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ユッケ禁止令を、発令いたします。 [時事]

RIMG0080.JPG一昨日の金曜日、仕事で札幌に行ってその夜、ススキノで一杯やった。二次会のバーで今話題になっているユッケの話になった。あるホステスさんが、北海道では焼肉店に行ってもユッケを食べないと言うので、一瞬「えっ?」と思った。

なるほど、北海道で肉と言えば豚肉と羊肉(ジンギスカン)であるから、牛肉を使って作るユッケはあまりポピュラーではないかもしれない。なるほど、私も北海道にいた23年間を思い起こしてみると、ユッケを食べた記憶がない。

ユッケ好きの人にとって、今回の集団食中毒事件は深刻かもしれない。それにしても不思議なのは、いつ頃からユッケが一般に食べられているのか知らないが、これまでどうして今回と同じような事故が一度も起きなかったのだろうかということだ。不衛生なやり方でユッケを出していた焼肉店はこれまでも多分あったはずなのに。

厚生労働省は生食用の肉に関する規制を強化し、罰則規定も作ることを検討しているという。当然の話だと思う。ある業界関係者が「いつか起きると思っていた」と言っていたが、想像するに、肉の業界関係者も行政も「ユッケは危険」という認識を昔から持っていたのではないだうか。そしてそれが今回初めて現実のものとなった、そういうことのような気がする。

フグ料理は、フグを捌く資格を持った料理人だけが調理できると聞いたことがある。ユッケに関してはそこまで仰々しくやる必要はないのかもしれない。でも、スッキリさせるには、ユッケ好きの方々には申し訳ないが、いっその事、ユッケのように牛肉を生で食べることを禁止したらどうだろうか。そのほうが、手っ取り早くて確実なような気がする。

それでも食べたいという方は、自分の命をかけて隠れてこっそり食べればいいのではないだろうか。菌というのは、目視しただけでは見えないものである。そういえば、原発施設からでる放射能も目に見えない。目に見えないものは危険が一杯、そういうことかもしれない。


写真は、今日午後の新宿。日差しが強く、気温は25度を超え、夏日となった。

クリトリスのベニス化で、人類は生き延びるのです。 [時事]

RIMG0075.JPG今日は「コドモの日」。「ドコモの日」ではありません(つまらないです。)。ところで、皆さんは「コドモ」はどのように通常表記しますか。「子供」、「子ども」、それとも「こども」でしょうか。私は最も字数の少ない「子供」とほとんど表記します。まあ、どう表記しても間違いではないと思いますが、「国民の祝日に関する法律」に祝日として定められている「コドモの日」は、「こどもの日」と、すべてひらがなで表記されています。

この法律の第2条に、「こどもの日」の定義が書かれています。曰く「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。」。「こどもの人格を重んじる」こと、多少大袈裟な感じはしますが、まあ、いいでしょう。その次にある「こどもの幸福をはかる」こと、まあ、異論はありません。それでは最後にある「母に感謝する」は、どうでしょうか。私の想像ですが、少し違和感というか、人によっては怒りを覚えた方(主に男性)がいるかもしれません。

「父には感謝しなくていいの?」、違和感と怒りの正体はこの言葉に集約されているのではないでしょうか。感謝する相手が母のみになっている理由は知りませんが、揉め事を避けるためにも、ここは「両親に感謝する。」と一般的な表現にしておけば、無難だったような気がします。

昨日、明石家さんまが司会を務める「ホンマでっか?」というテレビ番組を観ていたら、幼児期の子供と親の関係について、面白い話が披露されていました。正確に覚えていませんが、大体次のような話です。幼児期の子供は、母親が幸福であれば、子供も幸福になるが、母親がもし不幸であれば、子供も不幸になってしまう。つまり、子供の幸不幸は母親の幸不幸に連動する、そういう話です。

それでは、父親と子供の関係はどうでしょうか。世の父親の皆様には大変辛いお話になるかもしれませんが、父親が幸福でも不幸でも、子供の幸不幸には全く影響を与えないのだそうです。言い換えれば、幼児期の子供にとって、父親という存在はあまり重要ではない、そういうことです。

さて、先日、こんな話を聞きました。ご存知のように、男性より女性のほうがはるかに長生きする世の中ですが、仮の話ですが、この地球上から男性が一瞬のうちに消え失せ、女性しかこの地球上に存在しなくなったら、一体どうなってしまうのでしょうか?人類は絶滅してしまうのでしょうか。否、そうではないらしいのです。一部の女性が男性化し、人類は絶滅しないのだそうです。

ここからは子供の皆さんには少し刺激的なお話になるかもしれませんが、お許しください。女性の性感帯にクリトリスという器官があります。発生学的には、クリトリスと男性のペニスは源が同じで、クリトリスが隆起してベニスになったと考えられています。でも、ベニスは射精や排尿といった機能を持ってますが、クリトリスにはそのような機能はありません。では、何のためにクリトリスは存在するのでしょうか。それは、ただただ快感を得るだけに存在する器官なのです(『40代からの心と体に効く〔生涯SEX〕のすすめ』)。

さらに驚いたことに、ここからは女性の皆さんにも聞いていただきたいのですが、クリトリスは男性のペニスと同様、陰茎(いわゆる「サオ」)に相当する細長い陰核体と、亀頭に相当する陰核亀頭によって構成されていて、快感を得るための神経が非常に多く集中しているのだそうです。

ここまで生物学的というか医学的にクリトリスとペニスの関係が解明されているのですから、地球上から男性がもしいなくなって女性だけになったとしても、一部女性のクリトリスがベニス化し、種の保存は継続されるという話は、理解できるような感じがします。

結論的なことになりますが、有名なある作家の本のタイトルではありませんが、男というのは所詮、「消耗品」なのかもしれません。

こどもの日にちなんで、「です」「ます」調で今日は記事を書いてみましたが、内容的には適切さを欠いた部分もあるようです。でも、祝日に免じ、お許しください。

写真は、今日の神宮球場の様子です(ヤクルト-中日戦)。私は巨人ファンですが、暇だったので行ってきました。

携帯電話が鳴らない、私は哀れでしょうか。 [新宿]

RIMG0066.JPGコンビニ、飲食店、物販店などあらゆる場所で、東日本大震災に関する義援金募金箱が設置されている。私も、小額のお釣りがあるときは募金箱のなかにお金を入れるようにしているが、これまでの総額は多分、千円にも満たないだろうと思う。

一方、有名スポーツ選手とかタレントのなかには、億単位、千万単位の寄付をしている人たちも少なくない。凄いなあと、ただただ感心する。こういう人たちはきっと、自分とは全く別の世界で生きている人たちなのだと思う。世の中には貧乏な人、中くらいの人、金持ちの人、大金持ちの人など、いろいろな人がいるわけで、私には小さな人助けしかできないが、お金持ちの方は私たちには出来ない大きな人助けをしてもらえればいいのではないかと思う。

さて、昨日、私は満51歳になった。昨夜、歌舞伎町にあるバー「琥珀」「gekkou」「SUZY-Q」のオーナーさんたちが、私のために一席もうけてくれた。高田馬場にある居酒屋で、「琥珀」「gekkou」の常連さんたちも加わってワイワイガヤガヤ盛り上がり、それから酔っ払いながらボーリングをやり(3ゲームやりました。平均スコア110ほど。下手です。)、その後新宿に移動した。まず「琥珀」で軽く一杯やり、それから新宿二丁目のゲイバーでゴールデン街「スクエア」のスタッフたちと合流。朝までドンチャン騒ぎをしてしまった。結局、今年の誕生日も新宿で締めとなったが、仲間というか、友人というか、気を許すことができる人が周りにいるということは心強いものだ。東京砂漠という冷たい言葉があるが、私にとって新宿は血も涙もある、人情の大都会なのである。

ところで、私は口ベタなほうなので(違う!という声も多いが)、友人と呼べる人は多くない。その証拠に、私の携帯はほとんど鳴らない。淋しい人ね、哀れな人ね、そう指摘してくれる方もいらっしゃるが、私のほうは一向に気にならない。というか、どちらかと言えば、ピー、ピー携帯が鳴らないのは煩わしくなくて快適だとさえ思う。そもそも、固定電話でも携帯電話でも、ピー、ピーという高音が突然鳴ると、心臓によくないし、何事が起こったのかと心配になってしまう。

世の中にはいろいろな人がいる。良い人もいるし、悪い人もいる。物静かな人もいるし、うるさい人もいる。正直な人もいるし、ずるい人もいる。大切なことは、そのような様々な人のなかから、自分に合う人だけを選んで友人、仲間にすることだと思う。人の生い立ちとか、性別とか、学歴とか、年齢とか、そういったことは友人、仲間を選ぶ際に大切な要素ではない。肝心なのは、自分の感性、センスに合うかどうか、この一点ではないかと思う。

と言っても、プライベート、ビジネスで、自分の感性、センスと合わない人と付き合わなければならないことはある。そういう人と徹底的に闘うという選択肢もないわけではないが、ただ、長い人生のことを考えると、闘い続けることは精神的にしんどい。ならば、自分の感性、センスと合わない人とは、出来るだけ係わらない、そっとしておく、そういう態度がほうが賢明なのではないかと思う。

まあ、そうは言ってもこの世の中、自分の思うようにはなかなか行かないもので、最後は、ケ・セラ・セラの精神(なるようになるさ)で行くしかないのかもね。以上、51歳を迎えたオジサンの戯言でした。


写真は、新宿三丁目交差点の様子。みんな、何を考えながら歩いているのかなあ。

「まだ、早い!」、お肉はしっかり焼きましょう。 [銀座]

RIMG0069.JPG富山県の焼き肉チェーン店で生食のユッケを食べて児童二人が集団食中毒で死亡した。本来加熱して食べさせなければならない肉を、お店では加熱せずに客に出していた。報道を見る限りであるが、お店も肉の卸売業者も「確信犯」のようで、赤坂で飲食店を仕切っている私にとっては他人事とは思えない話だ。

さて、私の住んでいる高円寺からJR総武線で3つ目の駅が大久保駅である。駅を降りると大久保通りがあり、ここから西に向かって明治通りにぶつかるまでの一帯が日本一のコリアンタウンである。焼肉店をはじめ、韓国食品を販売する店や、最近ではK-POPSのCDを売る店が繁盛している。

私は一人で焼肉店に入る。一人焼肉は惨めだと言う人がいるが、私は一向に気にならない。店内のお客さんはほとんどカップルか女性同士であるが、年のせいもあるが、私は恥ずかしいと思ったことがない。

網の上でカルビをジュー、ジュー焼いていると、女性店員が焼くのを手伝ってくれるときがある。これはもちろん親切心からの行為だと思うのだが、ちょっと不都合なこともある。焼肉はレアぐらいが好きな私であるが、店員さんはウエルダン、つまりしっかり焼こうとする。店員がどこかに行った隙にレア気味のカルビを網から取り皿に降ろすと、それを見つけた店員さんが足早にやってきて「まだ、早い!」と言って、取り皿にある肉を再び網の上に乗せてしまうのだ。

ちょっと怖そうな店員さんなので素直に従うようにしているが、放っておいてほしいと思うときもある。しかしながら、今回のような食中毒事件があると、どんな肉でも生ではなく、この店員さんがするようにしっかりと焼くのが正解のような気もする。

そういえば先日上野に、一人焼肉の焼肉店がオープンした。一人で焼肉店に行くのが苦手な人のための焼肉店だという。客席数25で、それぞれの席は図書館の自習室のように区切られていて、全員同じ方向に向かって座り客同士が互いに見えないように作られている(写真を見ると、仕切りの幅が狭く、どう見ても窮屈そうな感じがする)。

同じ一人でも、正直言うと、こういう店には行きたくない。それこそ惨めな感じがするからだ。解放感がないというか、味気ないというか、焼肉も不味くなってしまうような気がする。ニッチ(隙間)を狙った商売なのかもしれないが、どうなのだろうという感じがする。


というわけで、今日は部下を引き連れて、久しぶりに数寄屋橋の屋上で成吉思汁を食べてきた。写真に写っている赤身のラム肉であれば、私は何の抵抗もなく食べることが出来る。しかしながら、妻子持ちの部下たちは、富山の件で相当ビビッていて、焦げ目がしっかりついてから食べていた。まあ、仕方ないね。

牡蠣を食べて、オジサンに再び春がめぐってきますように。 [BOOKS]

生かき~1.JPG明日から皐月、五月。新緑が眩しい季節であるが、東北にも遅い春は確実に訪れているようで、桜の名所である弘前公園では、例年通り弘前さくらまつりが来月8日まで開催され、ソメイヨシノなどの桜を見ることができる。

春というと、花が咲いたり、新しい出会いがあったり、なんとなく明るく、そして元気になれる季節という感じがする。新明解国語辞典で春の意味を調べてみると、その最後に、「色情」という意味が春にはあることが記されている。その用例として「春(性的な感情)のめざめ」「春をひさぐ(売春する)」が挙げられている。

「回春」という言葉がある。再び辞典を調べてみると、「回春」とは「病気が治り、心身共に元気になること(狭義では、老人が肉体的に若返ることを指す)」とある。一般に「回春」といえば、この辞典で言うところの狭義の意味で使われることがほとんどだと思うが、もっと言えば、勃起しなくなった男性自身が「役立つようになった」ことを通俗的には「回春」(または「再春」)と言っているように思う。

私も来月3日で満51歳を迎えるが、アチラのほうは20代の頃に比較すると格段に弱くなったと思う。学生時代のときは、若い女性がタイトスカートを履いて歩いている姿を道路で見かけただけで下の方が反応したものだが、今は、過激なヌード写真を見ても「愚息」はダンマリを決め込んでいる。ただ、このような傾向は私だけでなく、男性ならば大体の人が50歳を超えると経験することではないかと思う。

では、どうしたらオジサンが再び「春」を迎えることができるのか。そのヒントが、竹越昭彦医師が著した『40代からの心と体に効く〔生涯SEX〕のすすめ』という本のなかに書かれている。

最も大切なことは何かと言えば、それは本のタイトルにもあるように、継続的にSEXをすることらしい。もちろん、場合によってはバイアグラなどの勃起薬も使いながらということだが、面白いのは、SEXそれ自体にさまざまな効用があるという話だ。例えば、SEXをすると免疫力がアップして風邪をひきにくくなったり、心臓疾患や前立腺ガンのリスクが低下する。また、イギリスのある病院の調査によると、SEXをすると外見が若々しく見えたり、頭も良くなることが判ったというのだ。

そう言われてみれば、いかにも元気溌剌でバイタリティーがあり、SEXも強そうな男性を見ると、不思議と健康で若々しく映るものだ。反対に、貧相でSEXも弱そうな男性を見ると、どうしても冴えない感じがする(昨今の草食系男子はこの部類か)。

40代以上の男性が「春」を呼び戻すために効果抜群の食べ物がある。それは、ズバリ、牡蠣(カキ)である。海のミルクと呼ばれ栄養価の高いことで知られる牡蠣であるが、別名「セックス・ミネラル」と呼ばれ、ニンニク、山芋、スッポンなどよりも、牡蠣が精力をつけるには一番効果的らしい。性豪といわれたイタリアの作家、ジャコモ・カサノヴァは牡蠣が大好物で、一日になんと80個も牡蠣を食べたというエピソードが残っている。



三陸産牡蠣の生産量は広島に次いで第2位であったが、今回の大震災で漁場は大被害を受けた。復旧には時間がかかるということだが、日本のオジサンを奮い立たせるためにも、少しでも早く漁が再開されることを祈るばかりである。



キャンディーズ、私の場合、哀愁のシンフォニー、です。 [芸術]

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元キャンディーズのスーちゃんこと、田中好子さんが55歳で亡くなられた(写真中央)。平均余命80歳以上の現代において、55歳というのはいかにも若い。これも人間の寿命と言えばそれまでだが、人間は誰でもいつか必ず死ぬのだということを、改めて思い知らさせた突然の訃報でもあった。

キャンディーズは私が高校生のときに全盛期を迎えていた。その頃、男子生徒は好みによって、ラン派、ミキ派、スー派に分かれていたが、私は断然ラン派だった。ぽっちゃりとしていて愛くるしかったスーちゃんも結構人気があったように記憶している。

キャンディーズの数あるヒット曲のなかで、私が一番好きなのはなんといっても「哀愁のシンフォニー」である。私の場合、キャンディーズといえば「年下の男の子」でも「ハートのエースが出てこない」でも「春一番」でもなく、ただただ「哀愁のシンフォニー」なのである。

それにはちょっとした理由がある。ここで何度か書いているが、私は中学、高校と深夜放送にのめりこんでいた。当時私は北海道釧路市に住んでいて、深夜になると、ソニー製のラジオを慎重にチューニングしながら、在京のラジオ放送局の周波数に合わせ、星降る夜空を眺めながら深夜番組を聴いていたのだ。その頃よく聴いていた番組は、文化放送の「セイヤング」「走れ歌謡曲」、TBSラジオの「パックインミュージック」などである。

これらの在京ラジオ放送局の他に、私は関西のあるラジオ放送局にまでチューニングを仕掛けていた。それは、ABC朝日放送(周波数1008キロヘルツ)で、私がたまに聴いていたのは「ABCヤングリクエスト」という番組だった。これは、番組名が示すとおり、視聴者のリクエスト曲をどんどんかけていくバラエティー番組で、歌好きの私にピッタリだった。

「ABCヤングリクエスト」は月曜日から日曜日まで、毎日放送されていたが、私が必ず聴いたのは日曜日の深夜(つまり、月曜日)だった。というのは、在京のラジオ放送局は日曜日の深夜は大体午前1時頃にすべての放送が終了したのだが、「ABCヤングリクエスト」だけは、平日と同じ午前3時まで放送をしていたのだ。そのエンディングである午前3時が近づく頃、「哀愁のシンフォニー」が何度かラジオから流れてきたのを今でもよく覚えている。この曲が流れてくると、そのなんともいえない切ないメロディーが、深夜の静けさのなかで若い私をセンチメンタルにさせたのである。


ということで、キャンディーズといえば私の場合「哀愁のシンフォニー」だったという話であるが、それはさて置き、最後になりましたが、田中好子さんのご冥福をお祈りいたします。

二勝三敗の負け越し、でも、それでいいのです。 [BOOKS]

RIMG0049.JPG♪ 梅田新道 心斎橋と
雨の歩道は 淋しく光る
あなた あなたのかげを
あなたを偲んで 南へ歩く

ご存知、欧陽菲菲のヒット曲「雨の御堂筋」の一節である。

心斎橋のホテルで今、この記事を書いている。私は年に一度か二度、プライベートで大阪に来る。その目的は、食べ歩きと甲子園球場で阪神戦を観戦することである。今回は阪神戦のチケットが取れなかったので、食べ歩きに専念することにしたが、夏にはもう一度来て、そのときには甲子園に行こうと思っている。

私は根っからの巨人ファンである。それにもかかわらず甲子園まで毎年わざわざやって来るのは、阪神タイガースというチームが好きだからではなく(と、言っても、毎年来ているうちに、阪神タイガースのファンに少しなりかけてきたかもしれない)、阪神タイガースを応援するファンの姿を見るのが好きだからなのである。

阪神ファンの姿とは一体何か。それは一言で言えば、情熱である。熱い巨人ファンというのもいないことはないと思うが、総じて巨人ファンはクールなような気がする。ところで、大の阪神ファンを自認する國定浩一さんの『阪神ファンの底力』という本に、究極の女性虎キチの話が紹介されている。

その女性虎キチは、鎌野尚子さんという。阪神タイガースが人生そのものになってしまった人だ。実は鎌野さん、れっきとした30代のお医者さんなのだ。多忙を極めるお医者さんであるが、鎌田さんはスケジュールをうまく調整して、阪神の全試合を応援しているのだ。ということは、甲子園でのゲームだけではなく、日本ハムと対戦するときは札幌まで出かけて阪神を応援しているということだから、半端な情熱ではないのだ。まさに、阪神タイガースに人生を捧げてしまった、正真正銘の女性虎キチといえる。

さて、國定さんの話で私が「なるほどなあ」と思ったのは、阪神ファンには「二勝三敗の哲学」があるという話だ。「五回試合をやって、二回勝てれば十分なやいか」というのが「二勝三敗の哲学」だ。そういった精神を持った阪神ファンのもとで育った子供は幸せだと國定さんは言う。なぜなら、その子供は、我慢と挫折を知るからだ。一方、カネの力にまかせて、4番バッターばかりを揃え、常に勝つことを目指す巨人ファンのもとで育てられた子供は不幸だと言う。なぜなら、その子供は我慢を知らないからだ。社会に出たとき、どちらの子供が社会に適合していけるか、それは明らかだ(もちろん、阪神ファンの子供ということだが、これは飽くまでも、國定さんのご意見です)。


写真は、大阪に来たら必ず立ち寄る、串カツ「松葉」。本店は梅田新食道街にあるが、写真の「松葉」は地下鉄御堂筋線の梅田駅改札近くにある。真昼間から、ビール片手に串カツを頬張っている人たちがたくさんいる。今日は私もその一人になった。

今回の大阪では結局、串カツ店2軒、居酒屋1軒、うどん店1軒、お好み焼き店1軒の、合計5軒で食べ、そして飲んだ。今赤坂のお店で串カツを出しているが、本場大阪の串カツには到底勝てる水準にはまだない。研究の余地がたくさんあるが、今回一つ二つヒントを得たような気がするので、東京に戻ったらさっそくチャレンジしてみようと思う。

もしビジネスマンを首になったら、串カツ屋のオヤジになろうかと思っている。大阪でもっと勉強して、自分のオリジナリティーも加えながら、美味しい串カツ屋を東京でやってみたい。私はそのくらい、串カツが好きなのだ。

エロ時代、否、エコ時代に戻ろう。 [BOOKS]

RIMG0085.JPG電力不足による節電のせいで、首都圏の今年の夏は例年以上に暑くなりそうだ。ご存知のように、現在の日本では、主に原子力、石油、石炭などを利用して電気を起こしている。このうち、石油と石炭は化石燃料であり、これらを燃やすとCO2(二酸化炭素)が発生し、これが地球温暖化の「元凶」と指摘されている。一方、原子力はCO2を発生させない「クリーン」なエネルギーとされていたが、今回のような事故が起きてしまうと、単なる「有毒兵器」のようになってしまったと言っても過言ではない。

江戸時代の研究をされている石川英輔さんの『江戸時代はエコ時代』という本によると、江戸時代、エネルギーといえば太陽エネルギーだけで、石炭、石油は皆無に等しく、原子力に至っては影も形もなかった。当時の農業を例にとると、現在機械化されている動力のほとんどは人力、すなわち人間の筋力運動だけで動かしていたし、肥料なんかも人間の排泄物を下肥(しもごえ)として使用しており、江戸時代は完全な循環型社会だったと、石川さんは指摘する。

太陽エネルギーだけに頼っていた江戸時代であるが、だからといって江戸時代の文化が現代より劣っていたかというと、そうではない。建築物、機械や金属製品、陶磁器、木工品、さらに書籍、錦絵などの印刷物、美術についても、作品の完成度は今以上だったとされる。そしてなによりも、江戸時代は活気のあった時代であり、多くの人々は幸福に暮らしていた。

大量生産、大量消費の現代社会を石川さんは必ずしも批判しているわけではない。もう時代を逆戻りすることは実際は不可能だからである。ただ、江戸時代に生きた人々のエネルギー利用に関する知恵を、現代人は見つめなおしてみる価値はあるのではないか、石川さんはそう言っているような気がする。

ある方との対談が本の最後に収録されていて、そこで石川さんは興味深い発言をされている。産業の発展とともに大量生産、大量消費の社会は当分続くかもしれないが、どこかで時代を逆戻りしなければならなくなったとき、日本人は簡単に変化することができるのではないか、そんなふうに楽観視していると石川さんは言うのだ。なぜなら、日本人は本当にやらなければならないとなったら(例えば本格的な節電、節約生活を強いられるということだろう)、簡単にケロケロと変われる国民だからだというのである。

私はこの、「ケロケロと変われる」が気に入ったというか、大いに納得したのである。「ケロケロと変われる」というのは、いい加減な感じがする一方、いい意味で臨機応変、柔軟性があるということになる。この言葉は、日本人の特性をよく表しているような気がする。

江戸時代は、「えどじだい」であるが、戸を「こ」と読めば「えこじだい」になる。私のくだらないシャレはさておき、江戸時代のことを少し勉強してみるタイミングが今やってきた、そういうことかもしれない。

さて、今日は早い便で釧路に入り、一仕事終えてから少し前に、JRを利用して帯広に入った。帯広は特に仕事はなく、帯広支店の社員たちと飲みニケーションをするためにやってきたのだ。人を知る最短の方法の一つは一緒に飲むことだと私は考えているので、これもある意味「業務の一環」なのである(単に、私が飲みたいだけかもしれませんが)。

写真は、帯広の一つ前の停車駅である池田の名物「バナナ饅頭」。美味しいのはもちろんだが、パッケージのデザインが良い。



どうして私が、総理大臣に?自慢話はやめましょう。 [時事]

RIMG0084.JPG今朝、JR高円寺駅のプラットホームに立って周りの企業広告をボーッと眺めていたら、某大学受験予備校のキャッチコピーが目に入った。曰く「どうして私が東大に?」。私なりにこのコピーを解釈してみると、このコピーは多分「勉強が出来なかったダメ受験生であった私が、最難関である東京大学に入学できたのは、後にも先にも●●予備校のお陰です。皆さん是非、●●予備校にお越しください。」というニュアンスを伝えたかったのだろうと思う。

このコピー、私は生理的に全くダメである。理由は、「いやらしい」からである。このコピーのように、一見謙虚を装い、実は自慢しているみたいな「いやらしい」人間というのは、受験生に限らず結構いるものだ。

もし私がコピーライターなら、「私は一生懸命勉強して、東大に合格しました。」と単刀直入に書く。そのほうが、「いやらしさ」はないし、受験生のほうも「そうか、やっぱり東大というのは難関なんだ。気を引き締めて一生懸命勉強しよう。」という素直な気持ちになると思う。「どうして私が東大に?」なんて書いてあると、「出来の悪い私でも、予備校さえ行けば、そょっとしたら東大に合格できるかもしれない。」という、極めて安易な気持ちになり、根性を入れて勉強しなくなるに違いない。

謙譲の美徳、という言葉がある。謙虚な気持ちは尊いという意味で、日本人特有の感性だと思う。適度な謙虚心というのは、周囲の人間にとっても心地良いものだ。でも、謙虚さを強調しすぎたり、過度にへりくだった態度というのは、周囲の人間にとっては逆に不愉快である。

過度にへりくだったりしない、自慢もしない、要するに世の中、自然体でいけばいいのである。過度なへりくだりは嫌味に聞こえるし、自慢ばかりしていると周囲は白け、いつかしっぺ返しをくう。適切な例ではないかもしれないが、今日本で一番有名な企業になってしまった東京電力、そこの社員は超エリートと言われている。

社員のなかには、自慢げに東電の名刺を出す者もいたに違いない。東電という大看板があれば、信用力はあるし、銀座のクラブあたりでも簡単にツケもきいたであろう。でも、今はどうだろうか。

東電の名刺の「威光」は極端に衰えたのではないだろうか。株価は震災前に比べて4分の1になり、原発の処理方法如何では会社自体の存続に議論が及ぶ可能性もある。そんな状況下、これまで高飛車な態度で世の中に接してきた東電社員に対しては「ざまー見ろ」と思っている人たちも少なくないかもしれない。一方、普段から自然体で、裸の人間関係を築いてきた社員に対しては「辛いだろうけど、応援しているから、がんばってね。」と周囲からエールが送られるに違いない。

この世の中、一寸先は闇である。明日の自分は、今日の自分とは全く違う立場の人間になっているかもしれない。そう思いながら、日々を送ることが大切なことを、今回の東電原発事故は教えてくれたような気がする。


さて、今日は札幌に来ている。仕事の後は支店の皆さんとサッポロビール園でジンギスカンを食べることになっている。その後は、ススキノに突撃する予定。成果(性課?)は後日報告ということで(写真は道庁赤レンガ)。



性交後、成功率は80%? [時事]

RIMG0084.JPG世の中には、あっと驚くような商品があるものだ。今朝の毎日新聞に、厚生労働省が2月に販売を許可した「緊急避妊薬」の話が載っていた。この「緊急薬」を性交後72時間以内に服用すると、妊娠を防ぐことができるのだという。妊娠しないために性交前に飲むピルとか、コンドームのことはもちろん知っているが、「事後」でも妊娠しないように出来る薬があるなんて、ビックリしてしまった。

あるクリニックで、来院した女性を対象に「緊急薬」を必要とした理由を調べたところ、「コンドーム破損」(注1:それにしても「破損」という言葉には感動する。要するに、破れちゃったということだろう。)が一番多くて37%、その次が「避妊せず」で20%、次いで「コンドーム脱落」(注2:またまた「脱落」とは感動する。要するに、外れちゃったということだろう。)の16%と続く。

この数字だけ見ると、コンドームの「破損」「脱落」合計で53%となるから、避妊の失敗の過半はコンドームを適切に使えなかったことが原因であることがわかる(ちょっと下品な話で恐縮であるが、「破損」するくらい「元気」だったのは私の場合、随分昔のことのように思う。失礼しました!)。

「緊急薬」の使用を安易に認めることに反対する人もいるという。避妊をしないで性交をして、それから72時間以内に「緊急薬」を服用すれば妊娠しないわけであるから、そうする人が今後増えるかもしれない。が、これに対して反対論者は、基本的にはコンドームとかピルによる避妊をして(これらの避妊成功率はともに9割程度あるらしい)、万一のときに限り、「緊急薬」を使用するよう主張している。

「緊急薬」の成功率(注3:「性交率」ではありません。)は80%でピルの成功率より劣るが、ピルに比べると吐き気、めまいなどの副作用が少ないらしい。もしそうであれば、成功率が多少劣っていても、副作用の少ない「緊急薬」を使用したいという選択肢はあるわけで、「緊急」ではなく「常用」する薬として位置付けてもいいような気もする(この辺りは、女性側の考え方も聞いてみないといけない)。

いずれにしろ、妊娠を望まない人が妊娠し、妊娠を望む人が妊娠できない、そういう現実があるわけで、世の中はなかなか思うようにいかない、そんなことを改めて感じる話である。

写真は、0.02ミリのコンドーム。「破損」と「脱落」は大丈夫?

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