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桜の森の満開の下、鬼が出てくるかも。 [高円寺]

IMGP0535.JPG今の会社に入って3年目くらいの頃の話。霞ヶ関にあった事務所に関係会社が一緒に入っていて、その会社に酒癖が悪いオジサンがいた。仕事中はいたって大人しい普通のサラリーマンなのだが、ひとたび酒が入ると別の人格が姿を現す。わめく、叫ぶ、暴言を吐く、暴力的になる、帰らない、とにかく手に負えないのだ。酒って人間をこんなに変えるものなのかなあ、彼の変身ぶりを見て初めてそう思ったものだ。

酒を飲んだ時の彼の言葉で印象に残っているものが一つだけある。「○○君ねえ、東京はとにかく人が多い。どうしてこんなに東京は人が多いのかなあ。」。そう言われても、私はどう答えてよいものかわからなかった。さて、人口のことであるが、ご存知のように、日本全体の人口はここ数年間1億2千7百万人台で、増減がほとんどない状態が続いている。ちなみに、今の人口の半分、つまり6千4百万人はいつ頃だったのか調べてみたら、1930年(昭和5年)、今から79年前だったことがわかった。

東京都の人口についても調べてみた。東京都の現在の人口は約1千3百万人。この人口の半分、つまり6.5百万人は1936年(昭和11年)、今から72年前からだったことがわかった。ところで、全国の人口が横ばいに推移しているなかで、東京都の人口はいまだに増え続けている。「どうしてこんなに東京は人が多いのかなあ」というオジサンの疑問はなかなか鋭いところを突いているかもしれない。

少子高齢化、人口問題を考えるときのキーワードであるが、高齢化に関し、世界一と言われる日本人の平均余命について調べてみた。現在の平均余命は女性86歳、男性79歳である。ちなみに、私が生まれた昭和35年の平均余命を調べてみたら、女性70歳、男性65歳と、今より女性は16歳、男性は14歳短かったことがわかった。

少子化の話をしだすと長くなるのでやらないが、高齢化に関して言うと、人間の平均余命は一体どこまで伸びるのかと思う。健康志向の強まりと医療の進歩、この両輪は人間を何歳まで生きられるようにするのだろうか。私なんかは、60歳くらいでパタンと行ってしまうような気がするし、それでいいと思っている。どうなのだろう、人間は長生きし過ぎではないだろうか。

平均して子供が二人、お爺ちゃん、お婆ちゃんは70歳までに死ぬ、こんなイメージで行くと世の中なにもかも上手く回って行くような気がする。私は子供二人のほうは貢献できないかもしれないが、70歳までにさようならのほうは貢献できるかもしれない。

さて、東京も桜が満開になった。といっても、桜の観測ポイントである靖国神社の桜が満開になっただけで、東京の桜全部が満開になったわけではない。私の住んでいるマンションの前にも大きな桜の木があって、ベランダに出て一枚撮ってみた(写真)。

桜というと気分はウキウキ、お花見でもしましょうということになるが、坂口安吾の「桜の森の満開の下」という寓話によると、お花見で盛り上がるというのは江戸時代以降のことで、それまでは、桜の満開の森の下は怖いところ、鬼が出るところだという言い伝えがあった。桜の時期になるとこの作品をいつも思いだす。それにしてもよく出来た作品だと思う。

村上春樹さん、私人ですか、公人ですか。 [高円寺]

IMG_0035.JPGニューヨークダウが380ポイント上げ、この流れを受けて日経平均も大幅上昇した。ニューヨークが上げた理由は、シティーの経営幹部が業績回復を示唆したからだ。一企業の動向がこれだけ株価を動かすのだから、マーケットというのは敏感といえば敏感だが、敏感すぎるといえば敏感すぎる。株価上昇の要因はもう一つある。それは、バーナンキFRB議長が時価会計の見直しについて言及したからだ。以前にも書いたが、アメリカ発世界不況の大きな要因の一つが時価会計制度だ。

時価会計と変動相場制を見直すべき、そう私は書いたが、最初のほうが現実的に動き始めたわけだ。時価会計が見直されるとどうなるのか。簡単に言えば、企業の決算がよくなる。例えば、1億円で買った不動産の時価が決算時に6千万円になったとすると、今の制度では差額の4千万円を損失計上しなければならない。もし、時価会計を行う必要がなくなれば、この評価減を損失計上する必要がなくなる。だから、その分だけ決算は良くなるわけだ(ただし、時価会計の見直し=廃止とは単純にはならないが)。

企業の経営状況がよくないから時価会計制度を見直すというのは本来、制度のあり方からすれば本末転倒なのかもしれない。しかしながら、企業が生きていく、ひいては国民が生きていくためには、たとえ一度決めた制度やルールであっても状況に応じて臨機応変、柔軟に対応することが肝心である。これはいい加減ということでは決してなく、いわば生活の知恵のようなものと整理すればよい。

さて、話は変わる。村上春樹さんがエルサレム賞を受賞し、現地に赴いて行った受賞スピーチが注目されたが、ガザ地区を攻撃して住民を多数殺害しているイスラエルが贈る賞は辞退すべきだという声がもともと一部にあって、帰国後、彼がこの声にどう対応するのか注目していたが、昨日発売された文藝春秋に「僕はなぜエルサレムに行ったのか」と題する彼の論文が掲載された。

エルサレムに行くことに悩み、そして今も自分の納得する整理ができていない、そんなふうに私は読んだ。村上ワールドを感じさせるところも少なくないが、文字がしっとりと紙に馴染んでいないと言うか、浮足立っている感じが全体にする。「自分の下した決断について、事前に弁明したり釈明したりするのは、もともとあまり好きじゃない」と村上さんは書いているが、なんとなく一生懸命弁明しているようにも思える。

いろいろ悩んだことは事実のようだ。でも最後は「小説家という資格で」エルサレムに行くことを決断した。エルサレム賞は、「エルサレム・ブックフェアに所属する賞であって、国家から招かれたわけでない」ので行くことにした、というようことも言っている。つまり、小説家というか、文学の世界でのお話だから、イスラエルが良いとか悪いとか、パレスチナがどうとかこうとか、そういう政治、宗教のこととは少し別のことだよね、だから僕は行くことにしたのさ、彼はそう言っているように私には聞こえた。

総理大臣が終戦記念日に靖国神社を参拝すると、取り巻きの記者が「公人としての参拝ですか、それとも、私人としての参拝ですか」と愚問を発する場面がよくあるが、村上さんの話はこれにちょっと似ていて、公人=小説家・村上春樹なら受賞しても構わない、私人=(肩書なし)村上春樹なら受賞を辞退する、そんな整理を村上さんはしたようにも思える。でも、村上さんは小説家であると同時に一社会人であるわけだから、小説家だからどうのこうのと言わずに、「村上春樹はこう思う」と正面から語ってもらいたかったと思う。

でもホッとしたことも私にはある。村上さんは天才であるが、でも、政治や宗教の問題のなかに自分自身が当事者として放り込まれてしまうと、いくら文学の天才といえども、狼狽して小説や随筆のようになかなか上手く語れない、彼とてスーパーマンではなかった、と思ったのだ。この論文について、村上春樹さんのファンの方からご意見を頂けると嬉しいです。


伝説のスタ丼屋、高円寺店が先日オープンした。今日とりあえず行って生姜丼(写真)を食べてみたが、生姜の味付けがゆるく、肉の量に比べてごはんが多すぎて、ごはんがかなり残ってしまった。伝説、少し大袈裟ではないかなー。

酒、運動不足、ストレス、足のつぼグッと押します。 [高円寺]

IMGP0533.JPG先日、20代の若手社員と話していて改めて気づいたことがある。それは、顔の表情、喋り方に変化が少ない、ということだ。その社員がたまたまということではなく、いろいろな採用面接を長くやってきて、そういう若者が多いことを、少し前から感じ始めていた。もちろん、常時仏頂面しているということではなく、こちらが面白い話をすればハッハッハーとかヘッヘーと笑うのであるが、その笑いがなんとなく平坦で乾いている。もっとコミュニケーションを取ろうと思い、楽しい話題をこちらから差し出してみるが、先方はなかなか乗ってこない。会話が終わってみると、だいたい9割方こちらが喋っている、そんな感じなのだ。

変化がないのは顔の表情や喋り方ばかりではない。服装にも変化がない。服装といっても、オシャレの問題ではなく、モノトーンで地味な雰囲気の洋服を好んで着る傾向が強くて、いつ見ても同じ洋服を着ているように感じるのである。こういうと暴論になるかもしれないが、服装はそのときの心の状態を如実に反映するもので、服装に変化がないということは、心にも変化がないということを形として現わしているような気がする。私はたまにピンクのシャツを着たり、真っ赤なネクタイをしたりして会社に行くことがある。あるとき真っ赤なストライプのネクタイをして札幌に行ったら、支店のある若い女性社員から「○○さん、そんな赤いネクタイをして会社に来る社員は札幌支店にはいません」と言われたことを今でも覚えている。

服装も顔の表情や喋り方と同じく、他人とコミュニケーションを図るための一つのツールだと思うが、それはさて置き、若者はどうしてそんなに「表情の変化」を感じさせないのだろうかと思う。変化をつけることって、それなりにパワーがいる作業だし、逆に言えば、変化をつけないことって、とても楽なことなのだ。例として適当かどうかわからないが、上司が笑わせようと思って話した話がちっとも面白くない、そのとき嘘でもいいから笑ってあげる、面白くないことを承知の上で声を出して笑ってあげる、そういう骨折りの作業って、社会でうまくやっていくために必要な手続きのような気がする。先日書いたが、お笑い芸人のギャグが面白くないと思ったら、たとえ周囲にいる千人の人が笑っても自分が面白くないと思えば、笑わなくていい。でも、自分が所属する社会のなかにおいては、コミュニケーションを図るために、可笑しくなくても無理矢理笑いという作業は、決して意味のないことではない。

さて、午後テレビを観ていたら、足つぼの話をしていた。足の裏には内臓などに通じるつぼ(反射区というのだそうだ)がいくつもあって、弱っている内臓のつぼを強く押されて悲鳴を上げた経験は誰にでもあるだろう。つぼを押すと本当に内臓の働きがよくなるのだろうか。この疑問に応えるため、被験者にバリウムを飲ませて、胃のつぼを強く押すと胃の動きがどう変化するのかエックス線で観察してみるという試みが行われた。そうすると不思議なことに、つぼを押すと胃が活発に動き始めて、バリウムが少しずつ胃から吐き出されていったのである。

こういうのを見せられると、足つぼの効用を信じたくなるものである。これなら、反射区の場所を自分で覚えれば、自分で押すことができる。酒を飲み、脂肪分の多い食事をして、運動不足、ストレスが多い私の場合、とりあえず肝臓と胃の反射区を覚えてたまに押してみようと思う。

ということで、今夜は中野の「らんまん」に行ってきた(写真)。大根、玉子のおでん、こはだ酢、白子ぽん酢などを食べてきた。この店は一見さんで行って以来これで7度目だと思うが、これまでは会計を済ませると「ありがとうございました」と言われていたが、今日初めて「毎度、ありがとうございました」と「ありがとうございました」の前に「毎度」がついた。ようやくこの店の一員になれたような気がした。

買ってうれしい花いちもんめ、人身売買成立です。 [高円寺]

IMG_0620.JPG高円寺にお住まいの方ならご存知だと思うが、駅北口に定食屋、レコード店、古着屋、喫茶店などが軒を連ねるあづま通りと呼ばれる小さな商店街がある。以前私はこの商店街の早稲田通り側の角にあるマンションの6階に住んでいた。早稲田通りは都内でも有数の幹線道路で交通量が多く、一日中騒音に悩まされて数か月でそのマンションを出た。騒音問題さえなければ駅に近くて便利な場所だったので住み続けたかったが、夜も眠れない状態では余計な出費を我慢しても出るしかなかった。

このあづま通りで、今でも気に入っていることが一つある。それは、通りに常時懐かしい童謡、唱歌が流れていることである。「春よ来い」「夏は来ぬ」「ちいさい秋みつけた」「ベチカ」等々、四季折々の童謡、唱歌が季節感を与えてくれ、郷愁に誘われたりもする。出来ればずっと聴いていたいところだが、いつもせわしく早足で通りを駆け抜けている。

さて、童謡、唱歌の他にわらべ歌というジャンルがある。例えば、「花いちもんめ」「道りゃんせ」「あんたがたどこさ」などは童謡、唱歌ではなく普通、わらべ歌に分類される。どういう基準に基づいてそれぞれに分類されるのかよく知らないが、寺山修司が劇作家・別役実と対談したなかで次のような話を披露している。

小さい頃寺山は「花いちもんめ」をわらべ歌として歌っていた。そのことをある雑誌に書いたら、ある方から手紙をもらい、この歌は「人身売買」の歌であることを教えられる。花いちもんめとは、女郎の花代が一匁(いちもんめ)という意味なのだ、と。例えば、田舎の女の子が女郎として身を売られる。その女郎を買いたい、水揚げしたいと思い、田畑を売り払って出かけて行って「あの子がほしい」と言う。「あの子じゃわからん」「○○ちゃんがほしい」とやりとりがあり、最後は「買ってうれしい花いちもんめ」「負けてくやしい花いちもんめ」となる。負けてくやしいというのは値切られることだそうだ。

わらべ歌には農村の貧しさがあり、そのことを社会的に正面切って抗議することのできない農民などの被支配層はわらべ歌に偽装し、自分たちの恨みつらみを晴らしたのではないか、寺山はそう見ている。ところで童謡、唱歌、わらべ歌の違いであるが、寺山説はこうである。わらべ歌は農村とか田園の風景をバックボーンに持っていて、唱歌は学校の先生が「さあ、みなさん一緒にうたいましょう」という押しつけの歌、これらに対して童謡は、都会の、それも山の手のものだ。寺山説は面白いが、結局わかったようでよくわからない。唯一わかることは、寺山の都会に対するコンプレックスが童謡の定義に漂っていることである。

今日は札幌日帰り出張。雪まつりも見ないで夕方7時半過ぎ東京に戻る。慌ただしい。新宿で夕ごはんを食べ、一杯だけ飲みたくなり、先日新宿ゴールデン街(写真)で開店したあるママさんのバーに開店祝いも兼ねて寄ってみた。

ママによると、新宿ゴールデン街もめっきりお客さんがいなくなったらしい。不況のせいかもしれないと話していた。せっかく念願の店をオープンしたのにタイミングが悪い。

新宿ゴールデン街は、わらべ歌が似合う街かもしれない。

ラムネのビー玉チョロチョロ、ラムネ氏はそれに命賭けました。 [高円寺]

DSC_0002.JPG昨夜、高円寺南口にある「ホルモン家」で久しぶりに焼肉を食べた。先月の人間ドックで中性脂肪値が高く即治療という診断を受け、焼肉、マックなどを控え気味にしていたが、たまには焼肉でも食べてパワーをつけなければと思い、銀座から帰ってきてそのまま「ホルモン家」に寄ったのだ。

焼肉というと以前はカルビ(karubi)、ロース、ハラミなど定番の肉ばかり食べていたが、最近はホルモン、テッチャンなどいわゆるホルモンを好んで食べるようになった。小腸、大腸、心臓、肝臓、胃、果ては子宮まで、牛や豚のあらゆる部位が食用の対象になる。でも、小腸や大腸なんか、誰が最初に食べようと言い出したのかね。

さて、政府紙幣の議論がまた始まった。小泉政権の時に一度議論になったが、あまり注目されないまま消えて行った。今回が2回目の登場であるが、そもそも政府紙幣とは、現在我々が使用している紙幣が中央銀行である日本銀行発行であるのに対し(従って、これらの紙幣は日銀券と呼ばれる)、中央銀行を経ずに直接政府が発行する紙幣のことを言う。ただ、お金としての機能や価値は今使っている日銀券と全く同じであるから、要は、福沢諭吉の1万円札の他に、もう一種類別の1万円札を政府が発行しますよ、という話である。

その発行規模であるが、もし実施するとすれば25兆円程度になるのではないかと言われている。では一体何のために政府紙幣を発行するのだろうか。目的は明確で、それはデフレ対策である。輪転機を回して新札を刷って国民に配り、消費拡大を通じて物価水準を上げようというのである。また,副次的な効果として、新紙幣発行で日本円の価値が多少下がるだろうから、そうなれば現在の円高にブレーキがかかり、円安傾向になることも期待できる。1ドル=100円程度に戻せば、輸出企業の業績が回復し、雇用情勢の改善にもつながっていく可能性が高い。

政府紙幣は国債と違い、政府の国民に対する借金ということではないから、返済する必要もないし、もちろん利子の支払いという負担もない。いいことずくめの政府紙幣という感じがするが、唯一弱点として指摘されているのがハイパーインフレ、つまり、物価が持続的に上昇しかねないリスクがある点である。でも、本当にそうなるのかは、やってみないとわからない。

定額給付金よりも、さっさと政府紙幣を発行したらいい、私はそう思う。政府紙幣はよく「劇薬」と言われる。何度も使ってはいけない政策ということだ。でも、100年に一度の大不況と誰もが認める状況にあって、今「劇薬」を使わないで一体いつ使うのだろうか。「劇薬」を投与して死にそうな患者が回復することだってあるのだから、ここは思い切ってやったらいいと思う。いろいろ理屈っぽく反対する経済学者もいるかもしれないが、それじゃーどうすればよいと言うのか。「将来が不安だ」「今政府がなすべきことは、夢と希望のある社会を造り上げることだ」と能書きばかりいう人もいるが、お教のようにそのような能書きを垂れているうちに「日本丸」は本当に沈没してしまうかもしれない。

坂口安吾に「ラムネ氏のこと」という有名な短編がある。フグを今安全に我々が食べられるのは、自ら命を落としながらもフグの安全な食べ方を後世に伝えようとしてフグに命を賭けた、多くの無名の殉教者、つまりラムネ氏のお陰である。ラムネ氏とは、事の大小に関わらず物事に徹し、強靭な思索を持つ人のことをいい、そういうラムネ氏が世の中を変えていくのだ、坂口安吾はそう言っている(ちなみに、ラムネ氏のラムネとは、飲むラムネのことである。)。

焼肉のホルモンだって、必ずラムネ氏がいたはずである。肉以外に、牛や豚の内臓も食べられるのではないかと思い、恐る恐る七輪で肉を焼き、レアの状態で食べて死んで行った人が必ずいるはずだ(特に豚はよく加熱しないとウイルス感染する可能性がある。)。我々が今気軽に、そして安全にホルモンを食べられるにはそういうホルモンに賭け、場合によっては命を落としてきた多くのラムネ氏のお陰なのである。

政冶、国会議員についても、与党、野党を問わず皆が国民生活を最優先させると言っているわけだから、そのために少しでも可能性があることなら、「前例がない」「慎重に検討する必要がある」とかとやかく言わないで、政治生命を賭して100年に一度と言われる大不況を克服する施策を打ち出してほしい。国会議員全員が今ラムネ氏になってほしい、私はそう願う。

写真は、今日の新宿西口駅周辺。

「ロビンソン」「粉雪」そして「朝が来る前に」、ビビッと来た曲です。 [高円寺]

IMG_0590.JPG目覚まし時計。考えてみると小学生のときからずっとお世話になっている。ラジオ好きだった私は小学生のときからラジオが付いた目覚まし時計を使っていた。今も古いソニーのラジオ付目覚まし時計を利用していて、平日は午前5時に目覚ましがセットされている。時計はほとんど誤差の生じない電波時計なので、午前5時の時報とともにFM放送(JWAVE)が耳元に流れてくる。

ラジオが入ってたらすぐにベッドを出ればよいのだが、ぬくぬくの布団から脱出するのは容易ではない。そんな布団を頭からかぶり夢見心地でラジオから流れてくる曲を聴いているときのことなのだが、何年かに一度、本当に何年かに一度、初めて聴く曲が私の音楽の「ツボ」にズバーッと入ることがある。そうなると誰の何という曲なのが気になって仕方ない。必死になって探し、見つけ出したらすぐにCDを買って何度も聴く。私の「ツボ」に入った曲は、古いところではスピッツ「ロビンソン」、最近ではレミオロメン「粉雪」、そして先日、久しぶりに「つぼ」に入った曲が秦基博「朝が来る前に」である。とにかくいい声である。ご存知ない方は私に騙されたと思って是非聴いてみてください。

さて、昨日は銀座で飲んで久しぶりに午前様になったが、一緒だった部長さんがどうしても二次会に行きたいと言うので彼の知っているバーに付き合ったら、私の席についた女性が二人ともたまたま杉並区の住民で、高円寺もよく行くということで、私と三人でローカルな話で盛り上がった。私が利用する高円寺駅北口(写真)に「福龍門」という大衆中国料理店があって、たまに私も行って回鍋肉定食やニラレバ定食を食べるのだが、彼女たちもその店を知っていて「安いけど結構美味しいよね」というつまらない話をしながら「チーム杉並」は高円寺シリーズで大騒ぎとなった。

ところで、福龍門の箸袋には「中国料理」と印刷されている。「中華料理」と「中国料理」、何がどう違うのだろうか。さっそくウィキペディアで調べてみた。そのまま転記すると「日本国内に於いて中華料理と呼ぶ場合は、日本人向けに味付けや調理法が工夫、創作された大衆料理を指し、中国料理と呼ぶ場合は、中国本来の料理を指す、といった使い分けがなされる場合もある。いずれの呼称も戦後になってから作られたもので、昭和20年代までは支那料理という呼び方が一般的であった。」、ということらしい。でも、少なくても福龍門は「中国料理」と書いてあるが、どうみても日本人向けにアレンジされた料理になっていると思う。結局、わかったような、わからないような。

ついでなので「ニラレバ定食」と「レバニラ定食」、どう違うのでしょうか。こちらのほうはどうやら違いはないみたいだ。ちなみに福龍門は「ニラレバ定食」であるが、言いやすいのは何となく「レバニラ定食」のような気が私はするが、如何だろうか。まー、どうでもよい話ではあるが。

人生どうせ寿命±5年、ということで今日は中野で一杯。 [高円寺]

00000021.JPG「ハドソンリバーの奇跡」、そんな映画がしばらくすると観られるかもしれない。離陸直後、両翼のエンジン故障が発覚したとき、管制塔は最寄りの空港に着陸することを指示したらしい。だが、空軍出身のベテラン機長、チェスレイ・サレンバーガー氏はハドソン川への着水を決断。乗客・乗務員155人は全員無事救出された。一歩間違えると、ニューヨークの住宅街に墜落して大惨事になるところであったが、間一髪、機長の見事な判断が危機を救った。

今朝の読売新聞コラムはこの件を取り上げてこう書いている。「全員が脱出したあと、チェレス・サレンバーガー機長はいつ川底に沈むやも知れない機内に残り、2度にわたって通路をくまなく行き来して乗客が残っていないことを確認している。本物の玄人を見たあとである。たとえ酔った勢いにせよ「おれは・・・のプロだぜ」と粋がったせりふは、ちょっと気恥ずかしくて口にできそうもない。」。

本物のプロというのはほとんどいない、そういうことをここ2度ほど書いたが、サレンバーガー機長は数少ない本物のプロなのかもしれない。それは単に狭いハドソン川に機体を上手く着水させる技能が有しているという点で本物のプロと言っているのではない(そのような技能なら多くのパイロットが有しているに違いない)。修羅場において、どの選択肢が最良の結果をもたらすのか、それを過去の経験などを踏まえて瞬時に判断できる総合力を持っていた、そして、乗客・乗務員の生命安全を最優先するという機長としての基本を忘れなかった、これらの点からサレンバーガー機長はプロの名に値するに違いない。

今回は155人全員が助かるという最良の結果になったが、仮に犠牲者が出ていたら、管制塔の指示に従わなかった機長の判断を非難する人間がきっと出ていたに違いない。何でもルール、ルールと声高に叫ぶ杓子定規で常に批判的な人間というのがどこにもいるものである。そして、そういう人間ほど「有事」にはうろたえて何もできないものである。ちょっと話は違うかもしれないが、会社には、理屈っぽく経営批判ばかりしている社員が必ず何人かはいる。彼らの仕事ぶりをよく見てみると、総じて「仕事が出来ない」社員であることに気づく。皆さんの周りにもこういう口ばかり達者で何の役にも立たない人間がいるでしょう。

さて、今月6日に受けた人間ドックの結果が届いた。昨年の総合判定C(経過観察を要する)だったが、今年はF(治療を要する)に悪化してしまった。報告書をよく読んでみると、治療が必要とされたのは血液検査で判明した高脂血症、なかでも中性脂肪の値が昨年の136から今年は247に跳ね上がり(基準値は149mg/dlが上限)、内科で治療を受けて下さいと書いてあった。中性脂肪の値が上がる主な原因は糖分(アルコール、甘いもの)の摂り過ぎや運動不足で、私の場合両方とも該当している。

ご存知のとおり、今年からメタボリックシンドロームに関しても検査の対象になった。報告書を見ると「腹囲92.5㎝」と記載されていて、所見欄にはズバリ「メタボリックシンドロームに該当します」と明記されていた。多分そうなるだろうことは検査前からわかっていたが、正式に宣告されると「感慨深い」ものがある。

まあ、健康はもちろん大切であるが、健康、健康とあまり神経質になるのもどうかと思う。誰かが書いていたが、人間の寿命は生まれながらに決まっていて、健康にいくら注意を払っても生まれたときに決まっている寿命+5年、逆に、どんなに放蕩な生活をしても寿命-5年、つまり、人間は生後どんな生活を送ってみても寿命±5年の範囲内でしか生きられない、そういうことらしい。これを読んだとき、「そーか、自然体で生きていけばいいのだ。」、そう私は思った。

ということで、今日は中野の名居酒屋「らんまん」に行ってきた(写真)。〆さば、タコぶつ、そしておでんを少し食べてきた。酒は熱燗。でもこの日本酒、けっこうカロリー高いんだよね。


火の用心、カチッ、カチッ。ワンちゃんに税金はかけないように。カチッ、カチッ。 [高円寺]

IMGP0172.JPG明日の帰省を前に、部屋の掃除をした。ものぐさな私であるが、さすがに年末年始くらいは部屋を綺麗にしておきたい。東京には2日に戻る予定である。仕事は5日開始なので4日に戻ることもできるが、実家にいてもすることがないので年始早々帰ってくることにした。

私は現在高円寺に住んでいるが、昨夜、懐かしいものを聞いた。多分午後8時過ぎくらいだと思うが、テレビのボリュームを消音にして画面だけをちらちら見ながらパソコンに向かっていたら、「戸締まり用心、火の用心、カチッ、カチッ」と拍子木を打ち鳴らしながら火の用心などを呼びかける声が聞こえたのだ。

釧路でもあまり経験がなかったので、少し感動してしまった。そういえば、先週の金曜日、仕事納で飲んで午後9時過ぎに家の近くを歩いていたら、黄色い蛍光色のブルゾンを着て「防犯パトロール」(単に「パトロール」だったかもしれない)と書かれた腕章をつけた年輩の方が、私とすれ違うときに「こんばんはー」と大きな声で挨拶するので、私も思わず「こんばんはー」と答えてしまった。

どういう方々がこのパトロール隊を組織しているのかは知らないが、大変地味な行動であるけども、かなりの効果はあるような気がする。地域の防犯、防火というのは、実はこういうボランティアの方々(だと思うのだが)の地道な活動が功を奏するのかもしれない。地方からやってきた私のような人間にとっては、大都会東京では地域の連帯感のようなものは希薄な感じがしていたが、「戸締まり用心、火の用心、カチッ、カチッ」を聞いて、東京もそう捨てたものじゃない、そんな気持ちになった。

さて、通勤で家の近くを朝晩歩いていると、犬の散歩風景によく出会う。犬好きの私はどんな種類の犬なのか観察しながら歩いているのだが、ペットとして犬や猫を飼われている方はこの地域にもかなりいると思う。私の会社でも、一人暮らしをしている女性部下が犬を二匹飼っていて、日中会社にいるとき犬はどうするのかと以前聞いたことがあるのだが、主人が帰るまでお利口にして待っていますと彼女がいうので感心した記憶がある。

自民党の動物愛護管理推進議員連盟(会長は鳩山総務相)は昨日、犬や猫などの飼い主に課税する「ペット税」の導入に向けた議論を近く開始することを表明した。「ペット税」導入の目的は、動物を飼ってもすぐに捨ててしまう飼い主を減らことで、徴税方式はペットを購入するときに一定額の税金を全国一律で課すという方法が想定されているらしい。2006年度末現在、全国の自治体に引き取られているペットは37万匹でその91%が殺処分され、これが社会問題化しているという。この「ペット税」導入については動物愛護団体も前向きな姿勢を示していると議員連盟は説明している。

議員連盟の発想は、ペットに税金をかければペットを購入する人が減るだろうということであるが、どのくらいの税金をかけるつもりかは知らないが、多少の税金をかけたくらいではペットを購入する人は減らないと思う。なぜなら、ペットの飼い主というのは上記の女性部下のように、一人暮らしをしていて話し相手がほしいとか、動物自体が好きだとか、子供の情操教育に役立てたいとか、コンビニでガムとかチョコレートを買う動機とは全く質的に異なる動機を持っているから、多少値段が高くなっても購入を諦める人はほとんどいないのではないだろうか。

もう一点は、「不届き者の飼い主」のために、どうしてきちんとペットを飼っている人がお金を負担しなければならないのかということだ。ペットを誰が捨てたのかなんてちょっと調べればすぐわかることなのだから、「犯人」を見つけて厳罰に処すればいいだけの話ではないのだろうか。すでにそういう法律はあるかもしれないが、いずれにしろ、罰則を厳格化すればそれが抑止力になってペットを捨てる人は減るのではないだろうか。国会議員はいとも簡単に国民に税金を課すことをするが、これではあまりにも芸がないのではないか。

今日は一日中家にいて新しい写真がないので、8月に行われた高円寺阿波踊り大会の写真を一枚使わせてもらう。


日本一のケーキ、ここ高円寺にあります。 [高円寺]

IMGP0457.JPGJR高円寺南口すぐのところに、トリアノン洋菓子店高円寺本店がある。外観などから、あまり垢ぬけた感じがしなく一度も立ち寄ったことがなかったのだが、つい先日、業界ではこの洋菓子店は超有名店であることを知った。そのキッカケは、「2008年度ジャパンケーキショーグランプリ受賞」と書かれた大きな横断幕が店舗の外に掲げてあるのを目にしたことである。その後インターネットで調べてみると、トリアノンの洋菓子職人は毎年のようにジャパンケーキショーで入賞を果たしている実力者揃いであることがわかった。店舗はこの高円寺本店のほか、三鷹、大久保に支店がある。

それにしても、「ジャパンケーキショー」というコンテストの名称が何とも古臭く、かえって時代を感じさせていい。きっと伝統と格式のあるコンテストなのだと思うが、それにしても、洋菓子店の名店が身近にあることは嬉しかった。今年の一人クリスマスケーキはトリアノンで買うことに決めた。昔ながらのバタークリームのデコレーションケーキにしよう。なお、上の写真はこの店のカスタードシュークリームとモカロール。値段のほうは日本一にかかわらず、それぞれ200円、280円とリーズナブルである。

さて、皆さん、自分が17歳、つまり高校二年生の頃、何をされていましたか。学校に行って真面目に勉強していた方もいらっしゃるでしょう。また、スポーツなどのクラブ活動に精を出していた方も多いでしょう。なかには習い事をされていた方もいらっしゃるかもしれません。いずれにしろ、普通の人の高校生活というのは、当り前のことですが学校中心になされるものです。だから、高校生の分際で、金を儲けようなんて考える人はほとんどいません。もちろん私もそんな一人でした。昨日、プロゴルフの石川遼選手が賞金1億円を突破することは確実だというニュースを聞いて、自分の17歳とは随分違うなと改めて感じたものです。

石川選手のことについては今年2月12日付の記事でも書いたので繰り返さないが、マスコミが1億円、1億円とやたら連呼するのはよしたほうがいいと思う。何故か。反感を買うからである。変な奴の反感を買う可能性があるからである。ただでさえ格差社会といわれて持てる者と持たざる者の経済的格差がより拡大しているのに、昨今の景気低迷で、経済的に苦しい階層はより生活が苦しくなっている。そんなときに、17歳の若造がマスコミにちやほやされながら1億円稼いだという報道がなされると、変なことを考える輩も必ず出てくるような気がする。事実、石川選手が出場する予定になっている「カシオ・ワールドオープン」が開催される高知県のゴルフ場で先週、クラブハウスのガラスが爆発物で割られる事件が起こった。もちろん、石川選手との因果関係は不明であるが、気味悪い。

先日の記事で、世間はスポーツ界で常に新しいヒーローを求めていると書いた。そういう意味からすれば、石川選手は文字通り男子プロゴルフ界期待の星といったところだろう。彼の名前が出だした最初の頃は、世間も全面的に彼をニューヒーローに祀り立てようとしたが、賞金という「金(かね)の話」が出だした途端、少し雰囲気が変わってきたように思う。では、他のスポーツ選手はどうだろうか。例えば、水泳の北島康介選手がどのくらい稼いでいるかという話を聞いたことがあるだろうか。また、先日熱愛報道された卓球の福原愛選手がどのくらい稼いでいるかという話を聞いたことがあるだろうか。まだ例を挙げることはできると思うが、彼らがいつまでも世間の全面的バックアップでヒーローの座に居続けることができるのは、彼らに「金(かね)の匂い」があまりしないからだろうと私は思う。

仮に北島康介選手がスポンサーなどから何十億ものギャラを手にしているという報道がなされたら、世間は多分、一気に興ざめしてしまうのではないだろうか。世間は金のことに結構シビアなのである。プロ野球界の大スター、長嶋茂雄さんが何十億の年収があっても誰も何も言わないだろう。また、演歌の大御所、北島三郎さんが何十億の年収があっても誰も何も言わないだろう。でも、17歳や20歳そこそこの若造が1億円を稼ぐことについては、あまりいい感じがしない、世間はそう感じるものなのではないだろうか。

他人の財布のことは気にしない、そう格好よく決めてみたいところであるが、現実にはなかなかそうもいかない、庶民の本音はそうなのである。

1000万円超の競馬配当、人生の幸せは一人遊び。 [高円寺]

IMGP0234.JPG昨日午後、嬉しい便りが届いた。今年8月23日、24日に開催された第52回東京高円寺阿波踊り大会のフォトコンテストで、私が応募した作品が審査の結果「入選」になった。どのくらいの応募があって、そのうちどのくらいの入選があったのかどうかはわからないが、プロカメラマンも参加すると言われるコンテストで初めての応募にもかかわらず入選できたのは正直嬉しい。

入選した作品は今月27日から30日まで杉並区役所のロピーで展示される。その後、11月4日から14日まではJR高円寺駅南口壁面に展示される予定になっている。お時間がある方は是非ご覧くださいと言いたいところなのだが、こちらは私の本名で応募したので、どれが私の作品かわからないかもしれない。ところで上の写真は今回の阿波踊りに撮った写真であるが、「入選」作品とは別のものである。いずれにしろ、エロエロオジサンの撮ったのはもちろん女性で、生足美脚が見えているセクシーショットです。

さて、京都競馬場では今日、秋の3歳女王決定戦である秋華賞(G1)が行われ、重賞レースでは初めて1000万円を超える配当が出る超ウルトラ大波乱のレースとなった。競馬をやらない方は何のことかわからないと思うので少し解説すると、1000万円の配当というのは、100円の勝馬投票券1枚買った場合に1000万円が払い戻しされるということで、したがって、もし1000円の勝馬投票券を買っていたら1億円の配当があるということになるのである。これぞギャンブルという感じがするが、こんな高配当を狙って競馬をやる人はまずいない。

競馬、ギャンブルというとすぐ作家の伊集院静さんを思い出す。彼のエッセイを読むといつ小説を書いているのかと思うくらい彼は競馬、麻雀、酒そして女に全精力をつぎ込んでいる。仕事の合間に遊ぶというよりは、遊びの合間に仕事をするというほうが彼の場合合っているように思う。彼によると、人生で一番幸せなことは「一人遊び」を見つけることだそうだ。そういえば何年も前になるが、銀座数寄屋橋の東芝ビルに旭屋書店があったときに、仕事を終えて本でも買おうと思って旭屋書店に行ったら伊集院さんがサイン会を開いていたことがあった。好奇心もあって覗いてみるとハンサムな彼の顔は真っ赤、サイン会の前に相当酒を飲んできたに違いないと私は直感した。でも、そういう奔放さこそが彼のウリなのだとも思った。

明日、日帰り出張で札幌に行く。この時期にしては、札幌は暖かいようで、天気予報によると、明日の札幌の最高気温は20度になっている。ススキノで一杯やりたいところであるが、楽しみは次回まで取っておくことにする。

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