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結婚しない男性急増、無縁仏になってしまいます。 [時事]

RIMG0019.JPG 今日放送した「噂の東京マガジン」は特集で、結婚できない男性が急増していることを取り上げた。東京23区のなかで比較してみると、結婚できない男性の割合が一番高いのは、中野区なのだそうだ。私は住所的には確かに杉並区であるが、地理的には中野区の端っこのようなところに住んでいるので、この特集は他人事とは思えず、最後まで観てしまった。

驚いたことに、現在、50歳男性は6人に一人が未婚なのだそうだ(そう、私も今50歳、未婚です。)。20年後には、3人に一人が未婚になると言われている。結婚しない理由は「家庭を持つだけの資力がない」「一人でいるほうが楽だ」「やりたいことがある」などが主なものである。このように、結婚しない単身者が増え続けていく社会のことを、「無縁社会」と呼ぶのだそうだ。無縁仏をイメージさせる実に嫌な言葉だ。

国税局の調査によると、民間企業で働く労働者のうち、年収300万円以下の割合は42%、年収200万円の割合も25%に達し、民間労働者の年収は年々下がっている。年収300万円超であれば「勝ち組」であると言う人もいるくらいで、そのくらい民間労働者の年収は抑えられ、生活が追い詰められているわけだ。また、こちらは総務省の調査であるが、10代と20代に限ると、今や、男性より女性のほうが月収が多くなっているのだそうだ。

このような状況であるから、「家庭を持つだけの資力がない」「一人でいるほうが楽だ」などを理由に、結婚しない、もしくは、結婚できない男性が増えるのは当然と言えば当然なのである。「俺は絶対にお前を守ってやる」と男性がいくら意気込んでも、ある程度、先立つものは必要なわけだ。「三丁目の夕日」の時代ならば、その意気込みは給料アップという形でキッチリ報われたかもしれない。でも今の時代は、年収300万円の夢さえも実現することが難しい、実におかしな社会なのである。

先日の記事で私は、生活に苦しむ人たちが、リッチな人たちを妬む社会は嫌な社会だと書いた。一日1000円以内に食費を切り詰め、仲間と夜一杯やるときも全品一律250円の居酒屋でささやかに盛り上がるしかない人たちからすると(もちろん、二次会のカラオケはない。)、年収1000万円超のリッチな人たちは「同じ日本人」には見えないかもしれない。国に勢いがあるときは、他人の幸せ羨むことなく、すべての日本人が日本人としてのアイデンティティーを共有できるのだと思う。「日本は素晴らしい国家だ」「日本人は素晴らしい民族だ」「日本の経済は強い」、国民みんながそういう連帯感を持ったとき、国家も、そして個人も、幸福な状況になるのではないだろうか。

いずれにしても、日本人を幸福にするのも不幸にするのも、政府次第だ。「国民生活が第一」なんて標榜している政党があるが、私にはジョークとしか思えない。

さて、一昨日の金曜日、昨年11月に結婚した私の男性部下の「結婚を祝う会」を赤坂の店で行った。新郎41歳、新婦35歳、どちらも初婚。真面目な部下で、私も彼の活躍に期待している。結婚していない上司の私が、先輩面して「結婚とは何ぞや」と話す資格がない、そうスピーチしたら、会場から大きな笑いが起きた。でも私はちょっとだけ、寂しかった。

写真は、神谷町の高層ビルから先日撮った、東京タワー。東京タワーが出来た時代、それが「三丁目の夕日」の時代だった。

正直は最善の策、角界の皆さん、諺にもありますね。 [時事]

RIMG0014.JPG角界が揺れている。力士3人が八百長を認め、それ以外にも八百長に係わった力士がかなりいるのではないかと見られている。昨年の野球賭博に続き、日本相撲協会は「災難」に見舞われている。

昨日あたりから、公益法人である日本相撲協会は解散すべき、世の中はそんな方向に流れているような気がする。もちろん、今回の騒動に関してはいろいろな考え方があると思う。ただ、「日本相撲協会を解散させるべきか否か」というセンセーショナルな議論ばかりに焦点を当てると、問題の本質を見逃してしまうような気がする。

問題の本質はズバリ、「日本相撲協会は本当の事を言う組織なのか、それとも、ウソをつく組織なのか」、その見極めだと思う。放駒理事長は「これまで八百長はなかった。あったとすれば今回が初めて」と話しているが、本当だろうか。

何年か前に、角界の八百長疑惑を掲載した週刊現代とその記事を書いたある記者を、八百長はなかったとする日本相撲協会が訴えたことがあった。裁判所は判決で「記事に書かれたような事実はなかった」とし、週刊現代及び記者に対して、日本相撲協会の名誉を傷つけたとして損害賠償の支払いを命じた。

週刊現代の記事は大変説得力のあるもので、多くの人が「八百長があったのではないか」と思った。そもそも角界の八百長疑惑は今始まったことではなく、かなり以前から存在していて、記憶に新しいところでも、元小結・板井が今から10年くらい前に、自分自身も含めて角界には八百長があることを告白したことがあった。

「物的証拠」はないとはいえ、「状況証拠」からすると八百長があったと考えるのは自然なことのように思う。それを前提に言えば、八百長に関して日本相撲協会はこれまで「ウソ」を言ってきたことになるし、裁判所も十分な審理を尽くさなかった可能性がある。当時の裁判に政治的な力(日本相撲協会を潰すなという力)が加わったとは思いたくないが、最近の検察不祥事などから考えると、法曹界も完全に信頼できるとは言えず、結構いい加減なところがあったのではと思いたくもなる。

大きく言えば、世の中のいろいろなものが変わりつつあるなかで、日本相撲協会はそれへの対応を求められているのだと思う。「ウソをつかないで正直に言う」、このなんとも単純なことが、今の日本相撲協会には必要なのであって、公益法人を解散して例えば株式会社化するといった単に形式的なことをやっても、多分問題は解決しないだろう。

さて、写真は新宿西口の思い出横丁。最近行ってないなあ。それにしても、「横丁」という言葉は温かくていいね。

沢尻エリカ、もう飽き飽きですが。 [時事]

RIMG0001.JPG私は芸能・スポーツネタが結構好きで、テレビ、スポーツ新聞などの芸能・スポーツコーナーをよく観るのだが、テレビ局などの報道姿勢のようなものにちょっと首を傾げたくなるときがある。

例えば、沢尻エリカ。ハッキリ言えば、沢尻エリカが離婚するかどうかなんて、どうでもいい話。それにしても、テレビ局などはどうして彼女をVIP待遇で扱い、持ち上げるのだろうか。まるで腫れ物に触る感じで、オドオドしながら彼女から「お言葉」を頂戴しようとする。おだてられた彼女は明らかに「図に乗っている」。まるで、女王様気取りだ。黙って、放っておけばいいのだ。タレントとして売れなくなりそうになったら、放っておいても彼女のほうからテレビ局などに擦り寄ってきて、「ねえ、聞いて、聞いて」と自ら口を開く、そんなものだ。

私のようにみている人は少なくないと思う。ここで改めてこんなことを書く必要はないのだろうと思うけど、あまりにも彼女に関する報道がしつこいので、ちょっと書いてみた。

次は、日本ハムの斎藤祐樹投手の話。高校時代、甲子園を大熱狂させた「大スター」であるから、彼の一挙手一投足をマスコミが追うのは当然なのかもしれない。「でも」、だ。ゴルフの石川遼選手もそうであるが、あまりにも彼を「正義のヒーロー」に仕立てようとしてはいないだろうか。

思い出してほしい。一年前、当時のマスコミは東北出身で西武ライオンズに入団したある高卒投手に熱中だった。そう、菊池雄星投手。だが残念なことに、彼は昨年、故障などもあり一軍では全く活躍できなかった。その様子をマスコミはほとんどフォローすることなく、彼はもう「過去の人」のような扱いだ。彼を上げるだけ上げておいて、知らない間にハシゴを外す、そんな感じだ。

野球にとても詳しい人から以前聞いた話であるが、現在、楽天イーグルスで活躍する田中将大投手と斎藤祐樹投手を比較すると、プロで通用するのは明らかに田中投手のほうで、斎藤投手は確かに甲子園では活躍したが、それまでが限界で、体型などから判断するとプロでは通用しないだろう、そういう話を甲子園での激闘があった直後に聞いた。

斎藤投手と同じ評価をその方は菊池投手にもしていて、「多分、プロでは身体を壊すかもしれない」、そこまで言及していた。「そんなものかなあ?」と私は半信半疑であったが、彼の「予測」は不幸にも昨年は的中してしまった。

マスコミは、ヒーローに関して、良いことばかり、一面的なことばかりを書き過ぎる。そうでないことについても書いてあげないと、ヒーローはかえって可哀相だ。石川遼選手なんか、もう一生風俗店に行けないかもしれない。そういえば、ある大手生命保険会社のテレビコマーシャルを見て私は唖然としたが、何と「石川遼のような保険」を保険のキャッチ・コピーにしてしまったのだ。こうなってしまうと、石川選手は今後の人生において、聖人君主のような清廉潔白な生活をし続けなければならなくなる。それは悲劇でしかない。

仮定の話であるが、もし、石川選手が刑事事件を起こして実刑にでもなれば、「石川遼のような保険」はもう使えなくなるし、このキャッチ・コピーにつられて保険に加入した保険契約者からはクレールも出るかもしれない。「なんだ、石川遼のような保険とは、犯罪者の保険か!」。そうなると、保険会社は、保険契約者に謝罪することはもちろんのこと、ひょっとしたら、石川選手に「会社のイメージを著しく傷つけた」として、損害賠償を請求するかもしれない(あくまでも、仮定の話ですが。)。

ちょっと話が脱線気味であるが、ある識者が政治に関する報道に関して、マスコミは一方的な情報を流しすぎていて、バランスが極めて悪く、そのことが国民をミスリードしていると指摘していたが、このようなマスコミの「偏向的報道姿勢」とでも言うべきものは、何も政治だけに限ったものではなく、芸能でも、スポーツでも同じようなことが言える、私はそんな気がする。

写真は、今夜の新宿歌舞伎町。日中は暖かかったが、夜は風が出てきて寒くなった。



タイガーマスクの「伊達直人」は、鼠小僧次郎吉? [時事]

IMG_0626.JPG今日は、成人の日。成人になることは、成人の日を祝日としているくらいだから、目出度いことに違いない。だから、新成人に対しては「おめでとう」という言葉をかけることが適当なのかもしれないが、よく考えてみると、成人になることがどうしてそんなに目出度いのか、その理由がハッキリしない。

成人になると、飲酒、喫煙が可能になるとか、競輪、競馬などのギャンブルも堂々と出来るとか、良いことがいくつもあるように見えるが、これらのことは大体、成人になる前にすでに始めている場合が多く、成人前後で実態的には何の変化もないように思う。そして、成人になって与えられる権利のなかで最大のものは何といっても選挙権だと思うが、政治的関心が薄い現代の若者にとって、選挙権の付与がそんなに重大な出来事なのかどうか、甚だ疑問だ。

成人になると、大変なことのほうが多くなると私は思う。お釈迦様は、この世は辛いことばかりだと説いたが、成人前と成人後とでは、成人後のほうが圧倒的に辛いことが多い。なぜなら、一般的に言って、成人前は親の脛をかじって生きているわけで、お金の心配は不要だし、そもそも、世間は未成年者に対して寛容だからだ。

新成人はこれから社会という「荒波」のなかに放り出されるわけだから、新成人にかける言葉としては「これから大変だけど、がんばってね。」というのが正解のような気がする。

さて、タイガーマスクこと「伊達直人」と名乗る人物が、沖縄、静岡、神奈川などの児童養護施設や児童相談所に、ランドセルや現金を贈って話題になっている。

報道を見ていると、今回の「伊達直人」の行動は「美談」として報道されているが、そんな単純すぎる報道でいいのだろうかと、私は思う。報道によれば、ランドセルなどを贈られた児童養護施設などの責任者は「大変ありがたいこと。」として、ランドセルなどを「頂戴」しようとしているが、私が施設長なら、ランドセルなどをすぐに受け取らないと思う。

なぜなら、「伊達直人」がいかなる人物なのか、知る必要があると思うからだ。例えばの話だが、「伊達直人」がどこかで窃盗した金でランドセルを買ったとわかったら、ランドセルを受け取るだろうか(つまり、「伊達直人」が窃盗犯だったらどうするのか、という話。)。江戸時代に、鼠小僧次郎吉という有名な窃盗がいた。彼は、大名屋敷に侵入して現金を盗み、そのお金を、貧しい人たちに分け与えたと言われている(ただ、実際は、盗んだ金は次郎吉が遊興費として使ったという説が有力だ。)。「伊達直人」が現代版・鼠小僧次郎吉がどうかは知らないが、ランドセルを買った「金の出所」は大切なポイントだと思う。

そもそも、なぜ「伊達直人」などという偽名を使い、正体を明かさないでランドセルを贈るのか、甚だ疑問だ。本名を名乗り、正々堂々と児童養護施設などにランドセルを贈ったらいいのではないだろうか。私の想像であるが、「伊達直人」なる人物は実はかなり目立ちたがり屋、自己顕示欲の強い人間ではないかと思う。いずれにしろ、正体不明の人間から贈られたランドセルは、安易に受け取らないほうがいいのではないだろうか。

写真は、今夜の新宿西口。今日の東京は風が強くて、北海道出身の私でも寒く感じた。



ザリガニを伊勢海老と間違う、一流グルメたち。 [時事]

eyes0071.jpg今日は大晦日。さすがの私も今日くらいは掃除をきちんとしようと思う、昼前から約2時間かけて部屋の大掃除をした。その後、昨夜摂ったアルコール分を抜くために熱いシャワーをたっぷり浴び、ようやく今少し落ち着いたところだ。

さて、掃除をしながら、今年の元旦に放送された「芸能人格付チェック」という番組を観た。ご存知の方も多いと思うが、一流を自負する芸能人、タレントなどが、例えば1本100万円もする高級ワインと、1本500円の安いワインを飲み比べ、どちらが高級ワインかを当てるという番組だ。今日の番組の中で特に面白かったのは、高級食材として使われる伊勢海老とザリガニの食べ比べ、驚いたことに、ザリガニを伊勢海老と間違える自称一流芸能人がいたことだ。

この番組を観て思うことは、人間の舌というのは実に加減だということだ。1本500円でも、高級ソムリエから「これは1本100万円の高級ワインです。」などと言われて勧められると、「これは実に香りが高く美味しいワインですね。」などと思わずトンチンカンなコメントをする自称グルメがたくさんいるのだ。人間というのは実に権威というものに弱い、そういうことも言えるかもしれない。

高級料理店を紹介するミシュランガイドという本が毎年発行されている。最も美味しい飲食店には☆が三つ与えられるわけだが、その常連に、銀座の某高級寿司店がある。この寿司店のおまかせコースは25000円もする。飲み物はもちろん別料金である。

こういった高級料理店の原価(仕入れ値段)は一体どのくらいなのだろうかと、いつも不思議に思う。マグロは青森大間産のマグロを使用しているとか、普通の寿司店に比べて明らかに高い食材を使用していることは想像に難くないが(ただ、高い=旨い、とはもちろん限らない。)、それにしても、2万円とか3万円とかいう食べ物は、普通ではない。では、そんなに高いのに、どうして人気があるのだろうか。

寿司が旨い、これが人気の最大の理由かもしれないが、私のようなへそ曲がりからすると、三つ星の寿司店で食事をしたと自慢したいがために行く人が多いのではないか、そんな気がする。そういった見栄を張るためには、おまかせコースの値段は決して3000円であってはならず、やはり、25000円という目が飛び出るほどの値段でなければならない。しかしながら、25000円のおまかせコースの原価が例えばたった5000円だとわかり、ぼられているとわかったら、この三つ星寿司店に行く人はいなくなるような気がする。

皮肉っぽい言い方をするが、自分は一流グルメだと自称する人たちは、決して原価のことは気にせず、ひたすら値段の高いものだけを飲み食いし続けることだ。そして、決して誰かに騙されているなんて考えないことだ(「これは伊勢海老です。」と言われたら、伊勢海老だと思って食べることだ。たとえそれが実はザリガニだとしても。)。

今日は今年最後ということもあり、もう一つ書いてみたい。

池上彰さんがこの頃頻繁にテレビに出ている。政治、経済、社会にわたる様々なことに関して、わかりやすく我々に解説してくれる。本屋に行っても、池上さんの書いた本がたくさんあって、よく売れているらしい。でも、でも、私はそろそろ飽きてきた。

以前、○×式の脳力トレーニングというのが流行った。また、最近では、テレビのクイズ番組で、偏差値の高い大学を出たタレントなどが知識の量を争っている。確かに、知識の習得は大切なことだと思うが、我々大人からすると、そんなことは学生さんがやってくれよ、そんな気がする。

作家の五木寛之は以前、日本は確かに豊かな国になったが、反面、心の貧しい国になってしまった、今の日本に一番欠けているものは人間らしい感情だ、ということを言っていた。流行りの脳力トレーニングもいいが、本当に必要なのは情感トレーニング、これを彼は情を養うということで「養情」と表現した。なるほどなあ、と思う。

いつまでも、学校の延長線上で、知識のある人間が偉く、知識の少ない人間はアホ、そういう決め付けはもう止めにしたらいいと思う。大人になるとわかるが、社会生活上必要なのは、そこそこの知識、そして、そこそこの知識よりもっと必要なものが「生活の知恵」なのである。テレビ局もそろそろ、「養情」番組に力を入れたらどうだろうか。


今年も、私のブログを読んでいただき、ありがとうございました。来年は、今年より記事をもっと書きたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。それでは皆様、素晴らしい新年をお迎えください。

karubi

小雪舞うイブ、日本の道路は渋滞しません。 [時事]

1290780939.jpg二、三年前まで、仕事で私はよく中国に出張した。どうだろう、少なくても30回以上は行ったと思う。そのなかで一番回数が多かったのは、やはり首都北京だった。今でこそ空の玄関口である北京首都国際空港は近代的で世界的規模の空港になったが、それ以前は小さくて粗末な建物の空港で、憲兵の姿も多く、多少の恐怖感さえあった。

空港から市内へはタクシーで行くのだが、最近は、市内に入ると交通渋滞が酷く、大気汚染で街全体が霞んでいることもあり、タクシーが市内に入ると暗澹たる気持ちになることもあった。

北京市政府は今般、深刻化する市内の交通渋滞を緩和するため、来年一月から、新車登録台数を月平均2万台とすると発表した。現在は月10万台前後の新車登録があるらしいが、この対策が実行されると、一般市民は自由に新車を買えなくなるわけだ(日本では、到底考えられないことだ。)。それにしても、10万台を2万台にするというのはなんとも大胆で、中国らしいと言えば中国らしい。

なぜ、交通渋滞が起こるのか。中国に行かれた経験のある方ならご理解してもらえると思うが、一言で言えば、中国は道路整備が極めて不十分なのである。日本では、不要な場所にまで道路を建設するのは税金の無駄遣いだとよく批判されるが、それはさておき、日本列島は都会から田舎の隅々まで、道路網が整備されている。これに対して、日本の26倍程度の広大な国土を有する中国の道路整備はかなり遅れているのが実情だ。

新車の登録台数が制限されると、日本の自動車メーカーやディーラーの販売に暗い影を落とすことになるのは必至だろう。中国は巨大マーケットだから、これからは中国、中国と多くの人が言っているが、中国には思いもかけない「落とし穴」がたくさん待ち構えていることを、失敗した中国ビジネスを通じて、私は学んだ。今回の北京市政府の決定も、「落とし穴」の一つのような気がする。

さて、今夜はクリスマスイブ。これから赤坂に出かけるが、予約状況は相変わらず芳しくない。お客さんがあまり来ないようであれば、自分がお客さんになって食べまくり、飲みまくりをやって売上貢献しよう。それから、新宿に行って今夜は朝まで踊ろう、否、朝まで飲もう。

写真は、タレントの小雪。映画「ノルウェーの森」で主演した松山ケンイチとの同棲を解消した?との報道を読んだが、小雪さんって美人なのかどうか、以前から謎なんです。



私、種の保存本能なく、人間失格です。 [時事]

IMG_0603.JPG知り合いのおじいちゃんの家に行くと、必ず見せられるものがある。それは、その家の家系図。他人の家の家系図を見せられても面白いことはないのだが、いいおじちゃんなので、うん、うん、と頷きながら毎回同じおじいちゃんの説明を聞いている。

最高裁は先日、行政書士の資格を持たない者が家系図を作成して販売したことに関して、一審、二審の有罪判決を覆して逆転無罪を被告に言い渡した。家系図を作成できるのは行政書士法にもとづいて行政書士しか出来ないという事実を初めて知ったが、それよりも、家系図の作成を依頼する人が結構存在することに私は少し驚いた。

歴史の浅い北海道で生まれ育った私は、自分のルーツは何だったのかとか、家系図を作りたいとか、そういったものに関心がない。「ルーツ」という映画が昔ヒットしたときに、自分のルーツ探しがブームになったことがあったが、そのときも私は自分の祖先がどこから来たかなんて、全く興味がなかった。

さて、去年、今年と、二年続けて私の部下が結婚した。二人ともアラフォーの男性で、去年結婚した男性には今年、子供が生まれた。こういう光景を身近に見ていると、結婚して子供を作り子孫を残すという行為は、人間が他の動物と同様に有する、種の保存のための本能的、自然的行為のような気もする。その点からすると、ルーツという自分の過去に関心がなく、また、結婚して子孫を残すという自分の未来にもあまり関心がない私は、今の自分だけが大切であって、過去と未来のことはどうでもいいという「歴史無視」の人間であって、太宰治の言葉を借りれば「人間失格」なのかもしれない。

さて、明日はクリスマスイブ。ウェザーニュース社のアンケート調査によると、クリスマスを「超楽しみ」「楽しみ」にしている人は全体の64%で、3人に2人はクリスマスを楽しみにしているという結果が出た。思ったよりも、日本人はクリスマスが好きなようだ。

明日の夜、私は多分、赤坂の店舗にいると思う。こういう商売をしてみると、クリスマスもお正月も関係がない。ただ、正直言うと、明日の夜は予約が少ない。クリスマスはやはり和風ではなく、洋風のレストランで、そういうことなのだろうか。

写真は、定点観測視点、新宿通り(三越前)。

「オカマ疑惑」を振り払い、「月並みな人間」になる。 [時事]

index.jpg私の師走は、風邪のスタートとなった。昨日は身体がだるくて鼻水が絶えず、赤坂の店のほうは従業員に任せ、「現場監督」の私は一日休暇をいただいた。慣れない仕事で疲れもあったのかもしれないが、それよりも、緊張感がなく精神がたるんでいたことが風邪をひいた原因のような気がする。

さて、昨日、家でボーッとしながらテレビを観ていたら、私の好きなミスター・マリックさんが出ていた。彼の超魔術はもちろん素晴らしいが、超魔術よりも私が好きなのは、彼の丸みを帯びたやさしい喋り方と、偉ぶらない態度なのだ。そういえば先日、新宿ゴールデン街でバーを経営するある女性から、私はひょっとしたらオカマではないのか、そんな指摘をいただいた。その理由は、私のおっとりとした喋り方にあるらしい。ここで断言するが、私は決してオカマではありません。

私の「オカマ疑惑」はどうでもよいのであるが、私の好きなマリックさんが番組のなかで自分の半生などを振り返って、「月並みな努力では、月並みな人間にしかなれない。」、そんな趣旨の話をされた。なるほど、超魔術界のリーダーたる地位を築くには、血の滲むような努力がマリックにあっことは想像に難くないが、でも、でも、マリックさんの言うこともわかるが、少しだけ異論もあるなあ、正直そんな感じがした。

私が今の会社に入った昭和59年に、渡辺和博が著した『金魂巻(きんこんかん)』という本が大ヒットした。同じ職業の人間を、生まれ育ちがよく、有名大学を卒業して高収入を得る「マル金」と、そこそこの大学を出て努力をしてはいるが、いつまでも貧乏な「マルビ」の二種類に分け、世の中にあるどうすることもできない不条理のようなものを、イラスト入りで皮肉たっぷりに書いたのが『金魂巻』で、「マル金」「マルビ」はその年の流行語大賞を獲得した。

要するに『金魂巻』は、「努力はダサく、生まれ育ちに勝てない。」、そう言っているのである。今、市川海老蔵暴行事件が報じられているが、ある報道によると、彼は暴走族のメンバーに向かって「俺は人間国宝になる人間。お前らとは違う。」そういう発言をしたという。本当に生まれ育ちのいい人間ならそんな暴力的な発言はせず、どちらかと言えば「おっとり」しているものだと思うが、それはさておき、海老蔵が吐いたとされるこの発言は『金魂巻』が言わんとしたことの「実例」のようになってしまった。

「月並みな努力では、月並みな人間にしかなれない。」、確かにそうかもしれない。でもよく考えてみれば、ほとんどの人間は「月並みな努力」さえしてないのではないだろうか。自分のことを考えてみても、「月並みに努力してます。」と胸を張れるものなんて一つもない。結論を急ぐ。私は、「月並みな人間、それで結構ではないですか。」、そう言いたいのである。月並みな人間であることは悪いことではないし、もっと言えば、月並みな人間であればこの世の中「御の字」だとさえ思う。

いつも書いているが、世の中で成功する人はほんの一握りの人達だ。どうだろう、多分、全体の1%位だろうか。総人口が1億2千万人とすれば、120万人の人達が成功者、その他の1億人以上の人達は「月並みな人」ないし「月並みな人以下」なのである。世の中、そんなものではないだろうか。「みんな、月並みでいいじゃないか。」、私ならそう言う。

このところ写真も撮っていない。市川海老蔵の話が出たので、奥さんの写真でも載せようと思ったが、あまり好きではないので、長谷川理恵さんの写真を。彼女、22歳年上の神田正輝と交際中だとか。神田正輝も元気だね。



難しいことはさて置き、厚岸産の生牡蠣をご賞味あれ。 [時事]

IMG_0547.JPG今日はいきなり本題。本題とは、裁判員制度の話。

横浜地裁で昨夜、裁判員制度が始まって以来初めて、被告に死刑が言い渡された。いつかこの日が来ることはわかっていたから、死刑が言い渡されたこと自体には驚かなかったが、私が驚いたのは、死刑の主文が言い渡された後、裁判長が被告に「裁判所としては被告に控訴することを勧めたい。」と極めて異例の呼びかけを行ったことだ。

私は今から2年半以上も前から、裁判員制度には反対であることをこのブログで書いてきた(http://karubi53.blog.so-net.ne.jp/2008-03-13http://karubi53.blog.so-net.ne.jp/2009-01-09など)。反対の理由はいろいろあるが、一言で言えば、被告人の人生を左右する「裁判」という極めて厳粛で専門的な法律手続きに、法律のド素人が関わることはおかしい、そういうことだった。

陪審員制度があるアメリカでは、死刑などの重い評決を行った陪審員(一般国民)は精神的に追い詰められることが多く、「心のケア」が必ず行われているという。日本でも、死刑やそれに準ずる重い判決に関わった裁判員に対して「心のケア」が必要であることは、専門家が指摘している。

でも、これは実におかしなことだと思う。なぜなら、もしこれが本当なら、裁判員制度というのは、国民に精神的負担をかけることで成り立つ制度ということになるからである。一方、プロの裁判官の仕事は被告人を裁くことがあるから、たとえ被告人に死刑などを言い渡しても、そういうことには慣れているから、プロの裁判官の精神的負担は裁判員に比べると格段に小さいに違いない。

「裁判所としては被告に控訴することを勧めたい。」と言った裁判長の真意は何だったのか。そもそも、「犯行はあまりに残虐で非人間的」と明確に述べて死刑判決を言い渡しておきながら、「どうぞ控訴してください」というのは、どうにかしている。一説には、裁判長のこの発言は、死刑判決に関わった陪審員を気遣ったものということだが、そんなことをするくらいなら、裁判員制度なんてないほうがスッキリするのである。

そうでないと、裁判員制度で死刑判決が出るたびに、「どうぞ控訴してください」と裁判長は被告人に呼びかけなければならなくなる。そんなバカな話はない。裏を返せば、裁判長のこの発言は、裁判員制度の弱点(というより「欠陥」)を図らずも示す結果になったように思う。

さて、写真は厚岸産の生牡蠣。赤坂店で、今月29日から出します。毎日、厚岸から直送します。海のミルク、どうぞご賞味ください。

こんなに辛いことばっかりあるのに、どうして毎日朝9時に会社に行くんだろうね [時事]

IMG_0271.JPGブログの更新、またまたさぼってしまった。時間がないわけではないのだけれど、カッコよく言えば、何かに追われているような感じで、精神的に余裕がないのだ。何に追われているのかというと、それはもちろん、来月1日にオープンを控えた飲食店の準備作業に追われているのだ。

金曜日、注文していた食器、調理器具、その他もろもろの必要品が一斉に店舗に届き、終日、荷解きと食器などの洗浄作業に追われた。そのせいで、昨日の朝起きたとき、情けないことに、肩、手首、腕、腰、ふくらはぎなど、全身に痛みを覚え、まさに満身創痍といった感じだった。運動不足のツケがこんな場面で回ってきたのだ。

さて、今日も準備のために赤坂に行ったのだが、その前に、蟹サラダ用の食器がまだ揃っていなかったので、新宿高島屋に寄った。新宿駅東口を出て高島屋を目指しながらちんたら歩いていたら、私の後ろをしばらく歩いてきた30代と思われる二人組みの女性のうちの一人が「こんなに辛いことばっかりあるのに、どうして毎日朝9時に会社に行くんだろうね。」と私に聞こえるような声で喋るのが聞こえた。

どんな辛いことがこの女性にあるのかもちろんわからないけれど、プライベートも仕事も嫌なことばかり、上手く行っていない、そんな感じがなんとなく伝わってきた。


昨日テレビを観ていたら(番組名は忘れた。)、ユニクロ上海店のオープン準備で苦労する日本人店長の様子が放送されていた。正確な数字は忘れたが、オープンのために採用した約300名の社員のうち、オープン前におよそ2割の社員が退職してしまい、若い日本人店長が頭を抱えるという場面があった。社員の退職理由は、深夜まで勤務が続いてプライベートな時間が持てない、給料のいい他の会社を見つけたなどだったが、日本では多分、同じような事態は決して起きないように思う。なぜなら、日本人は「自分のため」よりも「会社のため」を優先する国民だからだ。

新宿でたまたま出会った女性の発言を聞き、また、ユニクロ上海店オープン前に平気で辞めていく中国人の姿を見て、「幸せ」について改めて考えさせられた。

「幸せ」に「働くこと」をからめらがら、私の考えを少し整理してみたい。まず、「働くこと」についてであるが、「人間はなぜ働かなければならないのか」という問いに対して、私は以前から、「人間はもともと、働くようになっている。特に理由はない。」と主張している。よく、ビジネスで成功した人たちが「何故働くのか」とか、「何のために働くのか」、そういう類の本を書いているが、そこにどんなにもっともらしい答えが書いてあっても、私の答えは実にシンプルで、繰り返しになるが、「人間はもともと、働くようになっている。特に理由はない。」、その一行で済む。

「私は仕事に生きています。」「私の趣味、生きがいは仕事です。」と話すビジネスマンがたまにいる。昔の日本映画に、出世はしなかったが、定年まで会社一筋、仕事一筋で真面目に働いてきた夫が退職してその日、家に帰ると、「長い間、お勤めご苦労様でした。」と言って妻がゆっくりと夫に瓶ビールを注ぎ長年の苦労を労うというシーンがある。「勤め上げる」という言葉があるが、少し前までの日本には、会社勤めで滅私奉公をしながら定年まで働くことを美徳とする考え方があった。

不満を持ちながらも、仕事に生きる、そういうことは決して悪いことではないと思う。何度も繰り返すが、人間はもともと働くことを宿命付けられているから(なかには、大金持ちの家などに生まれて、働かずに生きられる人間もいるにはいるが、それは一握りである。)、働かない人間よりも、嫌々ながらでも働く人間のほうに、私は好感を持つ。

新宿で出会った30代の女性も、会社に毎日午前9時に出勤することに疑問を持ちながらも、多分明日も、午前9時前には会社に行って「おはようございま~す」と元気に挨拶しているに違いない。では、果たして、嫌々ながら毎日出勤していることの女性は果たして「幸せ」なのだろうか。

ユニクロ上海店で退職した社員(仮に中国社員と呼ぶ。)は、新宿の30代女性(仮にAさんと呼ぶ。)とは対照的だ。Aさんは不満を持ちながらも、いろいろなことを総合的に判断して(「総合的」というのは本当に便利な言葉だ。)、結局は自分の利益を後回しにして、「会社のため」「世間体があるから」という理由で会社勤めを続けている。これに対して中国社員は、「会社のため」「世間体があるから」の優先度は極めて低く、彼らの最優先事項は「自分の幸せ」という点にあるに違いない。

中国社員の退社する理由の一つに、「給料のいい他の会社を見つけたから」というのがあったと書いたが、この理由で辞めた男性中国社員は、退職することを日本人店長に告げた正にその日に、新しい会社にすでに出勤していたのである。つまり、事前に何の相談もせずにいきなり退職を申し出て、その日のうちに別の会社に就職していたのだ。こんなことは、日本ではまず考えられない。「幸せ」と「働くこと」について、日本人と他の国民との間にはかなり大きな開きがある、そう考えざるを得ない。

結論であるが、多くの日本人は、自分にとって何が「幸せ」なのか、そういうことをあまりにも意識しないで暮らしているのではないだろうか。少しでもお金持ちになること、それが自分の「幸せ」だと漠然と考えている人が多いのかもしれない。でも、その目標に向かって黙々と具体的に努力し目標を実現できる人は、ほとんどいないと思っていい。だから、そもそもお金持ちになれないのなら(ほとんどの人はお金持ちになれない、厳しい現実があることを認識すべきだと思うが。)、これも以前から書いていることだが、我々が見つけるべき「幸せ」は「一人遊びを見つけること」「安く済む自分なりの楽しみを見つけること」だと思う。日本人に、「あなたの一人遊びは何ですか?」「あなたの安く済むあなたの楽しみは何ですか?」と聞くと、ほとんどの人は多分、答えられないのではないかと思う。

勘であるが、日本人以外の国民は、「一人遊び」「安く済む自分なりの楽しみ」といった「幸せ」探しがとても上手なような気がする。「本を読むこと」「料理をすること」「ガーデニングをすること」「家族を愛すること」、そういった日常的な自分の楽しみのうちに小さな「幸せ」を見出すテクニックに長けているような感じがするのだ。これに対し日本人は、「幸せ」をあまりにも「働くこと(言い換えれば、「お金」かもしれないが。)」のなかに見出そうとするから、冒頭のAさんのように、「こんなに辛いことばっかりあるのに、どうして毎日朝9時に会社に行くんだろうね。」といった言葉が出るようになってしまうのではないだろうか。

長々ととりとめのない文章になってしまったが、久々の更新ということで、ご勘弁願いたい。写真は今日の新宿の様子。

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