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今までもこれからも、世の中はジェラシーがいっぱい。 [芸術]

520.jpg 7月3日から東京国立近代美術館でゴーギャン展が開催される。彼の代表作とされる「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(写真)が日本で初めて公開される。ゴーギャンといえば常夏の楽園タヒチである。そこで、どのくらい常夏なのかをタヒチ観光局のHPで調べてみたら、一年を通して最高気温が25度~30度であることがわかった。ここからは想像でしかないが、タヒチの夏シーズンである11月~3月と(タヒチは南半球にあるためこの時期が夏になる)、東京の夏シーズンである6月~9月とを比較してみたら、東京のほうが断然暑く、不快であるに違いない。

さて、明日からクールビズが始まる。環境省の呼びかけでクールビズがスタートしたのが今から5年前。東京でもかなり浸透してきたと思うが、大手企業の一部ではいまだに本格導入していないところもある(金融関係の企業に多いように思う)。こういう運動は「全員参加」「トップが範を示すこと」が肝要であるから、「わが社はやらない」「部長の私は個人的にやらない」というのは協調性を欠くことになる。某大手証券会社の担当者は、クールビズにもかかわらず部長が毎日ネクタイを締めてくるので、部下もそうせざるを得ないと嘆いていた。世界的に見ても高温多湿な日本の夏。もう何度も書いたが、クールビズに日本版アロハシャツを導入して、快適に夏を過ごしたらどうだろうか。

たまに政治の話でも。今月27日、麻生総理と民主党・鳩山代表による初めての党首討論が行われた。具体性に乏しく、党首討論の評価はイマイチのようだが、なかでも、鳩山代表が目指す「友愛社会」というのは私もよくわからない。彼はこう言っている。「私は友愛社会を建設する。これは古いが新しいテーマ。いま、社会における絆が切れてしまった。愛、絆のある社会、幸せのある社会、他人の幸せを自分の幸せと思える社会を創りたい。現在は、相手の幸せを妬み、不幸を喜んでいる社会。どうしてこうなってしまったのか。」。

この発言の後麻生総理も指摘したが、この発言はまず抽象的である。どうやったら鳩山代表の目指す友愛社会が出来るのか、それを説明する必要があると思うが、残念ながら何の説明もない。それよりも私がわからないのは、「他人の幸せを自分の幸せと思える社会」なんてどうやったら出来るのだろうか、ハッキリ言わせてもらえば、そんな社会はどう逆立ちしたって出来ない、私はそう思う。識者が指摘するように、他人の幸せ、栄光を妬む心、つまり嫉妬心が世界の歴史を作ってきた。それは世界を動かしてきた大人物ばかりではなく、大衆のレベルにおいても同じことだったのだ。「現在は、相手の幸せを妬み、不幸を喜んでいる社会。どうしてこうなってしまったのか。」と言うが、これは今に始まったことではなく、太古からそうであったのだし、これからも変わらないのである。別に、自民党や麻生総理がそうしたわけではない。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。芸術や文学のテーマがこのタイトルに集約されているように私は思う。作品もいいが、タイトルはそれ以上に素晴らしい。鳩山さんは政治ではなく、こちらの分野のほうで活躍できそうな気がする。

ああ上野駅、堀北真希ちやんの胸にはでっかい夢がある。 [芸術]

DSC_0072.JPGDSC_0064.JPGゴールデンウィークは今日から本格化する。私は久しぶりに上野に行くことにした。上野といえば美術館、上野動物園、アメ横あたりをイメージするが、上野といえばズハリ「上野駅」とおっしゃる年配の方々も多いのではないだろうか。ご存知、映画「三丁目の夕日」で、東京の小さな町工場鈴木オートに集団就職で上京した六子(堀北真希)が最初に降り立った駅が上野駅だった。

集団就職という言葉を知らない方も多くなったと思うが、戦災で焼け野原になった首都東京の労働力不足を解消するために、東北地方、北陸地方などの中学生が列車に乗って集団で上京し、東京の個人商店や零細企業に就職することを集団就職といい、昭和29年に始まり、昭和50年まで続いた。労働力不足解消の切り札として期待された彼らは当時「金の卵」と呼ばれた。そして、初めての東京で不安を抱えながら新生活をスタートさせた「金の卵」たちの応援歌として青森県出身の歌手、井沢八郎が歌ってヒットしたのが「ああ、上野駅」だった。「・・・お店の仕事は辛いけど 胸にゃでっかい夢がある」。

その上野に行ってきた。大改装され開放的な建物となった上野駅にはもはや集団就職の頃の面影はない(写真)。今日は最初に東京都美術館(写真)で開かれている「日本の美術館名品展」を観てきた。日本各地の有名美術館が所蔵する名作が一堂に会したもので見応えがあった。なかでも、ポール・デイヴォーの「海に近い」を私は気に入った。

DSC_0066.JPG東京都美術館のすぐ隣には上野動物園がある。来園者数ではあの旭山動物園に次ぐ第二位と甘んじてはいるが、日本最古の動物園としての風格は今も変わらない。上野動物園といえば何と言っても昭和47年に日中国交正常化を記念して中国から贈られたジャイアントパンダのカンカンとランランであろう。国賓並みの待遇を受け、愛くるしい仕草や表情は一気にパンダブームを引き起こした。ただ、残念ながら今はジャイアントパンダを見ることはできない。動物園に入るとゾウ(写真)、シロクマ、ペンギン、トラなど様々な動物を見ることができて楽しいのであるが、檻や柵のなかにいる彼らの姿を見ていると、「君たち人間も社会という「檻」のなかで大変だね」という彼らの声が聞こえてきそうだった。

DSC_0075.JPG上野動物園を後にして、庶民の街、アメ横に向かった。なんでも揃う、なんでも安い、それが一般的なアメ横のイメージかもしれないが、酒飲みの私にとってアメ横は昼間から大衆酒場で酔える街という側面もある。詩人で酒場放浪家(?)の吉田類さんが「大統領」(写真、この店は大統領の支店)という大衆酒場を紹介している。ガード下のお世辞にも綺麗といえない店内の上をときたま列車がガタンガタンと通り過ぎる。これがなんとなく子守唄のように聞こえて心地よい。

今日の締めは東上野にある焼鳥屋「二羽」。二年ぶりに行った。有楽町ガード下の焼鳥屋に通っていたとき、ここのマスターはあるお店で美味しい焼鳥を焼いていた。その彼は3年前に独立して奥さんと一緒に上野で焼鳥屋を始めた。「二羽」というのはもちろん、マスターと奥さんのことである。久しぶりということもあり、相当飲んだ。へべれけである。酔った勢いで今この記事を書いているので、誤字脱字は勘弁してください。   

名古屋のディープな夜、キンサンの夜は更けていく。 [芸術]

IMG_0092.JPG久しぶりのプライベート旅行。土曜日、東京駅から新幹線のぞみに乗って名古屋に向かった。新幹線で名古屋までは1時間43分。お弁当を食べて本をパラパラめくっているうちにあっという間に着いてしまう、そのくらい名古屋は東京から近い。

ブログ仲間である美人日本画家、蝶々さんの個展「花と仏-蝶野麗子の世界」を観にいくのが旅の主な目的だ。それと、名古屋のディープな夜も旅程に含まれている(こちらのほうがメインだったりして)。土曜日午後4時少し前、地下鉄矢場町駅(みそかつで有名な「矢場とん」本店はこの駅が最寄り駅)と上前津駅の丁度中間あたりにあるギャラリーに到着。作品を一通り拝見してから、蝶々さんとギャラリーの美人秘書さんと三人で小一時間ばかり歓談した(美女に囲まれ幸福なひととき)。写真はそのときのもので、「祝福(シャングリア)」という私が一番気に入った作品と笑顔の蝶々さん。

忙しいなか、蝶々さんに名古屋の夜を案内していただいた。午後6時、ギャラリーの向かいにある焼肉屋「昇家」からスタート。ギャラリーにいるときに焼肉の話題になり、丸腸ホルモンは美味しい、そうだそうだと盛り上がっていたのだが、店に入って店員さんがいきなり「今日のお薦めは丸腸ホルモンです」と言うのでびっくり。さっそく二人前注文してジュージュー焼く。最近はカルビやロースよりもホルモンばかり食べていますと私が話をしたら、「ニックネームをkarubi(カルビ)からhorumon(ホルモノ)に変えたら」と蝶々さんから提案されてしまった。でも、当面、今にkarubiでいきます。

お腹も一杯になり、少し運動しなくてはいけないということで、通称女子大通にあるSMパブ「Jail」に向かった(身体が多少傷つく運動ですが)。カウンターに座って二人で飲んでいたら、突然ピシッ、ピシッと鋭い音が店内に響き渡った。見ると、男性客がパンツ一丁になって女王様にムチで打たれている。しばらくするとボッと店内に炎が上がったので今度は何が起こったのかと見てみると、男性の背中の一部に女王様がガソリンのようなものをかけて火をつけていたのだ。男性は熱くてうろたえているが、どうやらそれが嬉しいらしい。その男性、M男ちゃんなのです。私も服を着たまま蝶々女王様に一発ムチで打たれてみたが、やはり痛いものである。こんなことでは、M男ちゃんへの道は険しそうだ。

さて、仕上げはやはり名古屋の夜と言えば「キンサン」こと錦三丁目。疲れて帰りたそうな蝶々さんに無理を言ってクラブを紹介していただいた。お店は中央マンションにある「クラブセビリア」。なかなか重厚感のある落ち着いたお店で、かなり広い。私の席には和服を着たママさんが来てくれて、最後まで付き合ってくれた。名古屋の夜を満喫した私であったが、小腹が空いたのでどこか美味しい蕎麦屋でもないかとママに聞いたら、お店のすぐ横にいい蕎麦屋があると言ってそこまで案内していただいた。本当に恐縮してしまった。これで名古屋の夜はジ・エンド。

今朝、名鉄グランドホテルのフロントでチェックアウトとしようと思いエレベーターに乗ったら、西崎緑さんがいた。小柄で昔と変わらずかわいかった。西崎さんといえば何と言っても大ヒット曲「旅愁」だろう。テレビドラマ「必殺シリーズ」の挿入歌でもあった。年が私は同じということもあり、何となく親近感があった。名古屋旅行の最後で少し得したような気がした。

京都の紅葉、夜は大阪ネオン街の紅葉を楽しみました。 [芸術]

IMGP0402.JPGIMGP0397.JPG午前8時30分羽田発、伊丹空港行のJAL便は、定刻より少し遅れ、午前9時45分、伊丹空港に着陸した。急いでモノレールに乗り、蛍池で阪急宝塚線に乗り換えてようやく梅田に辿り着いた。今度は予定していた午前10時45分発のJR京都線・新快速にJR大阪駅から飛び乗り、その約30分後、30年ぶりとなる京都に足を踏み入れた。

京都では老舗の喫茶店、イノダコーヒ(コーヒーとのびない)で昼食をとり、駅前バスターミナルから清水寺に行く市バスに乗り込んだ。バス停前には紅葉狩り目的の観光客と思われる乗客が長蛇の列をなしている。天気のほうは残念ながら小雨模様。市バスに揺られること約15分。清水寺に最寄りのバス停で下車し、私は近くにあったKマートで念のためビニール傘を購入し、清水寺までの長い坂を登りはじめた。シーズンなのか、修学旅行の学生も多く、坂の両脇に並ぶ土産店で八ツ橋や千枚漬けなどを買う姿も見かけた。京都を歩くといたるところに元祖・八ツ橋の看板が見えるが、一体どれが本物の元祖なのかよくわからない。

さて、仁王門から三重塔を通り、ようやく本堂・清水寺に到着した。最初の写真は、右側が清水寺、左上は京都市内であるが、天気が良ければ鮮やかなブルーが写ったのに残念である。2枚目の写真は、清水の舞台から眼下を見下ろしたときの写真である。紅葉ではないが、皆さんご存知の音羽の滝も写してみた(下の写真)。音羽の滝は長寿、恋愛、学業などに御利益があるとされ、この清らかな水が「清水寺」の由来になったとも言われている。ちなみに清水寺は、ユネスコの世界遺産に登録されている。IMGP0405.JPG

次は高台寺へ。高台寺に着くころ、ようやく青空が見え始めた。高台寺は豊臣秀吉の菩提を弔うために建立され、ねねの寺として親しまれている。ここで撮った写真が下の2枚。IMGP0418.JPGIMGP0427.JPG

さて、日頃の運動不足のせいか、アップダウンの坂道を歩いて息が上がったので、予定より少し早めに京都のほうは切り上げた。再びJR京都線に乗って大阪に戻った。心斎橋のビジネスホテルに午後4時頃チェックインし、体制を整えてから午後6時前、千日前の大衆居酒屋「正宗屋」に向かった。まだ午後6時過ぎだというのに店内は満席状態。別の店にしようかと思ったが、美人のお姉さんが「おにーさん、一人でっか」と声をかけてくれたので、帰るに帰れなく、仕方なく少し待つことにした。ほどなく狭いカウンター席が一つ空き、両脇でメートルが既にかなり上がっているオジサン(私よりかなりオジサン)に「すみません」「すみません」と声をかけて座ってから、酎ハイを注文した。この店のイチオシは何といってもどて焼き(写真)。どて焼きとは、牛のスジ肉を味噌でじっくりと煮込んだ、大阪生まれの食べ物。3本で330円、安くて旨い。この他に生ウニ、茶碗蒸しを注文し、30分くらいで店を後にした。IMGP0428.JPG

次に向かったのは法善寺横丁にある、「元祖串かつ だるま」。新世界に本店がある串かつ屋の法善寺店である。大阪で何軒も串かつを食べ歩いたが、この店の串かつはかなり旨いと思う。海老、レンコン、玉ねぎ、きす、ウインナーなど6本食べ、レモンサワーを2杯飲み、〆て2千円。値段のほうもリーズナブルだ。写真は、法善寺横丁の入口と、だるま店内のメニュー表。ちなみに、この店に入る前に、近くにある水掛不動に商売繁盛と恋愛成就を願い、賽銭をしてまいりました。
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今日は朝早くから疲れたのでこれで帰ろうかとも思ったが、何となく物足りない。ホテルまでぷらぷら歩いていたら、旨そうなうどん屋を見つけた。「川福本店」。全くの偶然だったが、いい店を見つけた。きつねうどん(写真)を注文してカウンターの上に色紙が何枚かあるので署名を確認したら大平正芳、宮澤喜一、鈴木善幸など、歴代総理大臣が書いた色紙ばかりだったのである(達筆すぎて読めない総理大臣の色紙もあった)。由緒正しい店であることが判明したのだが、問題はうどんである。御覧のように、あげが大きい。そして、甘い。麺は讃岐うどんほどコシが強くないが、それでもしっかりしている。スープのほうは関西風にしては濃い味がする。私好みのきつねうどんである。それからホテルに帰り、爆睡した。IMGP0446.JPG

明けて今日、土曜日。午前中少し時間があったので、新世界、通天閣まで行ってきた(写真)。まだ朝の10時だというのに串かつ屋は営業していて、酒を飲んでいる客もいる。この一帯は新世界というよりは別世界という感じがする。昨日も串かつを食べたので今日はよそうと思ったが、誘惑に勝てず、「やまと屋」という店に入って6本ばかり朝から食べてしまった。実はその1時間前くらいに、朝食を済ませたばかりだっのに。食い倒れの大阪だ、気にしない、気にしない。IMGP0449.JPG

伊丹空港では赤福を買って飛行機に乗り込んだ。いつも思うが、どうして4個入り、ないしは6個入りの赤福が置いてないのだろうか。一人で8個入りを完食するのは極めて苦しい。赤福さん、何とか考えてくれませんか。

一泊二日の短い旅行であったが、内容盛りだくさんで楽しかった。それに、2日間で1万円も使っていない。また来年も大阪に行こうと思う。

肛門性交訓練、2日目はカリまで挿入です。 [芸術]

linno20.jpgヤンキースの松井秀喜選手がヒザの手術を行い、ヤンキースに来季残留できるかどうかは微妙な情勢らしい。松井選手には来季もストライプのユニホームを着てほしいと私は願っている。私は松井選手をジャイアンツにいたときから応援していたし、今も日本人大リーガーのなかでは彼を一番応援している。イチロー選手も松坂大輔投手も日本人として誇りに思う大リーガーであるが、正直言うと、イチロー選手が年間最多安打記録を打ち立てても、松坂投手が日本人大リーガーとして最多勝利を挙げても、あまり興味がないのだ。私の関心事はいつも松井選手だけにある。

松井選手は私がファンであるジャイアンツ(もちろん日本のジャイアンツ)にいた選手であるが、イチロー選手はオリックスにいた選手であるとか、松井選手は試合を決める長打力をもっていて華やかさがある選手であるが、イチロー選手は単打が多く面白味に欠ける選手だとか、そういう意味で松井選手を応援しているわけではない。私も自分自身ではっきりとした理由がわからないのであるが、もしあるとすれば、彼が見せる日本人の謙虚さみたいなもののような気がする。人種がどうあれ、尊敬される人間はどこにおいても尊敬される、そうことなのなのだろうと思う。もし、アメリカから帰ってくることになるのであれば、是非ジャイアンツでもう一度プレーをしてほしい。

さて、先日テレビにかわいい子が出ているなと思ってしばらく観ていたら、なんとニューハーフの現役女子大生だった。その「女性」は、椿姫彩菜(つばきあやな)さんで(写真)、現在はモデルやタレントとして活躍しているという。そういえば、松浦亜弥のモノマネでブレイクした、はるな愛さんもかわいらしい「女性」だ。はるな愛さんはニューハーフの世界大会で4位に入賞した世界が認める美人ニューハーフだ。椿姫さんやはるなさんのような「美女」に新宿歌舞伎町あたりのホテル街でもし声をかけられたら、するするするっとついて行っちゃうかもしれない。

三橋順子さんも元男性であったが、現在は女性として生きている。しかしながら三橋さんは自分自身のことをニューハーフと呼ぶことをせず、性別越境(トランスジェンダー)と呼び、日本におけるジェンダーやセクシャリティーの歴史を研究し、大学などで教鞭もとっている。その彼女の最新著書『女装と日本人』が面白い。

特に、江戸時代にいた「陰間(かげま)」という「ニューハーフ」の話が興味深い。陰間とは、お座敷で客の酒席にはべり、芸能を披露し、男性客とセックスを行う女装の男性(その多くは少年)のことである。そもそも陰間は、歌舞伎の世界で、舞台に立てず生計が立たない女形の男性が、生活のために接客サービスを行ったのが始まりと言われている。ただ、陰間を買ったのは男性ばかり未亡人、独身者の女性などもいた。陰間が男性客とセックスする様子は、春画として鈴木春信や奥村政信などの浮世絵師も描いている。

さて、ここからは18禁である。それでは、どのように陰間を育てたのか。陰間を育てるということは、言い換えれば「肛門」を育てるということである。まず、行儀や芸能を仕込みながら、肛門拡張の基礎訓練を行う。その方法は、お湯で肛門を温めた後、棒薬(木の棒に綿を巻き潤滑性のある油薬を塗ったもの)を差し込んで拡張する。12歳を過ぎると、今度は実物のペニスを使って本格的な肛門性交の訓練に入る。1日目は先端だけ、2日目はカリまで、3日目は半分まで、4日までは根元までというように徐々に慣れさせていく。こうやって、セックスのサービスができるプロの陰間を育てたのだそうだ。

当時刊行されたある本には、潤滑油の作り方とか、セックスに不慣れな客が来たときの体位はどうするかとか、巨根の客が来たときの対応方法とか、ハードなセックスを要求する客がきて肛門裂傷を負わされたときの対応方法とか、陰間が客とセックスをするうえでの知識、技術、トラブル対処法などが記されていたそうだ。日本人は本当に研究熱心な民族だと改めて思う。

今日は、松井秀喜選手の話から最後は肛門裂傷の話になってしまった。

さて、明日から北海道釧路に出張。近くの標茶町(しべちゃちょう)では今朝、氷点下を記録したらしい。寒そう!

飛んでイスタンプール、日本歌謡界のショパンの作品です。 [芸術]

51%2BeiI5zPyL__SS500_.jpgこのところよく雨が降る。それも尋常な雨の降り方ではない。昨夜家もあと5分くらいで着くというタイミングで滝のような雨が降り出し、背中に担いでいた布製のリュックサックの中まで雨が少し入ってしまった。雨に濡れて困るものもないなとタカをくくっていたら、甘かった。しばらくして携帯電話を覗いたら、画面が真っ暗になっている。電源スイッチを強く押し続けてもパワーが入らない。おそるおそるバッテリーを見てみたら水滴がたくさんついている。これがどうやら原因のようだ。明日会社に行ったらまた叱られるに違いない。というのも、携帯をダメにしたのはこれが2回目で、1回目は泥酔して失くしてしまったのである。

今午後8時過ぎであるが、どうやら雨はやんだようだ。作詞家のなかにし礼さんは先日古希(70歳)を迎えられた。私は彼の自叙伝的小説『兄弟』を読んでいっぺんに彼のファンになったわけであるが、彼の作品に「雨がやんだら」という名曲がある。歌ったのは朝丘雪路さんで、作曲は筒美京平さん。昨年作詞家の阿久悠さんが亡くなられたが、歌謡界で作詞家といえば阿久悠さん、なかにし礼さん、そして作曲家といえば筒美京平さんが「巨人」といっていいのではなかろうか。

筒美さんの作品で、私が好きなものをランダムに書き出してみる。南沙織「色づく街」「潮風のメロディー」、平山みき「真夏の出来事」、野口五郎「青いリンゴ」、中原理恵「東京ららばい」、庄野真代「飛んでイスタンブール」、少年隊「仮面舞踏会」、ジュディ・オング「魅せられて」、堺正章「さらば恋人」、大橋純子「たそがれマイ・ラブ」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」などなど。私と同年代の方なら、思わず口ずさんでしまう歌が数曲はあるのではないだろうか。このなかで、「魅せられて」「また逢う日まで」は日本レコード大賞を獲得している。

ジュディ・オング「魅せられて」は特に思い出深い一曲だ。札幌で浪人生活をしているときに、大晦日、銭湯の番台にあるテレビに映っていのが豪華な白いドレスに身を包んだジュディ・オングだった。今でも忘れない、1979年12月31日、私が19歳のときの日本レコード受賞曲だ。そのときの様子は以前のブログで書いたので参照してください
( http://blog.so-net.ne.jp/karubi53/2008-05-11 )。庄野真代は大ファンだった。なんとなくコケティッシュな感じが好きだった。「飛んでイスタンブール」は彼女の最大のヒット曲であるが、その他では「モンテカルロで乾杯」も筒美作品である。冒頭のジャケットは庄野真代の最新アルバム「REMINISCENCE」であるが、53歳になった今でも美貌は衰えていない。

筒美京平さんの作品は3千曲を超えているというから凄い。こうなると「日本歌謡界のショパン」と言っても過言ではないような気がする。昨年7月、筒美京平トリビュートアルバムが発売された。新宿高島屋のHMVのJ-POPコーナーの隅の方に行くと今も売っているが、トリビュートなので、歌っているのはオリジナルの歌手ではない。例えば、「魅せられて」は島谷ひとみ、「ブルー・ライト・ヨコハマ」は柴咲コウ、「たそがれマイ・ラブ」は徳永英明、「飛んでイスタンブール」は秋川雅史がそれぞれ歌っている。最後の秋川雅史(あの「千の風になって」を歌った方)が歌う「飛んでイスタンブール」はどんな感じに仕上がっているのか興味津津という感じがするが、大変申し訳ないというか、はっきり申し上げて「違う」ような気がするのであるが(聴いていないのでわからないが)。

酒と泪と男と女、大阪飲んで飲んで飲み倒れ。 [芸術]

午前11時30分羽田発伊丹空港行きの飛行機に乗って、2年ぶりに大阪までやってきた。今回の旅の目的はズバリ大阪居酒屋めぐり。それも梅田近辺の居酒屋を集中的にハシゴする。従って、大阪に来た時には必ず行く道頓堀は今回はなし。そして、大阪駅前ビルが今日目指すビルである。大阪駅前ビルは第1から第4まで4つのビルがあり、すべて地下でつながっていて移動が容易にできるようになっている。各ビルの地下1階と2階には居酒屋、立ち呑み屋などが多く入っていて、今夜は第1ビルから第3ビルまで居酒屋を1軒ずつ訪れた。

その前に、梅田新食道街にある串かつの「松葉」に挨拶がわりに立ち寄る。大阪に来るときはいつもこの店からスタートする。ソース二度づけ禁止のルールに従って、キス、若鳥2本、牛肉と生ビールを1杯いただいた。若鳥だけ2本注文したのは、ここの若鳥が特に旨いからだ。さて、ご存知のように、この店は客から注文を受けてもいちいち伝票につけない。食べ終わったら、料金毎に長さの異なる串を見て暗算でお勘定をしてくれる。では、飲み物はどう勘定するのか。それは、生ビールを1杯飲むと、瓶ビールの王冠が1つ客の前に置かれる。2杯飲めば王冠が2個置かれるわけだ。

松葉を出たのは午後5時前。少し顔を赤らめて外に出ると、会社帰りのビジネスマン、ビジネスウーマンがJR大阪駅などからどっと出てきた。早くも出来上がりつつあった私は眩しい太陽の下で多少気恥ずかしかったが、旅の恥はかき捨てである。顔が赤いことなどは気にせず、さっそく大阪駅前第1ビルを目指した。

IMG_0364.JPG1軒目は(正確にいうと2軒目であるが)は大阪駅前第1ビルにある大衆居酒屋「吉豊」(写真)。さっそく馬蹄型のカウンターに一人座り、レモンサワーと生レバー、たこぶつを注文した。まだ午後5時過ぎということで客は私以外に2人だけしかいなかったが、そんなことは構わずに、リュックサックを横の椅子に置いて、生レバーとたこぶつをいただいた。たこぶつは普通レベルだったが、生レバーは臭みがなくぷりぷりしていた旨かった。

IMG_0365.JPGさて、「吉豊」を出てから、早めの飲み過ぎ対策ということで、梅田のドラッグストアで買ったサクロンをアクエリアスで胃の中に流しこんだ。私の場合、飲み過ぎたときに一番効果があるのが、緑の胃薬サクロンをアクエリアスで飲むことなのである。さて、次は第2ビルを通り越して第3ビルに向かった。向かった先は居酒屋「丸岸」(写真)。ご覧の通り、焼酎の品揃えが充実している居酒屋である。しかしながら私はここでは梅酒をロックで注文した。梅酒というとチョーヤの梅酒くらいしか知らなかったが、この店には20種類を超える梅酒が揃っている。スッキリ味の梅酒を選んでもらい、肴は明太子と金目鯛の一夜干しの2品。店内には日活映画のポスターなども飾られていて、レトロ感が溢れたいいムードである。

IMG_0366.JPG胃薬を飲んだもののそれ以上に酒を飲んでいるおかげで、一向に酔いはなおらない。お腹のほうも完全に妊婦状態になっている。とても恥ずかしい。しかしながら、最後の一軒を再び目指さなければならない。場所は大阪駅前第2ビルにある立ち呑み屋「くし丸」(写真)。なんでもありの超庶民的な立ち呑み屋である。冷奴と串カツ2本(豚肉と若鳥)を肴に、レモンサワーをぐいぐいと2杯飲んだ。ところで、写真の右上をご覧いただきたい。逆さにぶらさがっているのはウイスキーではなく日本酒の一升瓶である。下の溜めの部分には1合分だけ酒が入る仕組みになっていて、客から注文を受けるとバルブを回し1合分を枡に注ぐようになっている。正直東京ではこういうのを見たことがない。さすが大阪人の知恵だなと感心した。

今日はどう考えてもカロリーの摂り過ぎである。でも、たまにはこういうのもいいだろう。ところで、大阪に来て改めて思ったが、大阪の言葉で一番気持ちいいものは「おーきに」ではないだろうか。「おーきに」とやさしく言われると、また飲みに来たくなるものである。

ダイエット、ダイエット、精神までダイエットになりますよ。 [芸術]

DSC_0049.JPG洋画家の野見山暁冶さんが描いた絵を、アート・ディレクターである中島竜志さんがステンドグラスの作品にした「いつかは会える」という作品が、今月オープンした地下鉄副都心線の明治神宮前駅の壁面に飾られている。そのことを今日放送された新日曜美術館で知った私は、さっそく初めての副都心線に乗ってその作品を観てきた(写真、縦3m、横10m)。こういうミーハーな行動を取るのは私だけかなと思っていたら、立派なデジタル一眼レフを持った中年の方が既に二人いらっしゃっていて、パチパチとシャッターを切っていた。ところで、放送の最後で野見山さんは次のようなことを言われて印象に残った。「人は一体なぜ絵を描くのかよくわからない。でももっとわからないのは、その絵を、大枚をはたいて買う人がいることだ」。

酒場詩人・吉田類さんのDVD「酒場放浪記 其の壱」を買ってきてさっそく観た。このDVDは、BS-iの人気番組であった「吉田類の酒場放浪記」で放送されたもののうちから、特に好評だったものを収録したものだ。「其の壱」では、都内の古き良き大衆居酒屋13軒が紹介されている。吉田さんはどの店でもよく飲み、そしてよく食べる。酒はホッビー、日本酒を主に飲み、肴はその店おすすめの料理、例えば煮込み、刺し盛り、マグロのぬたなどを豪快に平らげる。興が乗ってくると吉田さんは周りのお客さんと乾杯をはじめる。そうこうしているうちに、周りのお客さんからしっかり「おすそ分け」までいただいている。吉田流の酒場エンジョイ術のようなものかもしれない。

ところで、DVDを観ていてあることに気がついた。寒い時には熱燗、暑いときには生ビールを最初に吉田さんは注文する。酒の肴はその酒にあったものを基本的に選んでいる。当然と言えば当然のことなのかもしれないが、こういう飲み物に対する欲求、食べ物に対する欲求というのは、人間の身体の中から「必要があって」出ている信号のようなものではないかと思ったのである。

番組をご存知の方は承知されていると思うが、吉田さんは一晩一軒で終わることは決してない。2軒、3軒と大衆酒場のハシゴをするのである。そんなに飲んだり、食べたりしていると太ってしまうのではないかと心配される方がいらっしゃるかもしれないが、吉田さんは背が高くて中肉中背のジェントルマンという感じのオジサンなのである。そして、へべれけになって酒場を出た後は決まって、得意の俳句を一句ひねるという粋なことまでやってしまうのである。

ダイエットとかメタボ対策とか、飲んだり食べたりすることを人為的に制限することが本当にいいことなのかと思うことがある。酔っ払って疲れた朝にビタミンの多いジュースを飲みたくなったり、ときには精力をつけなければと焼肉やレバニラ炒めを食べたくなったり、残業が続いて疲れたときには甘いケーキを食べたくなったり、何かを飲みたくなったり、食べたくなったりするのは、想像するに、身体のバランスを維持するために身体が「そろそろ○○がほしいよ」という信号を出しているということなのではないかという気がするのである。だから、そういう信号が出ているにもかかわらず、ダイエットやメタボ対策のためという理由だけで「これを飲んではいけません」「あれを飲んではいけません」というのは、何となく、自然の摂理に反することをしているように感じることがある。

といっても、何事も程度問題というのがある。さすがに毎日焼肉では身体が参ってしまうだろうし、ダイエットの対極にある大食いというのもダイエットと逆の意味で如何なものかと思う。テレビでギャル曽根さんの大食いを見ていると、彼女の身体から「もうそんなに食べ物はいらないよ」という悲鳴が画面を通して聞こえてきそうである。まあ、結局、飲むことも食べることも自然体でいくということがいいのかもしれない。ダイエット、ダイエットとこればかりやっていると、人間の感情とか感性とか情緒とかいう精神的な部分までダイエットされてしまうような気がする。

時には娼婦のように、これから私はどこに行くのでしょうか。 [芸術]

(gauguin)-where-do-we-come-from.jpg「時には娼婦のように」。30年前に作詞家であり作家でもある、なかにし礼さんが作詞作曲した歌謡曲だ。「時には娼婦のように 淫らな女になりな 真赤な口紅つけて 黒い靴下をはいて 大きく脚をひろげて 片眼をつぶってみせな 人さし指で手まねき 私を誘っておくれ」と始まる歌詞は今読んでも大胆だ。なかにしさんの自伝的小説『兄弟』は名作だと思うが、これを読むとなかにしさんはいつも兄の借金の尻拭いをしてきたことがわかる。借金といっても億単位の巨額なもので、なかにしさんが書いた歌がヒットして少しお金がたまるとすかさず兄がそのお金を奪い取っていく。そんなことが、兄が死ぬまで繰り返された。

あるときお金に困っていたなかなしさんが書いた曲が「時には娼婦のように」であり、ヒット後にっかつで映画化され、なかにしさん本人が主役まで務めた。そこまで経済的に追い詰められていたということだろう。さて、なかにしさんは中国の旧満州で生まれ、8歳の時に日本に引き揚げ、北海道の小樽にやってきた。そのとき盛んだったにしん漁の様子を後日歌にしたものがこちらも名曲である北原ミレイ「石狩挽歌」である。なかにし一家はその後全国を転々とする。転校生として辛い思いをしてきたなかにしさんを救ったものが「音楽」との出会いだった。

さて、以前なかにしさんが出演したNHK「知るを楽しむ」という番組で、次のような印象深い話をされていた。「芸術家の人生は、自分探しの旅です。大人ぶって「そんな青臭いことを大真面目に言うな」と言う人もいるでしょうが、僕はそうは思わない。自分はどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのか。それ以外に芸術家のテーマはないとさえ思う。ですから僕は、自分のことしか書けないのですよ。」。

今日の新日曜美術館でなかにしさんがゴーギャンのファンだということを知って、この言葉の意味に合点がいった。なかにしさんが最も好きなゴーギャン作品が「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」(写真)なのだそうだ。ゴーギャンといえばタヒチであるが、夢見た楽園生活も貧しさからわずか2年で終了してフランスに戻っている。「我々はどこから来たのか」を含め、タヒチを描いた彼の有名な作品はほとんどタヒチ再訪時に描かれたものだ。「我々はどこから来たのか」はゴーギャンが貧困と病気で最も苦しい時期に描かれた彼の遺書代わりのような作品である。

中国旧満州という「異国」で生まれ、日本帰還後も数奇な人生を歩んできたなかにしさんは、ゴーギャンに自分の姿を重ねたことは容易に想像できる。いったい自分は何者なのか、そしてこれからどこに行こうとしているのか、芸術家なかにし礼さんの自分探しの旅はこれからも続く(私は実はなかにし礼さんのファンなのである。彼の作る歌も小説も好きであるが、なによりも彼の大人として腰の据わった態度、そして寛容な心構えが好きなのである。是非これからも第一線で活躍してもらいたいと願っている)。

今週は水曜日から土曜日まで、札幌と北見に出張する。札幌に入る21日から、札幌ではライラックまつりが始まる。ライラックは薄紫色の花を咲かせ、ほんのりといい香りを漂わせる。リラとも呼ばれ、この時期急に気温が下がることがあるが、これを「リラ冷え」という。なんとも美しい響きのある言葉であるが、この「リラ冷え」という言葉を一気に有名にしたのが、渡辺淳一さんが著した『リラ冷えの街』である。人口受精がテーマの小説だった。

今日新宿を半袖で歩いていたら汗が出てきた。もう二週間もするとクールビズが始まる。とにかくこのところ時間の経つのが早くかんじられる。年を取ったせいだろう。「我々はどこへ行くのか」とゴーギャンが言っているが、多分「あの世」でしょうね。でもこれって全然夢がないですね。失礼しました。

池田満寿夫、エロティシズムはイマジネーションです。 [芸術]

imgIkedaMasuoImage.jpg大学受験に失敗して、札幌の予備校に1年間私は通った。1979年のことだ、家の経済状況から二浪は絶対許されなかったので、私は自分なりに一生懸命勉強した。もちろん、浪人生に盆も正月もなかった。この年のお晦日のことは昨日の出来事のようによく覚えている。下宿の浪人生仲間がほとんど帰省するなか、私は年末年始も下宿にいた。12月31日の大晦日、夕方食事を済ませた後、下宿の近くにある銭湯に行った。午後8時を過ぎた頃だったと思う。銭湯は空いていた。なんとも寂しいお晦日だなと落ち込んでいたら、番台にある小さなテレビからジュディ・オングの「魅せられて」が流れてきた。どうもこの年のレコード大賞を獲ったらしい。華やかな衣装を纏った彼女は輝いていた。それに比べて今の自分はなんと惨めだろう。銭湯から雪道をとぼとぼ歩いて下宿に戻り、小さな机の蛍光灯を再びつけた。

前置きが長くなったが、ジュディ・オングがレコード大賞を受賞した「魅せられて」は、池田満寿夫原作の映画「エーゲ海に捧ぐ」のイメージソングだった。池田満寿夫はその2年前、原作の「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞していた。版画、絵画、陶芸、文学など幅広い分野で活躍し、若い頃から愛とエロスを過激に追求して女性の肉体を描いてきた池田満寿夫であるが、彼が最後に辿り着いたのはエロスとはほど遠い仏教の経典「般若心経」だった…. これが今日の「新日曜美術館」のテーマだった。

彼は「エロティシズムとは一種の想像力、イマジネーシェン」だという。先日、エロティシズムとは人間が死というものを意識するようになったときに初めて生まれたものであり、死を意識するようになったそのときから人間と他の動物は決定的に分岐したという話を書いた。「死の意識」とは「生の意識」のことでもあり、これは表裏一体のような関係にあると考えられよう。そうするとエロティシズムとは「生きること」そのもののであり、「生きること」とは彼の言葉を借りれば「想像力、イマジネーション」であるということになるのではないだろうか。

我々が最も知りたいこと、それは天才池田満寿夫が何故「般若心経」に辿り着いたかということだ。世の中のすべてのことは「無常」と教える仏教に、それまで愛とエロスをひたすら追求してきた芸術家がなぜ取りつかれたのか。実に興味深い疑問だ。彼は「般若心経を書いていると無心になれる。どんなことにも無心になる、これが仏教の教えで、いいところだ」と語っている。彼の「般若心経」の世界は陶芸作品を通して表現された。山梨県に自分の窯を作り、晩年は陶芸に没頭し死の直前まで作品作りは続けられた。陶芸で作られたある大きな仏塔を前に彼は、そこに「永続性」を感じると話していた。

私は番組を見ていて、池田満寿夫のエロティシズムの時代と般若心経の時代をそれぞれいくつかのキーワードで整理できるような気がした。それは、エロティシズムの時代=「動的」「即興性」「イマジネーション」、般若心経の時代=「静的」「永続性」「無心」ではないだろうか。そして、最大の疑問とされている、彼は何故エロティシズムから般若心経に行ったのか、その溝を埋めるものは何かということであるが、私は、それは取り立てて大袈裟な理由というものが彼にあったのではなく、60歳を前にして、一人の人間として自然に仏教に惹かれていったのではないかと思う。

作品は番組で紹介されていた1966年の「SPRING AND SPRINGS」。

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