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芥川賞作品『終の住処』、読んでみましたが・・・。 [BOOKS]

IMGP0596.JPG今日午後3時過ぎ、JR新宿駅東口にある大きな温度計を見上げたら、34度を示していた。背骨の間から玉のような汗がスーッと腰のあたりまで何度も流れ落ちる。どうやら身体を少し引き締める必要があるみたいだ。そういえば、先日久しぶりに体重計に乗ったら85キロあった。私の標準体重は身長を基準に計算すると大体70キロくらいである。「中年の貫禄」分を加味しても75キロくらいがリミットだろう。そうすると、10キロはダイエットする必要がある計算になる。でも、それはなんとなく無理なような気がする。80キロくらいまでならがんばれそうだが、75キロは厳しい。まあ、自然体で行こうと思う。

さて、先日芥川賞と直木賞が発表された。芥川賞は磯崎憲一郎さんの『終の住処(ついのすみか)』に決まった。新宿の紀伊国屋で単行本を今日買い求め読んでみたが、正直言うと、クエッションマークという感じだった。この作品は結婚当初からあまり上手くいっていない夫婦関係がテーマになっているが、私が未婚だからよく理解できないのだろうかとも思った。この作品に比べると、前回の芥川賞受賞作で、派遣社員で29歳独身女性の生活を精緻に描いた津村紀久子さんの『ポトスライムの舟』のほうが、同じ現代世相を描いていても私にはリアリティーがあって、わかりやすかった。

『終の住処』で一箇所、私が共感した部分がある。主人公の夫が漏らす言葉であるが「まったく不思議なことだったが、人生にとってはとうてい重要とは思えないようなもの、無いなら無いにこしたことはないようなものたちによって、かろうじて人生そのものが存続しているのだった。」。とうてい重要でないもの、無いならないにこしたことのないものとは、「若いころの営業と接待の日々」「上司の罵声」「深夜残業」「家計のやりくり」「赤ん坊の夜泣き」「寝不足のまま朝起きあがることの辛さ」「どうしても抜け出すことのできない不倫関係」「自己嫌悪」etcとある。要するに、日常のことだ。

私はこの部分を読んだとき、小津安二郎作品のことを思い出した。小津作品は見慣れないと、何が面白いのかよくわからない。私もそうだった。彼の作品はどれも、普通の家庭で起こる日常風景をただ淡々と描き出しているようにしか最初は見えない。でも何度か観てだんだん慣れてくると、「日常風景を注意深く観察する」、ただそれだけが小津作品の見方であることがわかってくる。日常風景を注意深く観察すると何が見えてくるのかと言うと、日常というのは事の大小に係わらず、家族の決断と変化の日々であることが見えてくるのである。

磯崎さんが言うように、人生は重要でないもの、無駄なものの積み重ねなのだろうと思う。人生を大きく左右したり、生死に係るような重大な出来事、またはそれに関する決断を我々は、生きているうちに何回するのだろうか。どうだろう、ほとんどの人は片手に余るくらいしかないのではなかろうか。そして人生の9割9分は多分、取るに足らないささいなこと、無為に思えることから出来上がっているような気がする。でも、そのささいなこと、無為に思えること一つ一つに実はそれなりの意味があり、それらが知らない間に我々の人生を形作っているではないだろうか。


写真は今日午後3時頃の新宿駅東口。雲一つない青空が広がっている。

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