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吉原遊女、性域に聖域なし。 [BOOKS]

IMG_0463.JPG江戸幕府に唯一公認された遊郭、吉原。そこで春をひさぐ遊女たちの姿を描いた映画が「吉原炎上」である。主演の名取裕子ももちろん綺麗だったが、私は筆頭花魁、九重を演じた二宮さよ子の妖艶さにうっとりした。初見世で失態を演じた名取演じる若汐に対し、先輩格の二宮演じる九重が廓(くるわ)の作法を身体を張って教え込む濃厚レズシーンは、恥ずかしながら何度見ても興奮してしまう。

さて、雑誌「東京人」最新号は吉原特集だ。読んでみていろいろ勉強になったが、遊女たちが吉原を出るためには三つの方法があるという話をここでは簡単に紹介してみたい。まず一つ目は、年季を勤め上げること。ちなみに映画「吉原炎上」では6年が年季とされていた。二つ目は、金のある馴染み客に身請けされること。身請けとは要するに、金持ちが金を出して遊女を娶る(めとる)ことをいう。そして三つ目は、死ぬこと。以上の三つだそうだ。

雑誌を読んでみると、吉原が全体的に美化されているような気がしてならなかった。格の高い遊女は教養も持ち合わせていたとか、馴染み客には操を立てる、つまり処女性を大切にしたとか、絢爛豪華な衣装をまといながら、そこに女の素が覗く、そのギャップが人の心を打つとか、あの場所でしか生きられなかった女もいた、ある意味、そこでの暮らしが幸せだったかもしれないとか、吉原で働く遊女がまるで「聖人」(「性人」ではなく)のように書かれている。

先日、有楽町は昔「ラク町」と呼ばれ、戦後、米軍将校を相手にするパンパン(街娼)のメッカだったという話をここで書いた(写真は、今日の有楽町マリオン)。同じ春をひさいでも、吉原の遊女と有楽町のパンパンでは「格が違う」ということなのかもしれないが、果たしてそうなのだろうかと思う。しきたり、ルールにうるさい吉原も、さっさと「コト」を済ませる有楽町のパンパンも、突き詰めれば人間の「性欲」処理の問題なのだから、本質的にどちらが上とか下とか、そういうことの差は全く無いように思う。

何度も書いているが、人間の基本的欲望の一つが「性欲」なのだから、性に関して表現方法がどうとられようとも、「性欲」に根ざしたものである限りすべて「人間的」なのだと思う。

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