、どちらかと言えば、匿名という「仮面」をかぶってネット社会でこっそりと生きている、そんな感覚でいるのだ。

それにしても、とんかつ屋のお父さんは博識でした。


写真は、新宿伊勢丹。飲食店の最激戦地帯、新宿。赤坂の次は新宿で勝負しようと考えている。

エンジのエプロンで、オジサンはお店に出るのです。 [新宿]

IMG_0210.JPGブログの更新、さぼっている。酒もあまり飲んでいない。こんなことでは、いけないと思い、今日は一週間ぶりにブログを更新し、そして、夜の新宿でパーッと行くことにする。

11月オープンを目指して進めている飲食店プロジェクトのほうは、もちろん紆余曲折があるものの、概ね順調に来ている。今月末までにすべての段取りを終える必要があるのだが、多分、出来るだろうと思う。ここまでなんとかやってきて思うことは、どんな世界も奥が深い、ということだ。

食材の世界、酒の世界、食器の世界、調理用品の世界、業務用ユニホームの世界、ゴミ収集の世界、食品衛生の世界、業務用家具の世界、グルメ雑誌の世界等々、準備作業の過程でいろいろな世界を初体験したが、一から十まですべてのことが「なるほど、なるほど、そういうものなのか。」の連続だった。

でも考えてみると、飲食業に携わっている多くの方々が私と同じような経験をされているわけだから、少し苦労したぐらいで偉そうなことは言えないし、本当の苦労はこれから店をオープンした後にやってくるのだろうと思う。

店が忙しいときは私も店に出ようと思い、ユニホームも注文してあるのだが、部下は、私は店には出ないほうがいいと言う。なぜなのか聞いたら、店の雰囲気が壊れるから、らしい。確かに私はオジサンであるが、決して「変なオジサン」ではないと思う。接客は嫌いなほうではないので、ユニホームを着て(スタンドカラーの白ワイシャツ、黒いパンツ、エンジのエプロン)、なんとしても店のほうにも出るつもりなので、乞う期待。

今日はいわば「病み上がり」なので、この辺で終わりにしたい。
写真は、今夜の新宿。これからネオンの海を遊泳してまいります。

I like to drink. この程度で結構かと思いますが。 [新宿]

IMG_0148.JPG今週の読売コラムは、楽天やユニクロを展開するファーストリテイリングなどが進める社内英語公用化の動きについて、国際化が急速に進むなかで好ましいことだと書いていた。今から2年近く前の話だと思うが、高校の英語授業をすべて英語で行おうという当時の文部科学省の提案に対して読売は、それは「時期早尚」として反対していたのであるが、ビジネスの世界での英語化についてはどうやら賛成らしい。

英語は話せたほうがいいに決まっているが、どんなことでも程度問題はあるし、少し冷静になって考えてみることも大切なような気がする。私はこれまで、日本人と英語のことについてここで書いてきた。それらのことを通じて私は、日本人の英語能力は今のまま(中学英語の読み書きができる程度)でいいのではないか、ということを言いたかった。

まず、大上段に構えてみる。今年で戦後65年目を迎えたわけだが、使える英語を目指して国家が英語教育に手を変え品を変え、かなりの力を注いできたにもかかわらず、ほとんどの日本人がまともに英語を話せないないというのは、どういうことなのだろうか(この事態は「異常」と言っても過言ではないかもしれない。)。思うに、日本人と英語というのは相性がよくない、端的に言うとそうことなのではないだろうか。

作家の藤原正彦さんによると、日本人が英語下手な理由には二つあるらしい。一つは、英語と日本語はあまりにも異なる言語だということだ。英語を話すアメリカ人にとって、もっとも難解な言語は日本語とアラビア語だそうだ。そして、もう一つの理由は、これはなかなか面白い分析だと思うのだが、日本では、日常生活で英語を必要としていないということだ。当たり前のことのように聞こえるが、植民地経験のない日本は、外国から日本語以外の言語を使うことを強要されたことがこれまで一度もなかった。日本語さえ話せれば、日本にいる限り、生活に不便がない、日本人はずっーとそういう生活をしてきたのだ。

さて、少し話を変えてみる。世界共通語というのがある。相当古くからある話であるが、一向に実現する気配がない。それは何故か。思うに、実のところ、世界中のどの国民も、世界共通語の実現なんか望んでいないからだと思う。なぜなら、自国の言語というのはその言語を使う国民にとって正にアイデンティティーそのものだから、世界共通語を使うということは、日本人なら日本人の、中国人なら中国人の、それぞれアイデンティティー(個性)を抹消することに等しい行為になってしまうからだ。日本人は日本語を、中国人は中国語という「個性」を大切にしたいと思っているに違いないし、そのことは極めて自然で健全なことのように思う。

ちょっと話が逸れたが、前出の藤原正彦さんは、海外で長く生活した自身の経験から、本当の国際人というのは英語が達者な人のことではなく、自国の言語をよく勉強していて、そのことを通じて自国の文化をきちんと理解し、体現している人のことだと述べている。藤原さんのこの意見に、私も賛成する。英語に力を入れるのも結構だと思うが、日本語のよさ、日本文化のよさ、日本人のよさをしっかり勉強することが海外から我々日本人が尊敬される唯一の道だと思う。もしそうなれば、日本人が英語を勉強するのではなく、逆に海外の人たちが日本語を熱心に勉強するようになるかもしれないし、できればそうなってほしいと思う。


写真は、昨日の新宿(紀伊国屋書店から新宿駅東口を撮った)。昨夜も新宿ゴールデン街で痛飲してしまった。

今日はいよいよ高円寺阿波おどりが開催される。雨じゃなくてよかった。写真をたくさん撮ってこようと思う。ご期待ください。

筋肉質の妻のこと、あなたは好きですか。 [新宿]

IMG_0031.JPGたまに行く新宿ゴールデン街のあるバーに、Tさんというゴールデン街では有名なマスターがいる。私と同年代の方で、痩せてはいるが、昼は音楽関係の仕事をして、夜はゴールデン街でマスターとして働く、実にタフな方である。そのTさんのお店に、変わったDVDがあることを先日知った。

そのDVDは2枚あって、1枚は、工場の夜景ばかりを撮影したもの、もう1枚は、ダムの放流シーンばかりを撮影したDVDである。このDVDはどうやらTさんの持ち物らしい。興味津々で少しみせてもらったが、正直、私には感じるものがなかった。でも、カウンターで私の横に座っていたこれまた私と同年代と思われる男性の方は、「このDVD、僕は結構好きかも知れません。」と言っていた。

新宿ゴールデン街で飲み歩いていると、いろいろな方と知り合いになる。私より少し年下のSさんもその一人で、いつもにこにこしていて好感の持てる男性だ。そのSさんと先日あるバーで会った。カウンターに座るなりSさんは、鞄からおもむろにDVDを取り出した。見ると、パッケージには上半身裸で筋肉質の女性が大写しになっていて、どうやら、これは筋肉質の人妻がセックスをするAV作品のようだった。

私は単刀直入に「どうしてこのDVDを買われたのですか?」とSさんに聞いた。すると「この女性を見ていると顔を叩きたくなる。」、Sさんはそんなようなことを言った。Sさんはどうやら「Sっ気」があるのかなあと私は思った。そうじゃないと、「筋肉質の妻」のようなマニアックなDVDを普通買わないような気がする。

ダムの放流シーンに感動したり、筋肉質の人妻を攻撃対象にしたり、その深層心理とは一体どんなものだろう、そんなことを考えていたのだが、いくら考えても素人の私には答えが見つからないと思ったので、すぐに考えるのを止めた。ただ、筋肉質の妻のほうはフェティシズム(性的倒錯)の一種のような気がする。しかしながら、ダム放流のほうは、解明がなかなか難しいと思うのだが。いずれにしろ、人間の心の中、頭の中というのは計り知れない奥行きと広さを持っているものだ。


先日、タイ検定の話をここで書いたが、今日新宿を歩いていたら、何かのイベントでタイの女性が踊っていたので(多分、タイの方だと思うのだが)、とりあえず写真を撮ってみた。

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