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踊る阿呆に見る阿呆、浴衣女性の妖艶。 [芸術]

いよいよ来週火曜日に引越しをする。今度は中央線高円寺駅が最寄り駅になる。私にとって高円寺が身近な存在になったのは、詩人のねじめ正一さんが書いて直木賞を受賞した『高円寺純情商店街』を読んでからだった。純情商店街にある乾物屋を舞台に繰り広げられる物語は、人情がまだあった古き良き時代の昭和を感じさせた。

その高円寺で昨日から、第51回東京高円寺阿波おどり開催されている(写真)。阿波踊りといえば徳島であるが、高円寺の阿波踊りは観客数だけみると既に本場徳島のそれを上回っている。「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らな損々」のお馴染みの唄に乗って男性は激しく、そして女性は静かにそして艶やかに踊るのであるが、網笠を深く被り浴衣で踊る女性の姿はみな綺麗に見えてしまう。日本女性にはやはり浴衣が似合うことを再認識してしまう阿波踊りだ。

さて、今回の阿波おどり、そして隅田川の花火などもそうであるが、観客がもう少しゆっくりと楽しめる見物の仕方を工夫できないものだろうか。後ろのほうに立っていると全然見えないのである。今日の写真でも左側に私の前に立っていた女性の頭が写っている。交通規制は厳しい、観客は立ち止まらないで歩けとか、みんな不満に思っているに違いない。何とかみんなが楽しめる工夫はできないのだろうか。

ところで、写真の踊っている女性をご覧願いたい。左足をくっと上げると、おしりのあたりから膝にかけて、線がくっきりと現れている。手と足のバランスも見事に取れていて、何とセクシーなことだろう。完全にエロオジサンモードに入っているが、これが楽しみで観に来ている男性もきっと多いに違いない。

話は変わるが、「恥の多い人生を送ってきました」とは、太宰治『人間失格』の書き出しである。私は新潮文庫で読んだが、集英社文庫にもこの作品は入っていて、この集英社文庫版『人間失格』が急に売れ出したのだそうだ。その理由は、文庫の表紙を、「DEATH NOTE」で知られる人気漫画家、小畑健さんのイラストに変えたからなのだそうだ。中味は変わらないのに、表紙一つで売れ行きが変わる。そんなものかもしれない。

ご存知のとおり、太宰治は山崎富栄と玉川上水で情死した。情死を心中という人もいる。日本文化に詳しい中西進さんによれば、心中とは、もともと男女の愛の誓いのことなのだそうだ。江戸時代、遊郭で男女が、誓約書を書く、髪を切る、入れ墨をする、指をつめる、生身を傷つけるなどの方法で、愛を誓う習慣が生まれた。これを「心中立て」と呼んだ。ところが、いくら「心中立て」をしても、生きている限り、誓いは破られる。そうなると、本当の「心中立て」は、男女が命を絶つことしかなくなる。これが、情死ということになる。つまり、情死とは、男女の愛を永続化するという意味を持つものだったのである。

来月あたり落ち着いたら旅行したい。以前から一度行ってみたかった名古屋が第一目標だ。独特と言われる名古屋文化を是非とも体験したいと思っている。お土産はもちろん赤福にしたい。


わき毛、残しませんか。 [芸術]

「乳白色の裸婦」という記事を以前書いた(http://blog.so-net.ne.jp/karubi53/2007-03-03)。日本を代表する洋画家である藤田嗣治と翼賛戦争画(聖戦美術)のことがテーマの記事で、概略、次のような内容であった。藤田は第二次世界大戦時、戦争を賛美する戦争画を描いた。ところが、デッサンのリアリズムを追求する藤田の戦争画に軍部があるときクレームをつけた。戦争の悲惨さがあまりにも生々しく描かれているため、戦意高揚に繋がらないというのがその理由であった。戦後藤田は日本を立ち、パリでその生涯を終える。藤田が戦争画を描いたことに賛否両論はあるが、戦争画を描いたことが彼の経歴に傷をつけることはないであろう、というのが私の結論だった。

今日の日経と産経は、藤田と同じく日本洋画界の重鎮であった小磯良平に関する記事を伝えた。小磯もまた藤田と同じく、軍部の嘱託によって戦争画を描いた画家であった。記事によると、戦時中の昭和19年、小磯が東京美術学校でともに学んだ内田巌あてに書いた手紙が見つかった。そこには、戦争画と純粋芸術との間で苦悩する小磯の心境が語られていた。「戦争画も純粋芸術と称する絵も同じく多少とも病気にかかっている。戦争画を悪くいう人たちの気持ちもよくわかるし、純粋芸術を悪く言うのもまたわかる。同じだ。皆どうしてよいのかしらないだけだ。」。「今さらの重点的な戦争美術のタイコをヂャンヂョンたたいても何もならない。」。

戦争画を描くことに小磯が決して前向きでなかったことが、この手紙からわかる。ただ、戦争という異常状況のなかで、芸術家一人が抵抗できる力は限られていたであろう。自分は芸術家であるが、芸術家である前に日本人である。日本人として戦時下に協力すべきことがあるのではないか。小磯の気持ちは右に、左に大きく揺れ動いていたに違いない。そんな心中を親友に吐露したものが今回発見された手紙というわけだ。芸術と戦争。一見全く相容れないように見える二つのものが無理矢理接点を持とうとしたとき、芸術家の苦悩は始まった。

さて、芸術の話から一気にレベルダウンするが、わき毛の話をしたい。猛暑で少し思考能力が落ちてきたので、この際、堕ちるところまで堕ちてみたい。なぜ女性はわき毛を剃るのだろうか。エチケットとして当然じゃないと女性から叱られそうだが、日本ではいつ頃から女性がわき毛を剃る習慣が出来上がったのだろう。少なくとも戦前にはそのような習慣はなかったみたいだ。わき毛を剃る目的は何だったのだろう。見た目の問題、それとも何か衛生上の問題 ? そしてこれもまた、戦後無防備に受け入れてきた欧米の習慣の一つだったのだろうか。

人間の身体にはいろんな毛が生えている。上から行くと、髪の毛、眉毛、まつ毛,鼻毛、陰毛、すね毛などなど。これらの毛は意味もなくただ生えているのではなく、必ず何らかの意味、目的があって生えているはずである。神様は気まぐれで髪の毛を頭の上に創ったわけではないであろう。わきという、意表をつく部位にわざわざチョロチョロと毛を付けた意味は何だったのだろうか。ひょっとしたら、わき毛は生物学的には剃らないほうがいいのかもしれない。よくわからないけど。

岐阜県で観測史上最高気温となる40.9度を記録した夏の日の、私の妄想である。

写真は、小磯良平「裁縫する女」。


歌謡界の妖怪、UFOに乗って逝く。 [芸術]

今日も猛暑日だったのだろうか。ご覧の写真は新宿アルタ前から撮ったものだが、午後3時過ぎ、正面に見える温度計は35度を示していた。暑さで空気がもやっていて、画面全体が白くなっている。涼しい地下街を通って極力外に出ないようにし、水分補給のために今日は喫茶店を2軒ハシゴし、アイスティー2杯とアイスコーヒー1杯を飲み干した。明日から札幌で束の間の涼を取ることができるのは嬉しいが、またすぐ東京に戻らなくてはいけない。

さて、作詞家の阿久悠さんが亡くなられた。「また逢う日まで」「あの鐘を鳴らすのはあなた」「わたしの青い鳥」「時の過ぎゆくままに」「北の国から」「ペッパー警部」「UFO」「津軽海峡冬景色」「舟唄」「もしもピアノが弾けたなら」「居酒屋」「熱き心に」「街の灯り」「勝手にしやがれ」など、5千曲を超える作詞をし、多くのヒット曲も生んだ歌謡界の巨人であった。彼の作詞した曲を聴いたことのない日本人はほとんどいないかもしれない。

『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』という3年前に出版された彼の著書がある。タイトルに歌謡曲という言葉を使ったところに、阿久さんの歌謡曲に対する深い思い入れが感じられる。この本は彼が作詞したいくつか作品に関するエピソードなどを紹介したエッセイ集である。山本リンダの「どうにもとまらない」は昭和47年の作品。その当時、田中角栄総理の日本列島改造論がブームであった。この影響を受けて株価も暴騰し、新聞が「どうにもとまらない」と書く。そんなことがヒントになってこのタイトルをつけたのだそうだ。

ピンク・レディーの大ヒット曲「サウスポー」は昭和53年発売。♪背番号1のすごいやつが相手 で始まるこの曲。背番号1のすごいやつとは誰のことかご存知だろうか。そう、現ソフトバンクホークス監督の王貞治さんである。この曲がヒットして阿久さんは王さんから電話をもらい、「ぼくの歌をありがとう」と言われたのだそうだ。

私は阿久さんの作品では「街の灯り」(堺正章)、「あの鐘を鳴らすのはあなた」(和田アキ子)が好きだ。また、この歌詞は凄いと思うのは沢田研二の「サムライ」だ。♪片手にピストル 心に花束 唇に火の酒 背中に人生。こんなフレーズはどうやったら出てくるのだろう思う。阿久さんはこの歌詞は男の美意識を抽象化したものだというが、いずれにしろ凄い。

この本にある阿久さんの次の言葉が好きだ。「昭和と平成の間に歌の違いがあるとするなら、昭和が世間を語ったのに、平成では自分だけを語っているということである。それを「私の時代」と言うのかもしれないが、ぼくは、「私を超えた時代」の昭和の歌の方が面白いし、愛するということである。有視界の私の世界よりも、時代を貪り食いながら太ったり、きれいに化けたりしていく世界の方が大きい。その大きい世界から、私に似合いのものを摘み出すのが、歌謡曲と人間との関わりであったのである。」。

テレビの芸能ニュースを見ていたらある歌手が、阿久さんの作品はすぐ歌詞が浮かぶが、今の歌謡曲は歌詞より曲(メロディー)が出てくる、と話をしていた。なかなか興味深い話だ思った。歌謡曲は時代を食べていく妖怪だと、阿久さんは言う。そういう阿久さん自身も一つの時代を駆け抜けた妖怪だったのではないか。


時知らず、クリムト。 [芸術]

先週、札幌と釧路に出張した。この時期、北海道の関係会社が株主総会を開催するので、いくつかの会社の役員をやっている関係で私も総会出席のために北海道に行く。今週末には北見にも行くことになっている。今回の出張は天気に完全に見放され、札幌も釧路も雨に祟られた。でも、総会終了後の懇親会は悪天候に全く係らず大いに盛り上がった。肝臓の悲鳴が聞こえそうである。

さて、北海道はやはり魚が旨い。札幌ではキンキの煮付け。そして釧路では今が旬で脂の乗った時知らず(時鮭)を頂いた。普通鮭というと、8月頃から獲れる秋鮭が一般的であるが、今の時期から7月にかけて獲れる鮭はロシアの河川に遡上する途中のものが日本の領海で獲れるもので、まだ鮭が若く、脂が乗っている。本来秋に獲れる鮭が、初夏の北海道で獲れるという意味で、本来の時を知らず、短くして時知らずと言われる(釧路では単にトキともいう)。一方、秋に北海道の河川に遡上する秋鮭のほうは、長旅をして北海道まで戻ってくる間に完全に体力を燃焼し尽くしてしまい、身も薄く脂も乗っていないので、時知らずよりは旨さが劣るのである。

キンキは、今は高級魚になっているが、その昔は魚かすになっていた魚である。一年中獲れる魚であるが、美味しいのはやはり脂の乗る冬のキンキではないかと思う。北海道ではキンキのことをメンメとも言う。あの着色したような赤い肌身が特徴で、もちろん焼いたり唐揚にしたりしても美味しいが、何といってもキンキは煮つけが一番ではないかと私は思う。札幌では一尾まるごといただいたが、もしこれを東京の高級料理店で食べると1万円くらいするかもしれない。今週の北見ではどんな北の幸が待っているのか今から楽しみである。

話は変わって映画の話。アーティストの方でクリムトファンというのは結構多い。クリムトは女性の裸体、セックスなどを多く描いたオーストリア出身の天才画家だ。その彼を描いたその名も「KLIMT」という映画を観た。正直言うと、映画としては今一つ迫力不足という感じだったが、なんとかしてクリムトという人物の内面を描き切ろうとしてスタッフの意欲だけはひしひしと感じられた。

一つ面白いと思ったのは、クリムトはヌードモデルなどに実際に触れないと絵が描けなかったというエピソードだ。私はモデルを使わずに想像だけで絵を描くアーティストは知っているが、さすがにモデルに触らないと絵が描けない画家というのは初めて知った。天才画家ならではのエピソードといえそうだが、私は映画でもこのシーンをもっと盛り込んでもらいたかった。

19世紀から20世紀にかけてウィーンに咲いた不世出の画家クリムト。時知らず出現したウィーンの至宝の人気は未だ衰えない。


貞操帯と新宿ゴールデン街。 [芸術]

さすがに一日いっぱい家にいると滅入るので、昨日は外出することにした。私はあまり美術館とか博物館とか写真館とかいう施設は行かないほうなのだが、今、埼玉県立近代美術館で「澁澤龍彦 幻想美術館展」をやっていて、面白そうなので行ってみることにした。澁澤龍彦については今さら説明不要と思うが、やはり澁澤といえば、マルキ・ド・サドを日本に本格的に紹介した文学者ということになろう。また、『悪徳の栄え』が猥褻図書にあたるとして、いわゆるサド裁判の被告となったことは有名である。澁澤は三島由紀夫とも親交があり、三島の『サド伯爵夫人』は澁澤の作品の影響を受けているとされる。

さて、美術館展のほうは盛況で、私も行ってよかったと思った。澁澤の生涯を概観できるいい企画だと感じたが、中でも私は1968年に彼自身が責任編集者となり発行した雑誌「血と薔薇」の頃の澁澤の活躍が好きだ。以前のブログでも「血と薔薇」について書いた(http://blog.livedoor.jp/karubi353/archives/50622774.html)。上の写真は創刊号の巻頭写真特集を飾った奈良原一高の「サルダナバルスの死」という作品だ。ちなみに男性モデルは澁澤龍彦自身である。この美術館展にあわせて、巌谷國士監修で『澁澤龍彦 幻想美術館』という本が平凡社から出された。この本に紹介されている作品の実物をほとんど美術館展で見ることができる。なかでも必見は、「血と薔薇」第2号の表紙を着飾った人形作家・土井典(のりこ)制作の「貞操帯」である。実物を見るとぞくぞくする興奮を覚える。

さて、昨日は夕方、ある方と新宿で飲み歩いた。最初は新宿居酒屋界の銘店の一つ「浪漫房」。休日に係らずといおうか、休日だからといおうか、店内はほぼ満席だった。連休で河岸が休みなので魚や肉などの仕入れができないはずであるから、新鮮さが命の魚は極力注文しないことにした。注文した中では甘い下味のついた骨付きの鳥の唐揚が旨かった。私の生まれた北海道では、鳥の唐揚のことをザンギという。下味付けに醤油や生姜などを使って濃厚な味付けにするところが特徴だが、一説によるとザンギ発祥の地は私の生まれた釧路だということだ。名前のザンギというのは、中国語で鳥の唐揚を意味するザーギー(炸鳥)に由来するという話がある。

「浪漫房」を後にして、久し振りに新宿ゴールデン街に繰り出した。閉めている店もあったが、ゴールデン街で私が唯一気軽に入れる「原子心母」は営業していたので、小さなカウンターに場所を確保してウィスキーと芋焼酎をグイッと飲んだ。隅の席には男性2人がポッピーを飲みながら、何やら文学談義に華を咲かせていた。悪いと思いながら聞き耳を立てたのだが、「大江健三郎は俺はよくわからないな」「ところで寺山修司はどう思う」など、彼らもまた文学を目指す青年のようだった。新宿ゴールデン街というのは、こういう文学や芸術談義をするのに実に相応しい空間のような気がする。ちなみに新宿ゴールデン街の名付け親は、作家の五木寛之である。

『澁澤龍彦 幻想美術館』によると、新宿ゴールデン街横の花園神社で劇団・状況劇場を旗揚げして、後に芥川賞作家にもなった劇作家、小説家の唐十郎と澁澤龍彦とは親しい交友があり、澁澤は早くから唐の舞台を見て高く評価していたという。澁澤が新宿ゴールデン街で飲んだかどうかは知らないが、いずれにしろここは、新しい芸術の魂を育むエネルギーを秘めた場所であるような気がする。


夜の作家、ゴッホ。 [芸術]

今朝は早起きをして、新装なった東京競馬場に行ってきた(写真)。JR中野駅まではバスで行き、そこから東京競馬場のあるJR府中本町までは中央線、南部線と乗り継いだ。絶好の行楽日和という言葉があるが、今日は正にそういう感じだった。競馬場というと競馬新聞片手に耳に赤いペンを乗せているオジサンばかりでちょっと怖いところというイメージがあるかもしれないが、今はカップルや家族連れが大勢来ていて、競馬場はさながら明るく健康的な娯楽施設という感じになっている。

競馬場には単に遊びに行ったわけではもちろんない。一儲けして美味しいステーキでも食べようと思ったのである。ところが、最初のレースからつまずいてしまった。私が買った馬がレース直前に出走除外になったのだ。当然掛け金は払い戻されたが、出鼻をくじかれるとはこのことで、何かこの先悪いことが起きそうな予感がした。

この予感は的中し、その後の3レースすべて外してしまった。儲けるどころか、お金は払いっぱなしでJRAの収益に貢献しただけのことだった。今日はダメだと思い、昼のレースで切り上げ、京王線に乗って新宿まで帰ってきた。やはり新宿に来ると何となく落ち着く。紀伊国屋で本を買い、面影屋珈琲店でブレンドコーヒーを飲むとという定番コースを辿った後、夕方久し振りに下北沢に行った。下北沢に行く目的はいつも決まっていて、カレーパンの「アンゼリカ」でみそパンを買い、その後ステーキの「カウボーイ」で340グラムのカウボーイ・ステーキを食べるのである。もし、競馬で勝っていたらもう少し高いステーキを食べるつもりだったが、負けたので安くて旨いカウボーイになってしまったのである。

さて、先週は酒浸りの日々でほとんど本を読まなかったので、今日は電車の中で金曜日に買っておいた岡本太郎の『美の呪力』を読んだ。私は正直言うと、岡本の作品はよくわからない。でも彼の書く著作は好きなのだ。教養の広さ、見事な文章力、そして何よりも彼の芸術に関する独創的な見方、考え方に魅力を感じるのだ。『美の呪力』は1970年に彼が芸術新潮に書き綴った「わが世界美術史」をまとめたものだ。

この本で岡本は、ゴッホは夜の画家だと言っている。オランダにいた頃の初期の作品「馬鈴薯を食う人々」、後期作品の「夜のカフェテラス」(写真)「星月夜」「椅子とパイプ」など、ゴッホには夜をモチーフにした作品が多い。しかしそのどれもが暗く、暗澹たるものがある。特に「馬鈴薯を食う人々」のいいようのない暗い世界は生涯ゴッホの作品を貫いていて、アルル時代の原色の爆発にしても、どれも息の詰まる重苦しいものだと岡本は述べている。

ゴッホと同じオランダ出身の画家であるレンブラントの作品よりも、夜の作家、ゴッホの暗くて惨めな「馬鈴薯を食う人々」に岡本は重みを感じ、感動する。人間の本当の姿は、すべてが白日のもとに晒される昼ではなく、孤独から解き放たれ、身体中の触角が伸び始める夜に現れると岡本はいう。彼がゴッホを夜の作家と呼んだのは、もちろん単に彼が夜をモチーフにした作品を多く描いたからというのではなく、ゴッホがひたすら人間的であり続けたということが理由になっているのである。

藤圭子のヒット曲「夢は夜ひらく」。人の夢も、すべてが光りのもとに晒されて心が閉ざされる昼ではなく、黒い闇のなかで生命が燃え上がる夜にひらくもののようだ。


モナ・リザとホモセクシャル。 [芸術]

ピンクのシャツの上から薄手の白いブルゾンを着て午後、新宿に出かけた。ところが途中からブルゾンを脱いでしまった。東京は今日最高気温が24度を超え、今年一番の暑さになった。半袖で街を歩く人達も多く見かけた。さて、歩行者天国になるアルタ前の新宿通りには、大道芸人のようなパフォーマーが集結する。パントマイム、ダンス、アクロバット、歌など多彩であるが、私はあまり関心がない。ところが今日、一風変わった女性パフォーマーを見つけた。20代と思われる女性が「FREE HUGS」という書かれたプラカードを頭の上に掲げて、紀伊国屋から三越の間を何度も歩いているのである。「FREE HUGS」は、タダで抱擁しますという意味だと思うが、少しの間彼女を見ていたのであるが、誰も寄ってこなかった。道行く人は何となく不気味な感じがしたのだと思う。どういう目的のパフォーマンスか直接聞きたかったが、ちょっと躊躇した。

今朝の新日曜美術館は、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」特集であった(写真)。この名画は上野の東京国立博物館で6月まで観ることが出来る。ダ・ヴィンチの受胎告知は、天使カブリエルが主イエスの受胎を聖母マリアに告知する場面が描かれている。受胎告知、処女懐胎とは、男性との性交がないにもかかわらず、女性が妊娠することを言う。論理的にはあり得ないことであるが、だからこそ神秘性があるのだとも言える。

気鋭の脳科学者、茂木健一郎が『天才論 ダ・ヴィンチに学ぶ「総合力」の秘訣』という本を最近著した。「万能の天才」ダ・ヴィンチのように、天才的な業績を残すためには、「総合的な知性」を鍛える必要があるというのが著者の主張のようである。簡単に言うと例えば、絵を描く人は絵のことばかり勉強するのではなく、ダ・ヴィンチのように、建築、科学、医学などいろいろな分野の勉強を幅広く行わなければ、本業の絵でいい作品を残せないということである。ただ、こういう考え方は特段目新しいものではないと思う。

私が面白かったのは、レオナルドの手稿(手書きの原稿)にある「ヘリコプター」「人工翼」のような飛翔への憧れを示すアイディアや、城を防衛するための「石弓機」(一種の投石機)などは、ほとんどが実際には作ることができないか、仮に作ってみても役立たないという話である。次の話は私も知っていたが、レオナルドはホモセクシャルで女性に興味がなかった。彼の弟子は美男子ばかりだったそうである。ここで私が不思議に思うのは、女性に興味がないレオナルドが、よく「モナ・リザ」や聖母マリアを描けたなという疑問である。私の知る限り、ホモセクシャルは肉体的には男性にしか興味を持たないものである。女性には見向きもしない。私はどちらかというと、レオナルドの描く精緻で美しい女性を観ると、彼は、女性を舐めるような視線で眺め渡したといわれる川端康成に近いのではないかと思う。レオナルドは実は、女性に興味津々だったのではないか(注:「モナ・リザ」のモデルはレオナルド本人だという説があるのだそうだ)。

茂木健一郎は最後に自分の専門分野の脳に関してユニークな話をしている。食べられる量には限界がある。着られる服にも限りがある。でも、取り入れられる知識には限界がない。脳は、学び続けることに喜びを感じるようにできている。知の欲望は無限で、一生満たされることがない。「脳は、学び続けることに喜びを感じるようにできている」というのが実に面白い。明日からまた、一生懸命学ぶようにしよう。そうしないと、脳は悲しんでしまう。


乳白色の裸婦。 [芸術]

おでんが恋しい季節ももうそろそろ終わろうとしている。昨日は新宿「お多幸」のカウンターで熱燗をちびりちびりやりながら、関東風おでんを食べた。私の横には中年のビジネスマンが二人、戦国の武将について熱く語り合っていた。悪いなと思いながら聞き耳を立てていたのであるが、「武田信玄は凄いよな。彼の精神はいまだに甲斐の国の人間に生きているな。ハッハッハー。」、どうやら二人のうち一人は山梨出身の方らしい。「織田信長がもう少し生きていたら、日本は変わっていたかもしれないな。」「俺は、上杉謙信が武田信玄に塩を送った話は美談じゃないと思うな。」「歴史は繰り返すと言うけど、これから日本はどうなるのかね。」。よくある酒場の一風景である。

戦国武将の話ではないが、先日『芸術と戦争』という本が出た。芸術家が戦争とどう関わったかについて書かれた本で、井伏鱒ニ、吉川英治、野間宏などの文学者、藤田嗣治、東郷青児、岡本太郎などの画家など、合計19名の芸術家の話が載せられている。この中で私が興味深く読んだのは藤田嗣治と東郷青児の話であるが、ここでは藤田嗣治を取り上げようと思う。

藤田の生い立ちや作品などについては割愛するが、第二次世界大戦のとき、パリから日本に戻っていた藤田が翼賛戦争画(聖戦美術)を描いたことはよく知られている。デッサン力に優れ、リアリズムを追求する藤田の戦争画は当初評判を呼んだが、ある時、陸軍から苦情がくるようになった。最初に苦情の対象となったのは、「アッツ島最後の攻撃」。次は「サイパン島玉砕」。どちらも、アメリカ軍の猛攻の前に窮地に陥った日本軍が玉砕を敢行した戦地を描いたものだ。

それでは一体、軍部は藤田の絵の何にクレームをつけたのか。それは、藤田の絵があまりにも臨場感に溢れすぎていて、悲惨さが勝ち過ぎてしまい、これでは戦意高揚には繋がらないというのが理由であった。このことをきっかけに藤田は日本を離れ、その後の生涯をパリで過ごすことになるのであるが、離日の際、藤田が残したコメントが「画家は絵に誠実でなければいけません。一日も早く日本の画壇も国際水準に達することを祈ります。」だった。

藤田が戦争画を描いたことの賛否についていろいろ意見があるようだ。私はこの本を読んで、次の2点に留意する必要があると思う。一つ目は、藤田は戦時下の国民の一人として、時の政府の方針に従うのは当然と考え、積極的に聖戦美術の制作に参加したということ。二つ目は、戦争とは殺し合いを行う悲惨なもので、この悲惨さをありのままに描くことが画家として責務だと藤田が考えていたことだ。

こういう話になると、そもそも論として、芸術とは何か、芸術家とは何かという議論が出てくる。私はこういうとき、坂口安吾が「教祖の文学」というエッセイで書いた芸術論を思い出すことにしている。教祖とは評論家・小林秀雄のことなのだが、エッセイの最後のほうで芸術に関して次のようなことが書かれている。

「作家にとって大切なのは言うまでなく自分の一生であり人生であって、作品ではない。芸術などは作家の人生に於いてはたかが商品に過ぎず、又は遊びにすぎないものである。」。坂口の一刀両断は冴えている。ただし坂口は、芸術自体を軽視しているのではない。芸術家はもがき苦しみながらも、自分の信じるところにしたがって生きていくことに価値があると言っているのである。坂口が太宰治の情死を激しく非難したことにもこの考え方は貫かれていると私は思う。

そんなふうに考えると、藤田が自分の信念に基づいて翼賛戦争画を描いたことは、一向に非難の対象になりうるものではなく、ましてや彼の経歴にキズをつけるものでもないと思う。厳しい時局の中で、自分の技術の発露を戦争画に積極的に見出そうとした藤田のひたむきな姿勢に私はむしろ感動すら覚える。

(注)絵は、藤田嗣治「五人の裸婦」。


女の色。 [芸術]

暖冬であるが、今日の東京は久し振りに寒い冬の一日であった。いつものように新宿の定点観測をしていると、三丁目の追分だんご本舗本店(写真)では道明寺(さくら餅)を売っていた。道明寺は一般には関西系とされ、桜色に蒸したもち米(道明寺粉)で餡を包み、最後は塩漬けした桜の葉で巻くものである。一方関東系には、長命寺というのがある。東京都墨田区向島にある「山本や」のものが有名であるが(私も一度だけ食べた)、こちらのさくら餅は、塩漬けした桜の葉で巻くところは道明寺と同じであるが、餡を薄い小麦粉の皮で丸めるところが道明寺と異なる。甘い物好きの私は道明寺でも長命寺でも、どちらでも構わない。

さて、今日の新日曜美術館は人間国宝、志村ふくみの特集であった。志村ふくみは、紬織りと染織の優れた技術によって知られ、自然界にある植物から抽出した豊かで冴えのある色を絹糸に移しかえ、着物などを中心に制作している。今年82歳になる志村であるが、その明晰な喋りと、いまだ衰えを見せない旺盛な制作欲に私はすぐ魅せられてしまった。

さっそく私は彼女が書いた『一色一生』というエッセイを買って読んでみた。文章力のほうも一流で、一気に読んでしまった。テレビの中でも出てくる話で、「蘇芳(すほう)」という木の話がある。蘇芳は、インド、マレーシアに産する蘇芳という木の芯材のことで、この蘇芳の木をたき出すと赤黄色の液が出て、その液に明礬(みょうばん)で媒染した糸を浸けると、真赤になるという。あらゆる赤の中で、この蘇芳の赤ほど、真っ当な女をあらわして嘘のない色を志村は知らないと書いている。志村は若い頃、この蘇芳と格闘して寝込んだという。若い志村が「女の色」に体当たりして振り回されたのかもしれない、と彼女は回想している。

なかなか味のある話である。志村はもともと今の道で生きていこうとしたわけではなかった。若くして離婚し、二人の子供もあった志村が生きていくために選んだのが、母がやっていた織物の世界だったのである。その後一気に彼女の才能が開花するわけだが、もし結婚生活が順調に行っていたならば、東京でずっと平凡な主婦をしていたかもしれない。芸術の神様はイタズラ好きなのである。

さくら餅の話を冒頭したが、桜の花を煮詰めると薄いピンクになると思うかもしれないが、実際にやってみるとそうはならない。ある地方の桜でその実験をしてみたら、黄色っぽい色が抽出されたことがテレビで紹介されていた。まあ、自然の不思議という話なのであるが、私の場合、「花より団子」、早く道明寺にありつきたい。

写真は、1990年に制作された「連珠」という作品である(日本工芸会HP)。


ゲイと裸祭り。 [芸術]

日曜日、月曜日と2日間、死んだようにベッドの中で眠り込んだが、今日は通常通り朝5時半に起床し、8時前には会社に着いて仕事を始めた。家では新聞もろくすっぽ読んでいなかったので、会社にあるここ2、3日分の一般紙をペラペラめくっていたら、世の中には本当に思わぬ死に方をする人がいるなと感じさせる事故の記事を見つけた。

それは、岡山県西大寺で行われた裸祭りで、宝木(しんぎ)争奪戦に参加した45歳の地元男性が、もみ合いの末下敷きになり全身圧迫で意識不明となっていたが、18日未明死亡したという記事であった。

岡山県西大寺のHPがあったので調べてみたら、ここの裸祭りは天下の奇祭として知られているという。毎年1万人近い参加者があり、男性は褌一丁の姿で幸運を呼ぶとされる宝木を自分のものにしようと激しく奪い合う。中には女性もいるらしいが、こちらはさすがにヌードというわけにはいかず、白衣をまとっているそうだ。では、なぜ裸(中には本当にオールヌードになる男性もいるらしい)なのかというと、宝木を奪い取るためには、裸になって体の自由を得る必要があるからなのだそうだ。

幸福の宝木を求めて山に入った男性が、ライバルたちに押し潰されて死んでしまう。それも運命、これも運命といえばそれまでかもしれないが、なんとなく空しい。そう、空しいことだけが人生さ、という歌の歌詞を昔どこかで聴いた気もする。

裸祭りを調べていたら、日本中に裸祭りがあることが判った。さて、ここからは私の独断と偏見であるが、多分、ゲイの方は裸祭りを見ているのではないかと思う。昨日の続きではないが、鍛えられた男の隆々とした肉体美は、彼等の垂涎の的に違いない。まして、全裸が登場することもあるとなると、女性のみならず、ゲイの方の血が騒ぐこと疑いないと思う。こういう視点で地方に根付く神聖な裸祭りを見てはいけないかもしれないが、現実はいろいろと複雑なのだ。

写真は、同性愛者であり、最後はエイズで亡くなったアメリカの写真家ロバート・メイプルソープの男性ヌード作品だ。彼のテーマは、性と花。この取り合わせがとても面白いではないか。花の写真も実に綺麗なのだが、今日は流れ的に男性ヌード。同性愛者の目で男性を撮るとこうなるようだ。


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