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遊女は頭じゃないのよ、アソコ、アソコ。 [映画]

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私は会社で社員採用の仕事もしているが、その際一番気を使うのは「男女平等」という観点だ。といっても実質的には、女性に不利にならないように対応することがポイントになる。

そんななか、九州大学理学部数学科の来年度試験で、将来的に理系女子の研究者を増やす目的から「女性枠」を設けることが検討されていて、これに対して「男子差別」「男女不平等」との批判が出た。

単純な疑問だけれども、何故理系女子の研究者を増やすことが必要なのだろうか。邪推になるかもしれないが、殺風景な数学科の教室に「もっと華がほしい」ということなのだろうか。もうそうであるならば、「女性枠」というのは男性の性的欲求に基づくものということになってしまう。もちろん、そういうことではないと信じるが、いずれにしろ、天下の九州大学としては少々思慮に欠けた行動だったのではないだろうか。

さて、先日初めて歌舞伎を観た。中村吉右衛門主演の作品で、舞台は吉原遊郭。歌舞伎だから演じるのは全員男性なのだが、なかでも中村福助演じる花魁・八ツ橋の妖艶さには自称「ノンケ」の私も思わずうっとり、ムクムクしてしまった。

吉原といえば映画「吉原炎上」をすぐ思い出す(写真)。名取裕子主演の名作だと思うが、登場する花魁のなかで私が一番好きだったのは花魁・九重を演じた二宮さよ子さんだった。美貌で色気ムンムン、名取裕子とのレズシーンは私にとって、この映画のベストシーンだ(写真)。

このレズシーンは、花魁の筆頭格である九重が、名取裕子演じる新人遊女・若汐に、遊女の女作法を文字どおり体を張って教え込む場面だ。九重は若汐に「廓(くるわ)の女は頭じゃない、頭じゃないんだよ。ここだよ、ここ!」と言って若汐の股間の部分を何度も叩く。そうやって廓の女作法を教え込んでいた九重であったが、若汐にもともと魅力を感じていた九重は、自分自身が廓の女であることを忘れ、若汐の愛撫に悶え、そして絶叫するのである。このレズシーン、何度観てもそそられる。

さて、歌舞伎であるが、中村吉右衛門演じる佐野次郎左衛門は花魁道中で一目ぼれした花魁・八ツ橋のもとに通いつめ、近々身請けするまでになっていた。ところが、八ツ橋の情夫であった浪人・繁山栄之丞がそのことを知り、八ツ橋に愛想尽かしをするよう強要する。不承不承の八ツ橋であったが、結局、次郎左衛門が開いていた大きな宴席で「身請けはもともと嫌だったし、もう私のところには来てくれるな。」と八ツ橋は次郎左衛門に愛想尽かしをし、満座のなかで次郎左衛門は恥をかいてしまう。

その4か月後、国(栃木県)に戻っていた次郎左衛門は再び吉原に来て、八ツ橋を呼び寄せる。二人きりになったとき、次郎左衛門は恥をかかされたに八ツ橋対して刀を抜き、一振りで切り殺す。以上が私の観た歌舞伎のあらすじであるが、遊郭吉原の世界には独自のしきたりや言葉があることがわかり、勉強になった。それにしても、「身請け」という制度はなんとなく凄い感じがする。現代にも似たようなものはあるのかなあ。

乳首とアンダーヘアー、人間ならみんな持っています。 [映画]

1169089-1-thumb.jpgこのところ少し暗めの話題が続いたので、今日は少しだけ色っぽい話を書いてみたい。佐藤寛子さん(写真)というグラビアアイドルをご存知だろうか。あまり派手さはないが肉感的で、根強いファンが多く、実は私もその一人なのだ。

彼女はこれまでヘアヌードになったことがなかったが、その彼女が突然、昨年公開された映画「ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う」で大胆なヌードを披露した。彼女の水着姿の写真や動画を見続けてきた私は、いつか彼女のヌードが見たいと思っていた。そういう写真集が出たらすぐ買おうと決めていたが、写真集が出る前に映画でヘアヌードを拝むことが出来ることになったわけだ。

劇場公開には行かず、DVDが発売になったらすぐに買って彼女の肢体をじっくり鑑賞しようと思い、紀伊国屋のWEBサイトでDVDの購入予約をした。発売になってすぐ、待望のDVDが私の家に届いた。

結果どうだっか。実は、期待はずれだったのである。期待はずれというのは、思っていたより胸が小さかったとか、アンダーヘアーが薄かったとか、そういうことではなくて、なんのことはない、裸は裸であり、それは単なる肉体、皮膚なのである。当たり前のことであるが、胸には乳首あるし、下半身には黒いアンダーヘアがある。なーんだ、我々と少しも違わないではないか、そう思ったのである。

何でも知りたがる、人間にはそういう基本的性向がある。でも、知らないほうがいいことだってたくさんあるのだ。佐藤寛子さんについても、水着姿を見てイマジネーションを膨らませ、不埒なことに想いを巡らせているときが一番興奮し、かつ、充実するのであって、ひとたびヌードになってしまえば、彼女のシークレットな部分がなくなってしまい、結果、彼女に対する興味も失せてしまうのである

さて、裸それ自体には、思想とか、人間性というものはない。でも、裸に例えばSMという行為が加わると、人間のドロドロしたエロスが湧き出てくる。杉本彩が主演した「花と蛇」は正に人間のエロスをテーマにした映画であって、この作品は単に彼女のヌードが素晴らしかったということにとどまらず、人間の「性(さが)」をも表現したものであった。そういった映画の奥行き、深さという観点からすれば、「花と蛇」は「ヌードの夜」を遥かに凌ぐ名作だと言える。

支離滅裂な文章になってしまった。今夜は赤坂で一杯やったのだが、飲みすぎた。まだ酔っ払っている。でも今夜は、東北支援の意味も込めて、日本酒は南部美人(岩手)、奥の松、大七(福島)をしこたま飲んだ。

何度も言いますが、そろそろ通常モードでいきましょう。そうしないと、日本は本当に沈没しちゃいますよ。

世界残酷物語を、人は好んで観るのです。 [映画]

RIMG0034.JPGニュージーランド大地震の救助活動が遅々として進んでいない。素人からすると、瓦礫を撤去するのにどうして一週間以上もかかるのかと思う。いまだ27名の日本人の安否が確認されていない。奇跡を信じ、なんとか全員助かってほしいと祈るばかりだ。

地震発生時の様子を、日本人観光客のビデオカメラが捉えていた。大きな地震が最初に発生したとき、街のシンボルである大聖堂の尖塔部分が崩壊した。その直後、その崩れ落ちた尖塔部分を別の観光客がデジカメで撮影する様子がビデオカメラに撮っていた。

この映像を観て私は少し考え込んだ。観光客が反射的に崩壊した尖塔部分をデジカメで撮影した心理的動機とは一体何だったのだろうか、と。

それは多分、残酷なものを見たいという人間の本能的な欲求なんだと思う。それは非難されるべきという類のものではなく、人間である限り誰もが多かれ少なかれ持っている性質のような気がする。去年、東京拘置所の刑場(死刑執行の現場)が公開された。当時の法務大臣が、死刑制度の是非に関する国民的議論をしてほしいとの趣旨で、実施されたものだ。

死刑囚が首に縄をかけられた状態で立つ「踏み板」のある部屋や、刑務官が踏み板を開くボタンを押す部屋などが公開され、私もその様子をテレビで観たが、我々が考えたことは、少なくとも死刑制度の是非に関するイエス・ノーではなく、死刑囚が実際に踏み板に立ち、首に縄をかけられ、ストンと身体が下に落ちて絶命する姿だったのではないだろうか。そんなことを想像してはいけないと心の片隅で思いながらも、我々の想像力は人が死んでいく様子を見たいという圧倒的な欲望に支配されたのではないだろうか。

人間は残酷な生物なのだろうと思う。YOU TUBEでは、政治的独裁者の最期の姿を観ることができる。例えば、ルーマニアの独裁者だったチャウシェスクが妻とともに公開銃殺刑に処せられた様子とか、イラクの独裁者だったサダム・フセインが絞首刑に処せられた様子とか、生々しい映像が結構ある。そういう映像を我々は多少の後ろめたさを持ちながらも、思わず観てしまうわけだ。

ホロコーストで有名なドイツの独裁者ヒットラーは、数百万人とも言われるユダヤ人を迫害、殺害したとされる。その彼はワーグナーやベートーヴェンなどの音楽をこよなく愛したというエピソードはあまりにも有名だ。ホロコーストと音楽を愛する心というのは、一見相容れないもののように思われるが、決してそれらは相反して存在するものではなく、人間の心のなかに並存、並立しているものなのだと思う。人間は残酷でもあり、心優しくもある。そういう部分が、人間の理解というものをわかりにくくしているのではないだろうか。

ちょっと支離滅裂になった。というのも、今夜は久しぶりに赤坂で飲んだからだ。熱燗をやりすぎた。写真は、赤坂見附の赤坂エクセルホテル東急。

部下の女性と不倫している方、気をつけないとオチンチン、切られますよ。 [映画]

391149003.jpg新宿歌舞伎町でバーを経営するカンちゃんが先日、赤坂に住んでいるという何ともゴージャスな女性友達(Aさん)と一緒に、赤坂の店に来てくれた。私も図々しくご一緒させてもらったが、まもなくしてカンちゃんたちはあるコンサートに出かけていった。私は先回りをしてカンちゃんが経営する歌舞伎町のバーで飲むことにして、午後10時過ぎ、カンたちと歌舞伎町で再び合流した。

カウンターでAさんといろいろ話をしていたら、Aさんは私の知らない世界のことをたくさん知っていることがわかった。それではというので、大切な方を接待できるいい料亭が赤坂界隈にないかAさんに聞いてみた。Aさんはすぐ私の質問に答えてくれた。Aさんによると、赤坂の料亭もいいけど、場所にこだわらないのであれば、神楽坂の料亭のほうが雰囲気があっていいというのだ。そして、自分がよく知っているという神楽坂のある料亭をその場で紹介してくれた。

凄い方がいるものだと感心したが、教えられた料亭を家に戻ってさっそくインターネットで調べてみたら、その店では芸者衆をむかえた宴席も用意していることがわかった。以前、向島の料亭に何度か行ったことがあったが、そのときは芸者衆というよりは和服を着たコンパニオンといった感じの若い女性がいつも接待してくれて、どう見ても芸者衆という風情ではなかったが、神楽坂のこの店はどうやら本格的な芸者さんが芸を披露してくれるようだった。

三業地(さんぎょうち)というのがある。芸者屋(置屋)、料理屋そして待合の総称である。現在、料亭とか割烹などの看板を掲げているところは料理屋に分類される。芸者置屋とは、料亭などに芸者衆を派遣するところで、インターネットで「芸者置屋」と入力して検索すると、置屋のホームページや芸者さんのブログなどが結構ヒットする。そういえば、私の会社からそう遠くないところに、料亭などに芸者さんを手配する仕事などをする「浅草見番」(正式名称は「東京浅草組合」)という有名な芸者置屋がある。この近くのお座敷に私も一度だけ招かれ、風情を味わったことがある。

待合(まちあい)とは、いわゆるお座敷のことで、客が芸者を呼んで遊興する場所のことである。待合という言葉は今ではほとんど使用されていない。だが昭和の昔、この待合が猟奇事件の舞台となったことがある。

昭和11年5月、荒川区の三業地尾久にある待合「満佐喜」で、現在の中野区新井にあった小料理店の主人石田吉蔵が、その料理店で仲居として働いていた阿部定に殺害された。いわゆる「阿部定事件」である。石田は阿部定に首を絞められ、局部は切り取られていた。逮捕されたとき彼女は、石田の局部を大切に持っていたという。死んだ石田の太ももには血で「定、吉二人」と書かれていて、石田を愛するあまりの行為だったと彼女は供述した。

石田と定は小料理屋の主人と仲居であるから、今風に言えば職場の上司と部下の関係ということになる。だから、愛情のあまり、部下が関係のあった上司のオチチンチンを切って殺してしまった、それが「阿部定事件」なのだ。現在、部下の女性と不倫関係にある全国の男性上司の方々、くれぐれも浮気はしないように気をつけてくださいね。ひょっとしたら、あなたの愛人は現代の「阿部定」かもしれませんからね。


写真は、杉本彩主演の映画「JOHNEN 定の愛」のシーン。

再び、秋刀魚の味、苦いのはワタではなく孤独感なのです。 [映画]

1153.jpg昨日、釧路でサンマが不漁という記事を書いたが、今朝テレビを観ていたら、サンマが例年の1/10しか獲れていなくて、サンマの価格が高騰しているという話題が紹介されていた。どうやら、サンマ不漁は全国的なニュースらしい。

実は昨夜、釧路の料理店でサンマの塩焼きを食べてきた。小振りで、脂もそんなに乗っていなかったが、サンマはやはり刺身より塩焼きということで、今年初めて、サンマの塩焼きをいただいた。

ところで、みなさんは、サンマの塩焼きをどのように食べられるだろうか。胴体真っ二つという方はさすがにいないと思うが、因みに、私の食べ方は次のとおりです。基本は、まず、上の面を食べてから、背骨を外し、次に下の面を食べること。上の面を食べるには、箸先で頭から尻尾までサンマの中心部分に切れ目を入れ、上下に身を観音開きのように開いて食べる。次に、背骨を尻尾から頭のほうに向かってゆっくりと外し、それから下の面を食べる。苦いワタの部分も美味しいので、大根おろしやスダチと一緒に私は食べる。まあ、みなさんも自分の流儀があると思いますので、それで結構かと思います。

さて、サンマは漢字で秋刀魚と書くから、もちろん、秋が旬の魚である。旬というのは、その魚が一番美味しく(例えば脂が乗っている)、そして大量に獲れるから値段も安い、そういうタイミングのことを言う。私は港町、釧路で生まれ育ったから、6月になったら時知らず(脂の乗った春の鮭)、8月になったらサンマ(安くて栄養豊富)、1月になったらタラ(白子のポン酢は旨い)等々、旬の魚を無性に食べたくなる。日本は四季がはっきりしていて、旬のものを楽しむ習慣が日本人にはあるわけだが、冷凍技術が格段な進歩を見せ始めていて、獲りたての鮮度を一年中保つことが可能になりつつあるのだ。

冷凍技術の進歩、養殖技術の進歩は、美味しいものをいつでも食べられることを可能にしつつある。私が今進めている飲食店プロジェクトで、北海道の牡蠣を使ったカキフライをレギュラーメニューにする予定でいるのだが、これも、養殖牡蠣が年中手に入るおかげで可能になったのである。そういう意味では、旬にかかわらず、美味しいものがいつでも食べられるというのは幸せなことなのだが、旬が無くなりつつあるという意味では、少し寂しい気もする。

サンマで思い出したが、小津安二郎監督に「秋刀魚の味」という名作がある。父親役は笠智衆、娘役は岩下志麻。テーマは、娘を嫁に出す父親の孤独感、大体そんなところだと思うが、この映画を観られた方も多いと思うが、どうしてこの映画のタイトルが「秋刀魚の味」なのだろうか、そう疑問に思った方も多いのではないだろうか。

特に意味はなかったという説もあるが、小津監督ほどの巨匠ともなれば、タイトルにもこだわりがきっとあるはずだ。作家・佐藤春夫の代表的な詩に「秋刀魚の歌」がある。この詩のなかにあの有名な「さんま苦いか 塩つばいか(しょっぱいか)」という言葉がある。この「苦いか 塩つぱいか」というのは、秋刀魚自体の味を表現しているものではなく、男が一人食卓で秋刀魚を食べるときの孤独感のようなものを謳ったものとされる。だから、娘を嫁に出す父親の孤独感を描いた映画なのだから、佐藤春夫の詩を拝借して「秋刀魚の味」としたのではないか、私は勝手にそう想像しているのである。どなたか、その辺の事情をご存知の方がいらっしいましたら、教えてください。

写真は、映画「秋刀魚の味」の笠智衆と岩下志麻。

チョ・ジウの美しさより、オバサンパワーが頼み。 [映画]

choi-ji-woo-2.jpg私はよく「一人カラオケ」に行く。行きつけの店が歌舞伎町にあり、馴染みの店員さん(何人かいる)は私の顔を見るなり「今日、時間はどうされますか?」とだけ聞く。信じてもらえないかもしれないが、通される部屋がいつも同じなのである(つまり、私専門の部屋があるのである。)。

それだけ私はその店に通っているというわけだが、それでも、入店時には一応、名前と年齢を申込用紙に記入している。先月の3日以降は、年齢欄には50と正直に記入している。名前も本名を書くようにしているが、名前よりも年齢を書くときのほうがなんとなく緊張するのはどうしてだろうか。それは多分、いい年をしたオジサンが若者に交じってカラオケボックスに来ることに対する(それも一人で)多少の負い目のようなものを感じているからかもしれない。

そんなオジサンを優遇してくれるカラオケ店が増えている。例えば、「歌広場」にはシルバーサービスという優遇制度があり、60歳以上の利用者は平日の室料が半額になる。お店からすると、平日の昼はアイドルタイム(お客さんの少ない時間帯)だから、割引をしてもシルバーの人たちに利用してもらった方が営業上助かるのである。

お金もある、時間もある、それがシルバー世代の人たちだ。先日、大手広告代理店の営業部長さんと映画の話をしていて、面白い話をうかがった。彼とは今、映画を作ろうという壮大な話を進めているのであるが、彼曰く、「今の映画は、オジサンではなくオバサン受けする映画を作らないと当たらない」という。韓流ドラマのヒットを思い起こしてみてくれ、彼はそう言う。なるほど、韓流ドラマのヒット、そして一大韓国ブームの担い手はひとえに、日本のオバサンだった。

どう見ても、今の日本で元気のあるのはオジサンではなくて、オバサンのほうである。ぺ・ヨンジュンに憧れ、「冬のソナタ」のロケ地に行き、お金を使いまくるパワーのあるのは飽くまでもオバサンのほうであり、オジサンのほうではないのだ。チェ・ジウ(写真)がいくら美人だからといって、オジサンはわざわざ韓国には行かないのである。「狙うはオバサン」、そういう時代らしい。

さて、私が準備を進めている飲食店のほうであるが、先日お話した「味噌汁」のほうはようやく目途がついた。オバサンにもきっと受け入れてもらえる、そんな「味噌汁」が出来たと思う。

「さあ、張った、張った」、でもクレジットカードはいけません。 [映画]

f0109989_22292575.jpg今年のベルリン国際映画祭で、寺島しのぶさんが最優秀女優賞を獲得した。彼女の実の母親は、昭和40年代に東映の任侠物映画を中心に活躍した大女優、藤純子である(現在は、富司純子に改名している)。藤純子と言えば「緋牡丹博徒」シリーズである(写真)。背中に緋牡丹の刺青を背負った女博徒、矢野竜子こと「緋牡丹お竜」が、女だてらに義理と任侠の世界で生き、悪と戦うという話であるが、このシリーズの代表作とされるのが「緋牡丹博徒花札勝負」である。

さて、日本中央競馬会(JRA)は先日、来年からクレジットカード決済で馬券を購入できるシステムを導入すると発表した。ただ、購入額については限度を設けることを検討しているらしく、一定の歯止めはかかる見込みであるが、それでも、馬券購入額が今より増えることは確実のように思う。

私も年に何度か競馬をやるが、つぎ込むお金は暮れのビックレース、有馬記念のときが最大で1万円くらい、正直捨てたお金だと思って買っている。熱狂的な競馬ファンというのはどこにもいるが、負けが込んでくると熱くなる人も多く、そんなとき、手許に現金がなくてもクレジットカードで馬券を買えるシステムはそんな人たちには朗報なのかもしれないが、どう考えても自己破産する人間が増えるのは火を見るよりも明らかような気がする。

藤純子演じる緋牡丹お竜が花札を着物の袖のあたりに隠すと、「さあ、張った、張った」の口上を合図に賭場に集まった客人たちがいっせいに現ナマを場に張る。場が整った直後、緋牡丹お竜がゆっくりと花札を開けていく。最後の札が開くと勝負が決まる。すぐに客の間から歓声が上がり、そして、負けた客の現ナマは瞬時に巻き上げられる。博打の醍醐味、現ナマ乱舞の賭場にはそういうものがある。

どんなことでも自由でいいじゃないか、あとは本人の自覚とモラル次第、そんなふうにいつも考えている私であるが、馬券のクレジットカード決済だけはどうしても違和感を覚えるのである。

さて、昨日から釧路に来ている。3月といってもこちらはコートなしではいられない。冷たくなった身体を温めようといつものように熱燗をガバガバ飲んで(お猪口に注がれると一気飲みする)昨日は爆睡。それにしても、昨日食べたたちぽん、蟹の甲羅揚げ、かれいの煮付け、たらの芽の天麩羅は旨かった。贅沢をしなくても北海道には美味しいものがたくさんある。さて、今日は何を食べようか。

ロマンポルノ、観たいのはやっぱり、あのシーンです。 [映画]

image19128.jpg先週から北海道出張が続き、その合間を縫って引越しの準備があったりと、さすがの私も少々バテ気味だ。いつもであれば土曜日の夜は新宿あたりに夜な夜な繰り出すのであるが、今日はどこにも外出せず、ずっと家にいることにした。

来週月曜日から上野方面に移るからという訳ではないのだが、今日は玉の井(現在の東向島)を舞台に、老境の小説家・大江と娼婦・お雪との出会いと別れを描いた、永井荷風の『濹東綺譚』を読んでみた。この小説、ドラマチックな展開は何一つないのだが、玉の井、浅草といったあたりの下町情緒、人情、そして大江とお雪の出会い、別れが、季節の移ろいに併せて実に上手く描き出されていて、不思議な魅力を感じされる小説だった。

大江とお雪の出会いは突然なのだが、そのくだりが艶っぽくていい。嵐の夜、大江が傘をさして歩いているといきなり後方から「「檀那(だんな)、そこまで入れてってよ。」といいさま、傘の下に真白な首を突っ込んだ女がある。」。この、首の真白い女がお雪である。こんな夢のような出会い、私も一度くらい経験したいところだが、いずれにしろ、永井荷風はつくづく名文家だと思う。

さて、『濹東綺譚』は二度、映画化されている。二回目の映画でお雪を演じたのが墨田ユキだった。ご存知の方も多いと思うが、墨田ユキはそれ以前、雨宮時空子(ときこ)という名でAV女優として活動していたことがある。北海道出身で肌が白く、男好きのするぽっちゃり顔で、一部では人気があったと思うのだが、彼女の無修正動画が流出して、一時期アンダーグランドで話題になったこともあった。

過激な性描写のAV映画が一般的になって久しいが、それとは一線を画する日活ロマンポルノがいよいよ復活することになった。復活第一作は、日活ロマンポルノの記念すべき第一作である「団地妻 昼下がりの情事」のリメイクである。ところで、「団地妻」といえば白川和子さんである(写真)。色っぽくて団地妻にまさに適役、絶品という感じである。

日活ロマンポルノの復活について映画評論家などが新聞などでコメントしていたのを読んだが、復活の理由についてある方が「今のAVにはポルノはあるが、ロマンはない。それに飽きた人たちが、ストーリー性のある日活ロマンポルノに回帰したのではないか」、そんな趣旨の発言をしていた。もっともらしく聞こえるが、私はそうではないと思う。復活前の日活ロマンポルノのときだって、観ている男性のほうは「早くセックスシーンが観たい」と願っていたのだ。ストーリー性なんてカッコいいものはどうてもよかったのだ。それに、エッチ映画にロマンを求めてる人なんて、そういない。

何度か書いたが、「飽きる」、これが人間の基本的性質の一つだと思う。AVをずっと観続けていると、どこかで必ず「飽きる」(私も飽きた)。そうなると、たまにはちょっと毛色の違うエッチ映画を観たくなる。そういうタイミングが今、たまたま訪れている、ただそれだけのことじゃないかと思う(ただし、復活した日活ロマンポルノが昔のような人気を再び獲得することが出来るかどうかは、未知というか、正直そんなに簡単なことではないと思う。)。

夫婦善哉、なんぞうまいもん食いに行こか? [映画]

img0010.jpg今月下旬、紅葉を見に京都に行く。早朝の便で羽田から伊丹に向かい、陽の高いうちは京都のお寺を巡り、暗くなりだした頃大阪を目指す。今回はミナミで飲むつもりであるが、ミナミに行くと私は必ず法善寺横丁を訪れる。ここには、ぜんざいで有名な「夫婦善哉」があるが、この店の地名度を一気に上げたのは織田作之助の小説「夫婦善哉」と同名の映画だった。

太宰治、坂口安吾と並び「無頼派」の代表作家と言われる織田作之助は大阪に生まれ、生涯大阪にこだわり、そして東京の権威に無言の抵抗をした。彼の代表作「夫婦善哉」は、ぼんぼんで何をやっても失敗する柳吉と、芸者あがりでしまりやで愛情深い蝶子という夫婦の物語で、しっかり者の大阪女性がテーマになっている。昭和30年に「夫婦善哉」は映画化され、この映画で主演を務めたのが先日亡くなられた森繁久彌さんだった(私は蝶子役の淡島千景さんのファンだった(写真))。

その森繁久彌さんについて、「社長シリーズ」で共演の多かった小沢昭一さんが昨日の産経でなるほどなあと思う話を書いている。小沢さんの言葉を私なりに解釈すると、森繁さんは「芝居をしているようで芝居をしていない、芝居をしていないようで芝居をしている」そんな役者だったというのだ。彼の出演した映画をそんなに観ているわけではないが、なんとなくこの言い方は当たっているような気がする。

さて、私事で恐縮ですが、ブログ左上のプロフィール写真を更新いたしました。先週土曜日、フォトグラファーの立花奈央子さんに新宿副都心で撮影していただきました。とてもセンスのいい写真家の方で楽しい撮影会だったのですが、如何せん、被写体がよくなかったのが悔やまれます。当分の間、この写真でいきたいと思いますので、よろしくお願いします。

足フェティシズム、その先にあるものは女性器? [映画]

tnr0911091930007-l6.jpg先日、今年の美脚大賞が発表された(写真)。長澤まさみさんや釈由美子さんらが受賞したが、我々男性陣は正直、このような美脚を目の当たりにするとちょっと興奮する(興奮しない男性もいるかもしれないけど)。ちょっとだけ興奮するくらいならいいが、マニアックになってくると「足(脚)フェチ」という立派な称号がつく。足フェチはさまざまなフェティシズムのなかでも断トツに多いと言われている。

精神分析で有名なフロイトは、足フェチなどのフェティシズムは本来の性対象(男性ならば女性、女性ならば男性)の不適切な代用だと言っている。性対象の代用物として代表的なものに足や毛髪があり、特に足は古くから性的対象であったとされる。足フェチの場合、もともとは性器を見たい欲動というのがあって、この欲動は下のほうからそこ(性器)に近づこうとするが、禁止と抑圧の作用を受けて、道半ばにして阻止されてしまい、そこにフェティシズムが生まれると、フロイトは書いている(フロイト『性理論のための3篇』)。

難しく書いているが、平たく言えば、男性は、女性の脚を見ながら性器のことに思いを馳せているということだ。フロイトはフェティシズムを性的異常とか性的倒錯と書いているが、異常とか倒錯という言い方はあまり適切でないように思う。男性でも女性でも、性に関するいろいろなフェティシズムを誰でも一つや二つ持っているような気がするからだ。(たとえば、女性に尻フェチというのがある。これも、男性の尻自体に興味があるのではなく、本当の興味はその先にある男性器にあるのではないかと、私は勝手に想像している)。

さて、広末涼子さんは昨年、冒頭の美脚大賞に選ばれた。その広末さんが主演する映画「ゼロの焦点」が今週公開される。原作は今年生誕百年になる松本清張。久我美子主演で1961年に初めて「ゼロの焦点」は映画化されたが、上手く表現できないのだが、この映画はなんとなく全体的に滑らかさのようなものが欠けていたような気がする。今回広末さんがどんな演技をするのか楽しみであるが、それ以上に、映画自体の出来栄えがどうなのか気になるところだ。

今日はもう一言。脳科学者の茂木健一郎さんが過去3年間で約4億円の脱税をしていたことが報道された。驚いたことに、印税収入、講演料、テレビ出演料などの収入を一切申告していなかったらしい。忙しくて税務申告をする暇がなかった、そう茂木さんは弁解しているが、本人が行わなくても税理士に依頼すれば済むことであり、正直呆れてしまった。彼の著作のファンだった私としてはとても残念だ。人間の脳の優秀さを常日頃説いている茂木さんであるが、脳をそんなに使わなくても税務申告ぐらいはできると私は思うのだが、如何だろうか。

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