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ヴィヨンの妻、酒浸りだけ私と一緒です。 [BOOKS]

DSC_0160.JPG根岸吉太郎監督の映画「ヴィヨンの妻」が国際的な映画祭で賞を受賞したというので、太宰治の原作を読み直してみようと思って文庫本を探したのであるが、結局見つからない。本棚という立派なものをこれまで私は持ったことがなく、今でも引越しのときに使ったダンボールの中にほとんどの本が納まっている。ダンボールは20箱以上あって、今回も一箱一箱中身を調べ始めたのであるが、途中でなんとなく馬鹿馬鹿しくなってきて、結局本屋で文庫本を買うことにした。

「ヴィヨンの妻」は酒に溺れ、女に溺れ、家庭をかえりみない放蕩詩人とその妻の話であるが、なかなか面白い。才能のない人間が単に酒や女に溺れるというのは絵にならないが、才能のある人間が酒や女に溺れて放蕩の限りを尽くすというの絵になるものだ。例えば、『火宅の人』を書いた檀一雄はこれに近いかもしれない。現代では伊集院静さんが候補の一人かもしれないが、ご本人は決してそう思っていないかもしれない。永井荷風もエロ作家と言われながら優れた作品を残した作家だと思うが、彼を尊敬して止まなかった佐藤春夫の『小説永井荷風伝』を読むと、荷風は結構計算高く、ケチな性分だったことがよくわかり、いい意味での天然さ、人間としての豪快さに欠けているような気がする。

さて、「ヴィヨンの妻」であるが、「妻」とある以上、主役は飲んだくれの放蕩詩人ではなく、飽くまでもその妻である。本の解説を読んでみたら、この本が何をいわんとした小説であるのか明確に書かれていなかった。それどころか「ヘンテコな小説」とあまり褒められていない。根岸監督がどんなテーマをイメージしながら映画化したのかわからないが、考えられるのは月並みだが「女性の包容力、生活力」というものではないだろうか。毎夜飲み歩き、妻以外の女性と関係を持ち、行きつけの飲み屋には多大の借金をするような男に愛想をつかすのが普通の妻だろうと思う。ましてや、夫が借金を作った飲み屋に女中として居つき、その店の人気者になってしまうという芸当は女性でなければできるものではない。

「ヴィヨンの妻」は太宰治晩年の作品であるが、最後の作品となった「人間失格」にしても、暗いとか、悲惨とかいう評価もあるが(作品というより、太宰治の生き方自体についてそう評価する人もいる)、私は必ずしもそうは思わない。酒を飲み、女に溺れ、借金をして家庭をかえりみないというのは馬鹿馬鹿しいことかもしれないが、どんな人にも滑稽で馬鹿馬鹿しいことは結構あるもので、放蕩詩人はそれを多少デフォルメされた形で語られたに過ぎず、決して暗くも、悲惨なことでもないように思う。

小説の最後に妻が「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」と語るが、これは実に意味深である。死に方をいつも考えていたとされる太宰治であるが、本当は何としても生きていきたかったのかもしれない。

さて、昨日は浅草、銀座(写真)そして締めは新宿で飲んだ。家の着いたのは午前2時。ひたすら飲みまくった私のシルバーウィークでした。

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