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想像力を使いましょう、「便所めし」の学生さん。 [BOOKS]

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先日ここで、男子便所で昼食を取る学生がいる話を書いた。その後、そのような昼食が「便所めし」と呼ばれていることを、小谷野敦さんの『友達がいないということ』という本を読んで初めて知った。

この本によると「便所めし」とは、大学で昼食をとるのに一緒に食べる友達がおらず、そのことを恥ずかしがり、誰にも見られないように、トイレ(男子トイレの大便所)にこもって食べることをいう。この話を聞いて、若い頃あまり友達がいなかった小谷野さんは胸が痛んだという。

さて、一般論でいえば、友達は少ないよりも多いほうがいいような気がするが、小谷野さんは「結局、友達がいない、少ない、できにくい、というようなことは、最終的には、あきらめるしかない」と結論づけている。なぜなら、友達がいない、一人ぼっちというのは「自分自身の性質とか、偶然とかによって」どうしても現実に起こってしまう現象だからだ。

私も友達は少ないほうだと思う(事実、携帯電話が全く鳴らない日が結構ある。)。でも、だからといって淋しいということはない。なぜなら、もともと私は一人でいることがあまり苦にならないほうで、旅行は必ず一人でするし、焼肉屋も平気で一人で行く。家にいれば、テレビ好き・ラジオ好き人間だから、テレビやラジオを相手に喜怒哀楽している。でも私は、周囲の人との協調性は普通に持ち合わせているし、サービス精神も結構旺盛なほうだと思う。

作家の伊集院静さんによると、人間の究極の幸せは、「一人遊びを見つけること」だという。なるほど、生きづらいこの世の中で、自分を見失わないようにするため、お金をかけずに自分なりに楽しいことを見つけることは一つの方法かもしれない。

小谷野さんの言うように、友達がいないというのは現実にあるし、それは別に悪いことではないと思う。たとえ友達がいなくても、伊集院さんが提案するように、楽しい一人遊びを見つけるという方法などで上手く生きていくやり方はいくつかあるような気がする。でも、どんな場合でも、想像力というものはきちんと持っておくべきだと思う。「便所めし」の学生にはこの想像力が決定的に欠けているような感じがする。


写真は、東レが発表した2011年の水着。今年のテーマは「cheerful healig(陽気な癒し)」だそうだ。どういうことなのか、よくわからないね。それに、「癒し」という言葉、あまり好きじゃない。「癒し」より「いやらしい」ほうが断然好きだ。

牡蠣を食べて、オジサンに再び春がめぐってきますように。 [BOOKS]

生かき~1.JPG明日から皐月、五月。新緑が眩しい季節であるが、東北にも遅い春は確実に訪れているようで、桜の名所である弘前公園では、例年通り弘前さくらまつりが来月8日まで開催され、ソメイヨシノなどの桜を見ることができる。

春というと、花が咲いたり、新しい出会いがあったり、なんとなく明るく、そして元気になれる季節という感じがする。新明解国語辞典で春の意味を調べてみると、その最後に、「色情」という意味が春にはあることが記されている。その用例として「春(性的な感情)のめざめ」「春をひさぐ(売春する)」が挙げられている。

「回春」という言葉がある。再び辞典を調べてみると、「回春」とは「病気が治り、心身共に元気になること(狭義では、老人が肉体的に若返ることを指す)」とある。一般に「回春」といえば、この辞典で言うところの狭義の意味で使われることがほとんどだと思うが、もっと言えば、勃起しなくなった男性自身が「役立つようになった」ことを通俗的には「回春」(または「再春」)と言っているように思う。

私も来月3日で満51歳を迎えるが、アチラのほうは20代の頃に比較すると格段に弱くなったと思う。学生時代のときは、若い女性がタイトスカートを履いて歩いている姿を道路で見かけただけで下の方が反応したものだが、今は、過激なヌード写真を見ても「愚息」はダンマリを決め込んでいる。ただ、このような傾向は私だけでなく、男性ならば大体の人が50歳を超えると経験することではないかと思う。

では、どうしたらオジサンが再び「春」を迎えることができるのか。そのヒントが、竹越昭彦医師が著した『40代からの心と体に効く〔生涯SEX〕のすすめ』という本のなかに書かれている。

最も大切なことは何かと言えば、それは本のタイトルにもあるように、継続的にSEXをすることらしい。もちろん、場合によってはバイアグラなどの勃起薬も使いながらということだが、面白いのは、SEXそれ自体にさまざまな効用があるという話だ。例えば、SEXをすると免疫力がアップして風邪をひきにくくなったり、心臓疾患や前立腺ガンのリスクが低下する。また、イギリスのある病院の調査によると、SEXをすると外見が若々しく見えたり、頭も良くなることが判ったというのだ。

そう言われてみれば、いかにも元気溌剌でバイタリティーがあり、SEXも強そうな男性を見ると、不思議と健康で若々しく映るものだ。反対に、貧相でSEXも弱そうな男性を見ると、どうしても冴えない感じがする(昨今の草食系男子はこの部類か)。

40代以上の男性が「春」を呼び戻すために効果抜群の食べ物がある。それは、ズバリ、牡蠣(カキ)である。海のミルクと呼ばれ栄養価の高いことで知られる牡蠣であるが、別名「セックス・ミネラル」と呼ばれ、ニンニク、山芋、スッポンなどよりも、牡蠣が精力をつけるには一番効果的らしい。性豪といわれたイタリアの作家、ジャコモ・カサノヴァは牡蠣が大好物で、一日になんと80個も牡蠣を食べたというエピソードが残っている。



三陸産牡蠣の生産量は広島に次いで第2位であったが、今回の大震災で漁場は大被害を受けた。復旧には時間がかかるということだが、日本のオジサンを奮い立たせるためにも、少しでも早く漁が再開されることを祈るばかりである。



二勝三敗の負け越し、でも、それでいいのです。 [BOOKS]

RIMG0049.JPG♪ 梅田新道 心斎橋と
雨の歩道は 淋しく光る
あなた あなたのかげを
あなたを偲んで 南へ歩く

ご存知、欧陽菲菲のヒット曲「雨の御堂筋」の一節である。

心斎橋のホテルで今、この記事を書いている。私は年に一度か二度、プライベートで大阪に来る。その目的は、食べ歩きと甲子園球場で阪神戦を観戦することである。今回は阪神戦のチケットが取れなかったので、食べ歩きに専念することにしたが、夏にはもう一度来て、そのときには甲子園に行こうと思っている。

私は根っからの巨人ファンである。それにもかかわらず甲子園まで毎年わざわざやって来るのは、阪神タイガースというチームが好きだからではなく(と、言っても、毎年来ているうちに、阪神タイガースのファンに少しなりかけてきたかもしれない)、阪神タイガースを応援するファンの姿を見るのが好きだからなのである。

阪神ファンの姿とは一体何か。それは一言で言えば、情熱である。熱い巨人ファンというのもいないことはないと思うが、総じて巨人ファンはクールなような気がする。ところで、大の阪神ファンを自認する國定浩一さんの『阪神ファンの底力』という本に、究極の女性虎キチの話が紹介されている。

その女性虎キチは、鎌野尚子さんという。阪神タイガースが人生そのものになってしまった人だ。実は鎌野さん、れっきとした30代のお医者さんなのだ。多忙を極めるお医者さんであるが、鎌田さんはスケジュールをうまく調整して、阪神の全試合を応援しているのだ。ということは、甲子園でのゲームだけではなく、日本ハムと対戦するときは札幌まで出かけて阪神を応援しているということだから、半端な情熱ではないのだ。まさに、阪神タイガースに人生を捧げてしまった、正真正銘の女性虎キチといえる。

さて、國定さんの話で私が「なるほどなあ」と思ったのは、阪神ファンには「二勝三敗の哲学」があるという話だ。「五回試合をやって、二回勝てれば十分なやいか」というのが「二勝三敗の哲学」だ。そういった精神を持った阪神ファンのもとで育った子供は幸せだと國定さんは言う。なぜなら、その子供は、我慢と挫折を知るからだ。一方、カネの力にまかせて、4番バッターばかりを揃え、常に勝つことを目指す巨人ファンのもとで育てられた子供は不幸だと言う。なぜなら、その子供は我慢を知らないからだ。社会に出たとき、どちらの子供が社会に適合していけるか、それは明らかだ(もちろん、阪神ファンの子供ということだが、これは飽くまでも、國定さんのご意見です)。


写真は、大阪に来たら必ず立ち寄る、串カツ「松葉」。本店は梅田新食道街にあるが、写真の「松葉」は地下鉄御堂筋線の梅田駅改札近くにある。真昼間から、ビール片手に串カツを頬張っている人たちがたくさんいる。今日は私もその一人になった。

今回の大阪では結局、串カツ店2軒、居酒屋1軒、うどん店1軒、お好み焼き店1軒の、合計5軒で食べ、そして飲んだ。今赤坂のお店で串カツを出しているが、本場大阪の串カツには到底勝てる水準にはまだない。研究の余地がたくさんあるが、今回一つ二つヒントを得たような気がするので、東京に戻ったらさっそくチャレンジしてみようと思う。

もしビジネスマンを首になったら、串カツ屋のオヤジになろうかと思っている。大阪でもっと勉強して、自分のオリジナリティーも加えながら、美味しい串カツ屋を東京でやってみたい。私はそのくらい、串カツが好きなのだ。

エロ時代、否、エコ時代に戻ろう。 [BOOKS]

RIMG0085.JPG電力不足による節電のせいで、首都圏の今年の夏は例年以上に暑くなりそうだ。ご存知のように、現在の日本では、主に原子力、石油、石炭などを利用して電気を起こしている。このうち、石油と石炭は化石燃料であり、これらを燃やすとCO2(二酸化炭素)が発生し、これが地球温暖化の「元凶」と指摘されている。一方、原子力はCO2を発生させない「クリーン」なエネルギーとされていたが、今回のような事故が起きてしまうと、単なる「有毒兵器」のようになってしまったと言っても過言ではない。

江戸時代の研究をされている石川英輔さんの『江戸時代はエコ時代』という本によると、江戸時代、エネルギーといえば太陽エネルギーだけで、石炭、石油は皆無に等しく、原子力に至っては影も形もなかった。当時の農業を例にとると、現在機械化されている動力のほとんどは人力、すなわち人間の筋力運動だけで動かしていたし、肥料なんかも人間の排泄物を下肥(しもごえ)として使用しており、江戸時代は完全な循環型社会だったと、石川さんは指摘する。

太陽エネルギーだけに頼っていた江戸時代であるが、だからといって江戸時代の文化が現代より劣っていたかというと、そうではない。建築物、機械や金属製品、陶磁器、木工品、さらに書籍、錦絵などの印刷物、美術についても、作品の完成度は今以上だったとされる。そしてなによりも、江戸時代は活気のあった時代であり、多くの人々は幸福に暮らしていた。

大量生産、大量消費の現代社会を石川さんは必ずしも批判しているわけではない。もう時代を逆戻りすることは実際は不可能だからである。ただ、江戸時代に生きた人々のエネルギー利用に関する知恵を、現代人は見つめなおしてみる価値はあるのではないか、石川さんはそう言っているような気がする。

ある方との対談が本の最後に収録されていて、そこで石川さんは興味深い発言をされている。産業の発展とともに大量生産、大量消費の社会は当分続くかもしれないが、どこかで時代を逆戻りしなければならなくなったとき、日本人は簡単に変化することができるのではないか、そんなふうに楽観視していると石川さんは言うのだ。なぜなら、日本人は本当にやらなければならないとなったら(例えば本格的な節電、節約生活を強いられるということだろう)、簡単にケロケロと変われる国民だからだというのである。

私はこの、「ケロケロと変われる」が気に入ったというか、大いに納得したのである。「ケロケロと変われる」というのは、いい加減な感じがする一方、いい意味で臨機応変、柔軟性があるということになる。この言葉は、日本人の特性をよく表しているような気がする。

江戸時代は、「えどじだい」であるが、戸を「こ」と読めば「えこじだい」になる。私のくだらないシャレはさておき、江戸時代のことを少し勉強してみるタイミングが今やってきた、そういうことかもしれない。

さて、今日は早い便で釧路に入り、一仕事終えてから少し前に、JRを利用して帯広に入った。帯広は特に仕事はなく、帯広支店の社員たちと飲みニケーションをするためにやってきたのだ。人を知る最短の方法の一つは一緒に飲むことだと私は考えているので、これもある意味「業務の一環」なのである(単に、私が飲みたいだけかもしれませんが)。

写真は、帯広の一つ前の停車駅である池田の名物「バナナ饅頭」。美味しいのはもちろんだが、パッケージのデザインが良い。



こんなときだから、歌謡曲、講談、漫才、ラジオドラマで楽しみましょう。 [BOOKS]

7046194.jpgようやく、通常モードのテレビ番組が放送されるようになってきた。大震災以来すべてのことが自粛ムードになっていたが、少しずつ普段の生活が戻りつつある。

今から10年前の9月11日、アメリカ同時多発テロが起きた。当時、ニューヨーク市長だったジュリアーニ氏は市民に対し、経済への影響を避ける目的から、「普段通りの生活をしよう」と呼びかけた話は有名だ。テロと自然災害(大地震)という違いはあるにしろ、「有事」における指導者の言葉には重いものがある。

学習院大学教授である井上寿一さんの『戦前昭和の社会1926-1945』に次のような話が書かれている。日中戦争が始まった1930年代後半の頃、庶民が情報を得る主な手段はラジオであった。日中戦争開始直前、首相に就任した近衛文麿は、自身の印象操作のためにラジオを巧みに利用した。近衛の口調は穏やかであったが、戦時にあって団結をラジオを通して国民に直接語りかける手法は、国民の支持を得たという。

ラジオは一方で、国民を慰安する役割も果たした。当時のラジオは、現代におけるテレビだと思えばいい。その当時、国民がラジオに期待したものはもちろん戦況などのニュースもあったが、1937年の聴取状況調査によれば、聴取率が75%以上になったものとして、浪花節、歌謡曲、講談、漫才、ラジオドラマなどの娯楽番組があった。

これらのラジオ番組は時局柄相応しくないとする意見があった一方で、「国民は国策遂行のためには増税も物価の騰貴も欣然と負担する。節約も貯蓄も励行する。そのあらゆる物資生活の対する緊張は、精神生活で慰安されなければならない。」として、戦時下における娯楽番組の放送を擁護する意見も少なくなかったという。

今引用したカギ括弧の部分は、今回の大震災でも同様のことが言えるのではないかと私は思う。相当のことを我慢しなければならない、賢明な我が日本国民は皆そのことを十分理解している。ただ、なんでもかんでも我慢しなさいと言われると、精神的に参ってしまう。そうならないために必要なことは、日常生活を普段通りに送り、娯楽に接することだと思う。「これはこれ、あれはあれ」、そういうバランス感覚を指導者が持ち、そのことを国民に呼びかけることが、政府に今求められることではないだろうか。

写真は上野公園の桜(誰かが撮った写真です)。今年は誰も上野で花見をしませんね。寂しいことです。

いきなり黄金伝説、白いご飯だけはお願いします。 [BOOKS]

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金曜、土曜と飲みすぎて、今日はどこにも外出せずに家にいた。ソファーに横になってボーッとしながらテレビを観ていたら、「いきなり黄金伝説」の名物企画、1ケ月1万円節約生活の再放送をやっていた。お笑い芸人、オードリーの春日が出ていた。

春日は結局、1ケ月の食費を8千円弱で済ませた(光熱費込み)。仮に8千円とすると、1日平均266円、1日3食とすると1食平均88円の食費だったことになる。

この番組を観て、何となく私は励まされた。贅沢をしなければ、1ケ月の食費は1万円か2万円くらいあれば、工夫次第でなんとかなるんだなと思った。肝心の料理の味のほうも、春日の言葉を信じれば、そこそこ美味しいらしい。食べ物に限ることではないかもしれないが、贅沢をすればキリが無いし、一方、節約すれば相当ギリギリのところまで切り詰められる、そんな感じがした。そういえば、ミシュラン三ツ星の銀座のお寿司屋さんは、おまかせで2万円だった。そういう世界もある。モノの値段、本当にピンからキリである。

食べ物の話が出たが、私はどんなに生活を切り詰めても、国産の白いご飯だけは食べたいと思う。今から18年前、100年に一度と言われたコメの大凶作があった。コメ不足を補うため、タイや中国から大量のコメが緊急輸入された。私も会社の近くにあった定食屋でタイ産のご飯を食べたが、不味くて閉口した記憶がある。当時一部の人たちから「コメがダメならパンを食べればいいじっゃないか。」と声高に主張する人たちがいたが、そんな単純な問題ではないと私はそのとき思っていた。

細菌学者の小泉武夫先生によると、日本人の身体には、ご飯を中心とした日本食に適合するような遺伝子(DNA)がもともと組み込まれているという。少し前までの一般的な家庭では、ご飯と味噌汁、焼魚か煮魚にお新香、これが朝食の定番だったわけだ。こういった日本独特の食習慣は先祖代々から今を生きる我々に脈々と受け継がれていて、日本人の「食のDNA」みたいなものを我々は生まれたときから所有しているわけだ。

だから、いきなりパンを食べろと言われても身体が受けつけない。また、食の欧米化ではないが、肉やコレステロールの高い食事を摂ることは日本人の「食のDNA」には馴染まないわけで、このような食事を長く摂っていると、我々の身体に一種の拒否反応のようなものが起こる。この身体に起こった拒否反応は、単に肉体的なものに留まらずに、精神的なものにまで影響を与え始める。忍耐力がなく、キレやすい日本人が増えていると言われるが、これはこのような食生活の変化が原因の一つと言われている。

エッセイストの勝見洋一さんに『ごはんに還る』という本がある。勝見さんは、古今東西、世界中の食を制覇された文字通り食通の方で、その方が最後に辿り着いた至福の食、それが「ご飯」だということがこの本に書かれている。美味しいご飯さえあれば、ちょっとしたおかずだけで満足した食事がいただける、そんなことを実感されている方は少なくないのではないだろうか。美味しいご飯がいただける、それだけで私は幸せである。

包丁一本さらしに巻いて 旅へ出る板前は もういないのかもね。 [BOOKS]

RIMG0007.JPG今週月曜日の北海道北見日帰り出張に続き、昨日は大阪に出張した。こちらは一泊したのだが、出張の目的は、今度赤坂店で出そうと目論んでいる北海道の食材を使った串カツの研究だった。

何とも羨ましい出張だと皆さんから妬まれそうだが、串カツといえば大阪ということで、赤坂店のメニューについていろいろアドバイスをしてくれている料理人の方と一緒に、梅田、道頓堀、新世界(写真)の串カツ店を食べ歩いてきた。

串カツの美味しい作り方について事前にいろいろ調べていったのだが、ブラックボックスはやはり、あの二度づけ禁止のソースだった。ウスターソースベースであることは大体わかるのだが、その他に何がソースの中に入っているのかがわからない。串カツの旨い不味いはソースの出来次第だと私は考えているので、私のような素人の舌ではなく、専門家の舌を持つ料理人を連れて行って、ソースの味を「盗み」に行ったのである。

結局、梅田のある串カツ店で出されていたソースが一番いいという結論になり、料理人にはそのソースの味の記憶を辿ってもらい、その味の「復元作業」をお願いした。もちろん完全に復元することは出来ないと思うが、少しでもその味に近づけ、北海道産のエビ、イカなどを使った串カツを完成させ、来月から新メニューとして出したいと考えている。

さて、さっきまでテレビ東京の「アド街ック天国」で大阪法善寺横丁が紹介されていた。本当に偶然であるが、私たちも昨夜、法善寺横丁に行ってきた。同行の料理人が大阪は初めてというので、大阪観光でここは外せないと思い、案内した。

00000001.JPG法善寺横丁の食べ物といえば夫婦善哉(写真)の善哉だろう。驚くほど少量なのに、驚くほど値段は高い、そんな感じの善哉であるが、「名物」なのでとりあえず押さえた。店内に小説『夫婦善哉』を書いた無頼派の作家、織田作之助の写真が飾ってあった。この小説は、ぼんぼんで何をやっても失敗する柳吉と、芸者あがりでしまりやで愛情深い蝶子という夫婦の物語で、しっかり者の大阪女性がテーマになっている。そういえば、大阪のことを詳しく書いたある本によると、織田作之助は、最も大阪人らしい大阪人なのだそうだ。この場合、「大阪人らしい」というのは、簡単に言うと、反権力主義、反東京ということらしい。

私たちの座ったテーブルの横に、昭和35年に発売された藤島桓夫の「月の法善寺横丁」のレコードとそのジャケットが飾られていた(藤島桓夫といっても、若い方はご存知ないと思うが)。店員さんによると、これはどうやら本物らしい。

包丁一本 さらしに巻いて
旅へ出るのも 板場の修業

「月の法善寺横丁」はこの歌詞で始まるが、この歌は要するに、板前が修業で旅に出るので、好きになった女性としばしの別れをしなければならない、その辛さを歌ったものだが、そのことを、私の前で甘い善哉を美味しそうにパクついている私より少し年少の料理人に話してあげたら「あー、そうですか」と実にそっけない。板前の世界も時代が変わったのだろうか、彼の反応を見てそう思った。


また大阪に行きたくなった。そんな出張だった。

西村賢太と市橋達也に、天国と地獄を見た。 [BOOKS]

RIMG0010.JPG今週発売された新刊本を二冊読んだ。一冊目は、英国人英会話教師だったリンゼイさんを殺害した市橋達也の『逮捕されるまで』。2年7カ月という長期にわたる逃亡の様子を市橋自身が綴ったものだ。

この本は、警察の追っ手から必死に逃れようとする市橋の姿は克明に伝えるものの、肝心要である、リンゼイさんを何故殺害したのかという点については一切記述がない。それはさておき、この本を少し紹介してみたい。

自分の身分を隠し逃亡するために、人間は何を考え、どう行動するものなのか、そのあたりのことをこの本は生々しく伝えてくれる。市橋が福岡と名古屋の病院で整形手術を受けた話は逮捕される少し前から報道されていたが、実は、市橋は自分自身でハサミや針を使い、鼻と下唇を切っている。また、顔にあった二箇所のホクロもカッターで切り落としている。とにかく逃げたかった市橋は、顔を変えることにこだわった。

青森、沖縄、大阪、福岡、名古屋などを転々とした市橋であるが(やはり、寒い北海道に行くつもりはなかったようだ。)、途中、四国で遍路の旅をする。リンゼイさんが生き返ることを祈り始めた旅であったが、それは叶わないことだとしばらくして気づく。当然のことだ。市橋は四国を歩き続けながら「考えることは食べること、トイレのこと、眠る場所を見つけることの三つだけ考えた」という。食べ、用を足し、そして眠るという人間の「原始的欲求」に極まったわけで、一般的に人間の基本的な欲求の一つとされる「性欲」は、追い詰められた人間には後回しになることがわかる。

市橋には文才があると思った。この本は、捕まってから書いた手記ではなく、あらかじめ練って書かれたシナリオのような感じがした。そのシナリオに沿って市橋は行動した、そんな感じさえ受けた、逃亡の経路がハッキリしているし、見たもの、聞いたもの、感じたことの描写が詳細で、抜群の記憶力だ。3年前に何があったのか思い出せと言われても、私なら全く思い出せない。その点市橋は、すぐれた記憶力を有している。

さて、二冊目は、芥川賞を受賞して今話題の西村賢太さんが著した『苦役列車』だ。中卒で風俗大好きの西村さんであるが、芥川賞の候補になるのはこれが三回目なのだそうだ。それではというので、受賞作の『苦役列車』を早々買って、読んでみた。

来月1日に発行される「文藝春秋」に、選考委員の選評が出るので、それも読んでみたいが、文学オンチの私にとって、この本はあまりドキドキ、ワクワクする本ではなかった(もともと、その類の本ではないのだろうけど。)。さて、西村さんは受賞の際に、「自分のことしか書けない」と述べ、『苦役列車』は「私小説です」と明言していた。

日雇い労働で生活する中卒の貫多(もちろん、西村さんのこと。)はある日職場で、同世代の日下部に出会い、孤独だった貫多にもようやく友達ができるのだが、恋人もいる日下部との関係は結局長続きせず、貫多は再び孤独になってしまう。そんな若者の閉塞感のようなものを描いたのがこの小説ということに一般的にはなるのだろうか。

私なりに整理すると、貫多=下層社会の孤独な青年、日下部=教養至上主義の下で育った恵まれた青年、という感じであるが、この図式は、先日ここで書いた、吉田修一さんの『悪人』や、黒澤明監督の「天国と地獄」に似た図式であるような気がする。結局、下層社会の孤独な青年は、救われず、ツキもなく、人生のババを引く、これらのどの作品も詰まるところ、そういうことを言いたかったような気がする。

市橋達也の実家は確か、医者だったと思う。本の最後のほうで市橋は「事件を起こすまで、僕は親や周りの人たちからたくさんのチャンスをもらってきた。でもそのことに気づかなかった。それが恵まれた状況だということを、僕は全然考えようともしなかった。」と述べている。下層の人間から見て「恵まれた状況」は、恵まれた人間にとっては恵まれたこととして映らない、そういうことなのだろう。

現実のことを考えてみよう。少し前までは、西村賢太さん=下層社会の孤独な青年、市橋達也=教養至上主義の下で育った恵まれた青年、だったはずだ。でも、今はどうだろう。西村さんは芥川賞を受賞して、これからは印税がどんどん入ってきてリッチになる。言ってみれば、地獄から天国に登りつめたわけだ。一方、市橋は全くその逆で、天国から地獄に堕ちていったわけだ。ここで私がとても興味のあることは、「自分のことしか書けない」と言った西村さんが、今後とも、自分のことだけを書く、つまり、自分のリッチな生活のことを書くのだろうかという点だ。

『苦役列車』の後半に、ようやく「苦役」の意味がわかる箇所が登場する。すなわち「自分の並外れた劣等感より生じ来たるところの、浅ましい妬みやそねみに絶えず自我を侵蝕されながら、この先の道行きを終点まで走ってゆくこを思えば、貫多はこの世がひどく味気なくって息苦しい、一個の苦役の従事にも等しく感じられてならなかった。」とある。

このように、日雇い労働者(西村さん本人。)の閉塞感、劣等感だからこそ読者の心に響くわけで(どうやら、これまでの西村作品は「貧困」が大きなテーマだったようだ。)、ある日突然貧困を脱した西村さんが、今後どのようなテーマで作品を生み出していくのか、興味のあるところだ。そして、最後にもう一言だけ言わせてもらえば、生きるか死ぬかの2年7カ月を過ごした市橋達也の圧倒的なリアリティーの前に、いくら貧困な人生を送ったとはいえ、西村作品は市橋作品の前に、正直、平伏したような気がした。

さて、今日は最終便で釧路に来た。午後8時半頃、市内のホテルにチェックインした。それからすぐにマイナス5度以下の寒さのなか、繁華街に向かい、熱燗をやりながら食事をした。東京だったら軽く3人前はあるだろうと思われる、たちのポン酢などを鱈腹いただいた。

写真は幣舞橋のたもとに停泊する漁船の様子。手前に雪が見える。

私は悪人、あなたも悪人、そして、みんな悪人? [BOOKS]

IMG_0630.JPG一昨日の金曜日、人間ドックに行ってきた。前日の木曜日は高熱が出て会社を休んでいたので、体調が万全と言えない状況でドックに臨んだ。血液検査などの結果はまだ出ていないが、血圧測定でとんでもない数値が出た。私は日頃から血圧が高いほうで、ここ数年の検査でも上が150前後、下が100前後という「高値安定状態」が続いていたが、今回は、上が170、下が110と、これまでの検査で最も高い数値が出た。

原因はよくわからないが、多分、日頃の不摂生とストレスによるものだと思う。よく人からは、ストレスなんてないでしょうと言われるけど、この年になると、人には言えないストレスが一つや二つあるものだ。そういえば、私の父も、祖父も、血圧が高かった。遺伝というのもあるかもしれないが、本当のところはよくわからない。このままの生活を続けると、どこかで血管が破裂して万事休す、ということになるかもしれないが、そのときはそのときで仕方ないと、私は思っている。

さて、昨年公開された映画を対象とした、第87回キネマ旬報ベストテンが先日発表され、日本映画の第一位に「悪人」が選出された。「悪人」は、昨年のモントリオール映画祭に出品され、ヒロインを演じた深津絵里が最優秀女優賞を受賞したことでも知られる作品だ。

映画は観れなかったが、遅ればせながら、吉田修一さんの『悪人』を読ませてもらった。その感想のようなものを今日は書きたいと思う。

まず最初に、変なことを言うかもしれないが、この本のタイトルがどうして『悪人』になったのかが、よくわからないのだ。インターネットでいくつか書評のようなものを読ませてもらったが、私の疑問を解決してくれるものはなかった。「「悪」と「悪でないもの」の境界とは何なのか」、「人間は誰でも悪人にも、そして善人にもなりうる可能性を持っている」など、そういう視点からこの小説を解説しているものがほとんどだったが、そもそも、「悪」とか「悪人」とは何なのかという定義のようなものを、この小説は明らかにしていないと思う。

「悪人」とは、法律を犯す人とか、他人に迷惑をかける人とか、そんな月並みで薄っぺらいことを吉田さんは念頭に置いて小説を書いたわけではないと思う。もっと複雑で、深いものを想定していたに違いない。しかしながら、読み手にとって一体「悪人」とは何なのか、よくわからないのである。「この作品は、いろいろなことを考えさせてくれる小説であった」とコメントした書評が二三あったが、一般的に言って、「いろいろ考えさせてくれる」というときは、作者からハッキリとしたメッセージが読者に伝わっていないときに使われることが多いような気がする。

この小説を読んで私はすぐ、黒澤明監督の「天国と地獄」を思い起こした。丘の上に立つ豪邸で何不自由なく暮らす選ばれた人たちと、丘の下で日々苦しい生活に明け暮れる人たちを対比的に描いた映画で、社会の不条理のようなことを訴えた映画だと私は考えているが、これを『悪人』にあてはめてみると、優雅な大学生生活を送る増尾圭吾=丘の上に立つ豪邸で何不自由なく暮らす選ばれた人、最後には殺人犯として逮捕されてしまう土木作業員の清水祐一=丘の下で日々苦しい生活に明け暮れる人、というような図式が成立するような感じがする。

この図式というのは、最近の芸能ネタを使っても示せるような気がする。それは、海老蔵事件である。増尾圭吾=歌舞伎界のプリンス海老蔵、清水祐一=逮捕された元暴走族の伊藤リオン、といった感じだ。何を言いたいのかと言うと、『悪人』は、何が悪なのかとか、誰が悪人なのかといったことを問いかける小説ではない、私はそんな感じがするのである。

それでは、『悪人』は、何を問いかける小説なんか? ところで、主人公、清水祐一は、どんなタイプの人間を代弁しているだろうか。土木作業員である清水祐一はどらかというと貧乏で、なんとなく退屈な生活を送っている。趣味といえばクルマであるが、そのクルマも7年間という長期のローンを組んで買った。クルマ以外では、たまに出会い系サイトを通じてセックスの対象を求める。もちろん彼には、出世欲なんてこれっぽっちもない。こういう感じの「層」の人間って、今の日本には少なくないような気がする。

そういった「層」の人間が悪いということではなく、この「層」の人間は、社会に対するさまざまな苛立ちのようなものを持っていて、それが原因で社会に反発し、結果、なかなか世間を上手く渡っていけない傾向があるような気がする。ツキもないかもしれない。一方、恵まれた環境で育った大学生、増尾圭吾のような人間は、目立った苦労もせずに、スイスイと世間を上手に泳いでいく。人生のババを引くのはいつの世も増尾圭吾のような恵まれた人間ではなく、清水祐一が属する「層」の人間たちだ。これは社会の不条理といえばそれまでかもしれないが、『悪人』は、清水祐一が属する「層」の人たちの一種の「悲劇」のようなものを訴えた、私はそう解釈した。

もっといろいろ書きたいのだが、血圧が上がってきたようなので、もう止める。

さて、明日は福岡へ日帰り出張する。『悪人』の舞台はたまたま福岡、長崎、佐賀の3県だった。ランチは福岡で食べることになるので、今日いろいろ調べたが、結局、博多ラーメンにした。どの店のラーメンが評判なのかインターネットで調べていたら、寒いこともあって、急に温かいラーメンが食べたくなり、新宿歌舞伎町にある大阪、道頓堀のラーメン「神座(かむくら)」に行って、長ネギがたっぷり入った温かラーメンを食べてきた。旨かった。

写真は、今夜の歌舞伎町。いつも人が多いね。

大桃さん、麻木さん、山路さん。冷静に、お話し合いしましょう。 [BOOKS]

IMG_0609.JPG私は結構芸能ネタが好きだが、今回の山路さん、大桃さん、そして麻木さんの三角関係は久しぶりにヒットネタだと思う。テレビの芸能ニュースを観ていたら、コメンテーターと称する人たちがいろいろなことを言っているが、話の内容としてはよくある話で別段驚くことはないと思うが、今回特徴的な点は、大桃さんがツイッターという「公の場」で山路さんと麻木さんのことをバラしたことではないだろうか。

例えば、今から30年前の世の中のことを考えてよう。その当時は、今のようなインターネット社会は存在していなかったから、今回の大桃さんのような行動は取りたくても取れなかっただろう。せいぜい出来ることと言えば、行きつけの飲み屋に行って馴染みのマスターに愚痴をこぼすとか、親しい友人に苦しい胸の内を打ち明けるとか、もし親しい芸能レポーターがいれば、敢えて事情を話して世間に公にしてもらうとか、せいぜいその程度の手段しかなかっただろう。

いつも私はここで書いているが、公私にわたるいろいろな情報を、何でもかんでも「公にする」ことには私は反対なのだ。そのことは、先日の、ウィキリークスに関する記事でも書いた。今回の件も、早い話、山路さん、大桃さん、そして麻木さんの三人で直接会って話をすれば済む話なのである。それをわざわざ「ツイッター」なんていう現代文明の利器を使ってしまったものだから、結局、三人別々に会見をして天下に恥を晒す羽目になったのである。

余談というか、私の提案だが、山路さん、大桃さん、そして麻木さんの三人で合同記者会見をやったらどうだろうか。そうすれば、面倒も省けて、今回の件は早く決着するのではないだろうか。でも、テレビや新聞の芸能関係者にしてみれば、この問題はずるずる長引いたほうが、営業上メリットがあるのかもしれないが。

これに関してもう一言。それにしても、山路さんはモテるんだねえ。世の女性陣は、ああいう感じの優男が好みということなのだろうか。悪いのは全部私ですと、一連の騒動の責任が自分にあると認めるのは当然だとしとても、山路さんは、要は、大変失礼な言い方かもしれないけど、大桃さんや麻木さんに生活の面倒をすべて見てもらっていたわけで、ジャーナリストかなんか知らないけど、そういう「人生観」を持った人がジャーナリストをやっているなんて、正直、勘弁してもらいたいと思う。

作家の開高健は「女を飾るために男は泥まみれになるのである」という名言を吐いた。恋愛成就のために、昔の男は宝石などのプレゼントや食事の場所に神経を使っていた。それに比べて現代の男性は、恋愛、結婚にガッツがないという(いわゆる「草食男子」。)恋人のためにお金をためて、プロポーズの言葉とともに婚約指輪を差し出す光景は、テレビドラマでもお目にかからなくなった。山路さんは、決して「草食男子」ではないのかもしれないが(むしろ、恋愛に関しては貪欲なのかもしれない。)、少なくても開高健の言葉にある男性ではないような気がする。

さて、今日は会社の忘年会が、赤坂のお店であった。赤坂は結構混んでいたね(写真)。

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