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芥川賞作品『終の住処』、読んでみましたが・・・。 [BOOKS]

IMGP0596.JPG今日午後3時過ぎ、JR新宿駅東口にある大きな温度計を見上げたら、34度を示していた。背骨の間から玉のような汗がスーッと腰のあたりまで何度も流れ落ちる。どうやら身体を少し引き締める必要があるみたいだ。そういえば、先日久しぶりに体重計に乗ったら85キロあった。私の標準体重は身長を基準に計算すると大体70キロくらいである。「中年の貫禄」分を加味しても75キロくらいがリミットだろう。そうすると、10キロはダイエットする必要がある計算になる。でも、それはなんとなく無理なような気がする。80キロくらいまでならがんばれそうだが、75キロは厳しい。まあ、自然体で行こうと思う。

さて、先日芥川賞と直木賞が発表された。芥川賞は磯崎憲一郎さんの『終の住処(ついのすみか)』に決まった。新宿の紀伊国屋で単行本を今日買い求め読んでみたが、正直言うと、クエッションマークという感じだった。この作品は結婚当初からあまり上手くいっていない夫婦関係がテーマになっているが、私が未婚だからよく理解できないのだろうかとも思った。この作品に比べると、前回の芥川賞受賞作で、派遣社員で29歳独身女性の生活を精緻に描いた津村紀久子さんの『ポトスライムの舟』のほうが、同じ現代世相を描いていても私にはリアリティーがあって、わかりやすかった。

『終の住処』で一箇所、私が共感した部分がある。主人公の夫が漏らす言葉であるが「まったく不思議なことだったが、人生にとってはとうてい重要とは思えないようなもの、無いなら無いにこしたことはないようなものたちによって、かろうじて人生そのものが存続しているのだった。」。とうてい重要でないもの、無いならないにこしたことのないものとは、「若いころの営業と接待の日々」「上司の罵声」「深夜残業」「家計のやりくり」「赤ん坊の夜泣き」「寝不足のまま朝起きあがることの辛さ」「どうしても抜け出すことのできない不倫関係」「自己嫌悪」etcとある。要するに、日常のことだ。

私はこの部分を読んだとき、小津安二郎作品のことを思い出した。小津作品は見慣れないと、何が面白いのかよくわからない。私もそうだった。彼の作品はどれも、普通の家庭で起こる日常風景をただ淡々と描き出しているようにしか最初は見えない。でも何度か観てだんだん慣れてくると、「日常風景を注意深く観察する」、ただそれだけが小津作品の見方であることがわかってくる。日常風景を注意深く観察すると何が見えてくるのかと言うと、日常というのは事の大小に係わらず、家族の決断と変化の日々であることが見えてくるのである。

磯崎さんが言うように、人生は重要でないもの、無駄なものの積み重ねなのだろうと思う。人生を大きく左右したり、生死に係るような重大な出来事、またはそれに関する決断を我々は、生きているうちに何回するのだろうか。どうだろう、ほとんどの人は片手に余るくらいしかないのではなかろうか。そして人生の9割9分は多分、取るに足らないささいなこと、無為に思えることから出来上がっているような気がする。でも、そのささいなこと、無為に思えること一つ一つに実はそれなりの意味があり、それらが知らない間に我々の人生を形作っているではないだろうか。


写真は今日午後3時頃の新宿駅東口。雲一つない青空が広がっている。

煩悩に満ちた世界、私は新宿の仏陀になる。 [BOOKS]

DSC_0035.JPGこのところまともに本を読んでいなかった。本を読むのは、本を読む時間があるかどうかではなく、ひとえに本を読む気持ちがあるかどうかだけに依存しているような気がする。ということで、今日午後、新宿紀伊国屋に行って以前から少し気になっていた前田司郎さんの『夏の水の半魚人』を買ってきて、少し前に読み終えた。

この作品は今年の三島由紀夫賞受賞作である。前田さんは小説家の肩書の他に劇作家、演出家、俳優などの肩書も持つ若き「天才」で、1977年生まれと言うから今年で32歳ということになる。デヴュー作品から文学賞の候補となり、賞を取るのは時間の問題と言われていたようだ。

さて、『夏の水の半魚人』は、東京で暮らす小学5年生の魚彦が主人公として描かれている(多分、主人公は前田さん自身なのだろう)。作品は魚彦と同級生との日常を丁寧に描き出していて、子供の世界にも大人の世界と同じような人間関係を巡る損得勘定や機微が存在していることを教えてくれる。読みながら、「あー、その心理わかる、わかる」「そういえば、自分にもそういう経験あったなあ」、そんな言葉が心の中で何度か浮かんできた。

前田さんは天才に属する人間だと思うが、これまでさまざまな分野において神様は、天才たちをこの世に送り出してきた。先日急逝したマイケル・ジャクソンさんは間違いなくその一人だろうし、今年の全英オープンに日本人最年少選手として出場する石川遼選手も多分その一人に違いない。そういえばプロゴルフの世界にはタイガー・ウッズという超天才もいる。しかしながら、神様は祝福される天才だけをこの世に送り出したわけではない。犯罪史上に名を残す悪の天才もまた神様の創造物に違いない。

「天才は1パーセントのひらめきと99パーセントの汗」とは発明王トーマス・エジソンの言葉とされる。努力の大切さを述べたものと一般に言われるが、文句をつけるわけではないが、ほとんどの一般人に「1パーセントのひらめき」さえないように思う。つまり、ほとんどの一般人は天才になれないということだ。ところで、ある日本の哲学者が「人間の運命は生まれた瞬間にその80%が決まっている。あとの20%は努力次第で多少人生は変えられるかもしれない」という話をしていて、私はこちらの話のほうがトーマス・エジソンの言葉よりもリアリティーがあると思った。

人間を50年近くやっていると、さすがに社会の仕組みや人生のあり方について少しだけわかってくることがある。そうなったときに、ここで一旦今の人生を清算し、生まれ変わりたいと考える人がいる。生まれ変わったら、今の人生よりも数倍幸福な人生を歩むことができると考えるのだ。私もそう考えてみたこともあった。でも、もし生まれ変わったとしても、生まれた瞬間に新しい人生の運命は再び80%決まってしまう。その運命は今の運命よりも恵まれている保証は一つもない。そう考えると、生まれ変わりたいという願いは心情的にはわかるけれど、80%運命論からすると理屈に合うものではないように思う。

我々一般人は、20%の部分で何とか頑張ってみるしかないのである。一生懸命頑張ってみても人生が劇的に変わることはまずないであろう。そうなると人生には何となく夢も希望もないように思うかもしれないが、まだ20%は努力次第で人生が多少なりとも変わる可能性があるのだからまだいいほうである。これが0%、つまり人間の運命は生まれた瞬間に100%決まっていると言われると、さすがにこれは辛い。

ご存知のように、仏教では、この世は煩悩に満ちた世界であるとされている。煩悩に満ちた世界とは、生きていくことが苦しい世界のことだ。そしてお釈迦様は、この世のことはすべて無常であることを悟った時に人間を超えた存在、つまり仏陀(如来)になれると説いた。果して天才たちにも煩悩があるのだろうか。


さて、昨日大阪から戻り、週末は静かにしていようと思ったが、私のなかの「ネオン虫」が夜の到来とともに起き出し、午後7時過ぎに家を出て新宿に向かった(写真)。新宿ゴールデン街で一杯やってきた。

花畑牧場の生キャラメル、もうお土産になりません。 [BOOKS]

DSC_0025.JPG「癒し」「ロハス」、歯の浮くようなこういう言葉は好きではない。「がんばった自分へのご褒美」「自分を褒めてあげたい」、こうなるともう寒気さえ感じる。「ソトコト」は「ロハス」をコンセプトとして発行されている雑誌で、一部に熱烈な読者もいると聞く。「ロハス」とは要するに、環境やエコに配慮した生活を送りましょうということらしい。環境やエコに配慮することに正面から反対する人はいないであろうけど(なかにはいるかもしれないが)、ただ、あまりにも原理主義的に環境やエコが世の中で一番大切なことのように押し付けられると(「環境教」「エコ教」)、ハッキリ言ってついていけない。

その「ソトコト」最新号は北海道を特集している。北海道のことはいろいろ勉強しておきたいので、この雑誌に対する思いは別にして、買って読んでみた。特集のタイトルは「学びの大陸 北海道」。なんでも、世界には6つの大陸があるが、北海道は7つ目の大陸だそうで(そんなの初めて聞いた)、北海道は人が人らしく生活する「理想郷」なのだそうだ(北海道以外の日本はみな悲惨なのだろうか)。北海道を何日取材したのか知らないが、550万道民の生活感が微塵も感じられない記事を読み、北海道から一体何を「学ぼう」と言いたいのか、さっぱりわからなかった。北海道に関する情報は確かにいくつか得ることができたが、買う必要までなかったような気もする。

さて、今朝のザ・サンデーは、加熱する東京串揚げ戦争の様子を伝えた。大阪では串揚げではなく串かつ(カツ)と表現するのが一般的だ。それはさておき、今、何故東京で串揚げが人気になっているのだろうか。その理由は簡単で、串揚げは安い、そして注文するとすぐ出てくるという早さだ。その背景にはもちろん不況で厳しくなったサラリーマンのお財布事情がある。私は数年前から年に一度か二度大阪に行っているが、その目的は安くて旨い大阪の庶民の味を堪能するためだ。前々回行ったときには大衆酒場を5軒ハシゴし、もちろん大好きな串かつもたらふく頂いた。

大阪出身の芥川賞作家である町田康さんのエッセイに、大阪の串かつが突然食べたくなり、ただそれだけの目的で東京から大阪に出かけたという話があった。何とも贅沢な話だが、無性に何かを食べたい衝動にかられるというのは誰にでもある。その食べたいものがすぐ手に入るのは便利なことだけど、わざわざ「本場」に行かないと食べられないという不便さもあえて残しておかないといけないと思う。今回のように本場大阪の串かつを東京で食べられるのは悪いことではないかもしれないが、町田さんや小生のようにお金と時間をかけてわざわざ本場大阪まで出向く「手間」をかける楽しみが奪われてしまいそうで、半分嬉しく半分悲しい気分だ。

写真は今日の新宿。JR新宿駅東口前の様子であるが、東京は今日気温が29度まで上がった。明日、出張で札幌に行く。北海道は思ったよりも寒くないようだが、念のため長袖のワイシャツを着ていくことにする。ところで今や北海道のお土産ナンバーワンになった花畑牧場の生キャラメルであるが、先日、銀座に新店舗がオープンした。お土産で買ってくる必要はもうなくなりそうだ。

天才の甲斐性、酒、博打、そして女。 [BOOKS]

DSC_0015.JPG強風が吹き荒れる中、午後から新宿に出かけた。いつものようにJR中野駅から総武線で新宿に向かおうとしたら、東中野で人身事故があったらしく、総武線は止まっていた。運転再開を待つのも時間の無駄なので、仕方なくタクシーに乗り込んだ。今日の新宿は今にも雨が降り出しそうな曇天と帽子が飛ばされそうな強風が吹いていたので、ほとんど地下街を歩いていた。写真は三越のあたりから新宿通りを撮ったもの。

さて、ご承知のとおり私は毎日のように飲んだくれているが、世の中には私なんか足許にも及ばない酒好きがたくさんいる。それも、単なる酒好きではなくて、仕事のほうもきっちりこなす一種の天才のような人たちだ。飲む(酒)、打つ(博打)、買う(女)は昔から男の甲斐性と言われるが(考えてみると、男性に都合のいいものばかりである)、酒好きの天才たちは打つ(博打)、買う(女)ほうも大好きなようだ。

作家の伊集院静さんもその一人ではないかと思う。彼のエッセーを読むと、仕事の合間に遊ぶのではなく、競馬、麻雀の合間に仕事をしているように感じる。女優、檀ふみの父親で、「火宅の人」で有名な作家、檀一雄は生涯女性を愛し、酒を愛し、そして放浪を愛した。ところで伊集院さんで思い出したが、何年も前になるが、銀座数寄屋橋の東芝ビルに旭屋書店があったときに、仕事を終えて本でも買おうと思って行ったら伊集院さんがサイン会を開いていたことがあった。好奇心もあって覗いてみるとあのハンサムな彼の顔は真っ赤。サイン会の前に相当酒を飲んできたに違いないと私は直感した。でも、そういう奔放さこそが彼のウリなのだとも思った。

飲む、打つ、買うは作家だけの専売特許ではない。今月8日、83歳で亡くなられた囲碁の藤沢秀行さんは文字通り破天荒で無頼な一生を送った。本職の囲碁では66歳で7大タイトルの一つである「王座」を獲得し、これは今でも7大タイトルの最高齢獲得記録になっている。熱心に囲碁の研究に励み、頭の中で自分なりに考え抜くのが彼のスタイルで、あまりに熟考が過ぎて、横浜駅のホームから落ちたり、赤信号に気づかずに危うく車に轢かれそうになったりしたこともあるそうだ。

そんな藤沢さんの飲む、打つ、買うは半端ではない。酒は日中から飲む。2時間飲まないとまた飲みたくなる。一番飲んだ30代のときは日にウイスキーボトルを2、3本空けた。当然、対局のある前日にも飲む。こうなると酒の失敗談にも事欠かない。先日、SMAP草なぎ君の公然わいせつ騒動があったが、こんなのはまだかわいいほうで、藤沢さんは全国各地の警察に「お世話に」なっている。たとえば、代々木では、全裸で酔っ払ったところを捕まり、何度も「牢屋」で過ごしている。警察のほうも慣れていて「またか」という感じだっそうだ。

打つのは競輪、競馬。例えば競輪を例にとると、勝っても負けても、有り金全部を最終レースに賭ける。したがって、すべての勝負は最終レースにかかるわけだ。今から30年以上も前のこと、有り金62万円を全部最終レースで一点買いしたら、これが的中して422万円になった。貨幣価値を考えると、当時の422万円は今なら1千万円以上するに違いない。だが、勝った例は稀なようで、負けが込んだときは生活費にも手をつける始末で、日本棋院から対局料の前借りをして生活費を工面したこともあるという。

藤沢さんには妻も子供もいたが、愛人宅に入り浸り、自分の家には3年間も帰らなかった。その愛人も一人ではなかったらしい。

こうして見てみると、藤沢さんは平たく言えば「よく学び、よく遊ぶ」人だったのではないかと思う。ちなみに、これらの話は藤沢さんが80歳のときに書かれた『野垂れ死に』という本に書いてある。藤沢さんが何か書けと言われたときに書いた言葉は「無悟」という言葉で、これは藤沢さんの造語だそうだ。意味は「自分には碁のことも、競輪のことも、女性のことも、人生のことは何もわからない」ということだそうだ。

藤沢さんの生き方を知ると、自分の生き方は「そこそこ学び、そこそこ遊ぶ」という実にスケールの小さいものに見えてくる。天才だけが「よく学び、よく遊ぶ」人になれのではないか、そんな気がする。

密約より、男女の下半身問題に興味アリです。 [BOOKS]

IMG_0120.JPG仕事で釧路に行ってきた。桜がようやく先週開花したらしいが、それでも朝晩はまだ寒い。仕事を終え夜、居酒屋で熱燗をやる。2合くらい飲むと身体が温まってくる。毛蟹、時知らず(鮭)、牡蠣のしゃぶしゃぶなどに舌鼓を打ち、ほろ酔い気分で店を出ると寒風が容赦なく襲いかかり、身体が一気に冷える。冷えた身体を温めようと次の赤提灯を目指す。これを繰り返すと、一晩で3~5軒酒場の暖簾をくぐることになる。昨日もこのパターンになり、ホテルに戻ったのが午前2時。朝起きると身体の節々が痛く、顔は赤く腫れている。二日酔いのまま丹頂釧路空港に向かい、東京行きのANA便になんとか乗り込んだ。

さて,山崎豊子『運命の人』(全4巻)の刊行がスタートした。これは俗に言う「外務省機密漏洩事件」に材を取ったものだ。日本にとって念願であった沖縄返還。その交渉にあたって、本来アメリカが支払うべき基地処理費用400万ドルを日本政府が肩代わりする「密約」が存在したのではないかとして、これが大きな政治問題になる。ところが、この政治問題はやがて、「密約」の存在を掴んだ新聞記者とその情報を漏らしたとされる外務省の女性事務官との男女問題に巧妙にすり替わっていく。新聞記者と外務省女性事務官が「ひそかに情を通じて」明らかにされた「密約」の存在。報道の自由とは何か、本当に裁かれるべきは誰なのか。沖縄返還の原点がこの事件にはある。

澤地久枝『密約 外務省機密漏洩事件』は今から30年以上前に書かれたルポルタージュである。これを読むと本事件の経過がよくわかる(岩波現代文庫)。これは私の印象であるが、機密情報を漏えいした外務省女性事務官よりも、「ひそかに情を通じ、これを利用して」女性から機密情報を入手していた新聞記者のほうが悪い、澤地さんは心情的にそう思っているような気がする。もう一つは、あるときから「密約」問題は男女の下半身問題にすり替わってしまったが、本来追求されるべきは政府ではなかったのか、国民は男女の下半身問題に興味をそそられてしまい、政府を追及することを忘れてしまったのではないか、そう澤地さんは指摘する。

この本によると、事件が男女問題に移ったとき、テレビ、週刊誌などのマスコミはこぞって新聞記者と外務省女性事務官の不倫スキャンダルを取り上げたことがわかる。いつの時代も大衆というのは実に俗物的なものである。私もかなり俗物的な人間である。少し話がそれるが、学生時代、当時付き合っていた彼女から「○○君って、俗物的ね」と言われ、私は落ち込むと同時に、何かバカにされたような気になり彼女に対して頭にきたことがあった。そのときの私には、俗物的という言葉は「無思想」「低俗」「いい加減」とイコールだった。その後社会人になり、私は考え方を改めた。俗物的であることを否定するのではなく、逆に積極的に俗物的になろうと改めたのである。そういう意味で私は正々堂々、愚かな大衆の一員なのである。

山崎豊子さんは『運命の人』を作家として最後の作品にすると言っているらしい。本当なら大変残念である。

写真は、釧路幣舞橋の立つ裸婦像。「春」の裸婦像であるが、この時期、寒風に立つ裸婦はほんとうに寒そうである。

新宿は、性のカルチェ・ラタン(解放区)に? [BOOKS]

DSC_0009.JPGバラエティー番組を朝から観ていたら、芸能界でアラフォー結婚が続いていると騒いでいた。女優、永作博美は38歳で、結婚する映像作家の男性は39歳だそうだ。誰が何歳で結婚しようが構わないが、それにしてもそんなに騒ぐことなのかと思う。永作博美のことはよく知らないということもあるが、それよりも私が興味を持ったのは彼女の結婚相手のほうだ。39歳で3回目の結婚というのはどう考えても普通ではない。何か秘密がある。49歳で結婚経験のない私も普通ではないかもしれないが、それにしても、彼には何か秘密がある。

さて、ゴールデンウィークも終盤を迎えたが、東京はこれから天気が崩れ、明日、明後日と雨が降るらしい。雨の日の外出は嫌いなので、家で本でも読むことにしようと思い、久しぶりに神田古書街に行ってきた(写真)。神田といえば本の街、食の街、スポーツの街、学生の街など、いろいろと思い浮かぶ。JRや地下鉄の駅も揃っていて、交通の便は極めてよい。以前会社の引っ越しを考えたとき、神田は有力候補の一つだったが、そのときたまたまいい物件がなくて今の築地に移った。

今でこそ神田は平和な街であるが、今から40年前、神田界隈は学生運動の巣窟だった。明治大学、日本大学、中央大学(後に八王子に移転)などの学生が「神田を日本の解放区(カルチェ・ラタン)に」と叫びながらデモを行い、機動隊と衝突したのである。この運動は1968年5月にパリで起きた5月革命(学生を中心にした反体制運動)の影響を受けたもので、大学を占拠して学生による自主管理を行う「解放区」を作ろう、を合言葉に広がった日本のカルチェ・ラタン闘争は何を隠そう、ここ神田で繰り広げられたのである。

新谷のり子さんの「フランシーヌの場合」というヒット曲がある。私と同じ年代の方ならご存知だと思うが、カルチェ・ラタン闘争があった当時、欧米では若者を中心にベトナム反戦運動の気運も高まっていた。そんななか、1969年3月30日、当時30歳だったフランス人女性、フランシーヌ・ルコントさんがベトナム反戦を訴え、パリで焼身自殺する事件が起きた。反戦運動の闘士でもあった新谷さんはこの衝撃な事件を受け、同年6月にこの曲を世に問うことにしたのである。

さて、最近完全にメタボ状態なので、今日は少し運動でもしようと思い、三省堂で本を買ってその後近くの喫茶店で紅茶を飲んでから(一緒にチーズケーキを食べてしまった。これがいけない)、地下鉄新宿線の神保町駅から地下鉄銀座線の三越前駅まで歩いてみることにした。汗をかきながら結局小一時間かかったが、いい運動になった。地図なんかもちろん持っていないので、基本的に勘に頼りながら歩いたのであるが、気づいたことが一つあった。それは、ある程度大きな交差点に来ると必ずといっていいほど「住居表示」があることである。こんな親切な国は、多分、日本だけかもしれない。これを見ながら2、3回軌道修正はしたが、なんとか三越前駅まで到達することができた。

男は黙って、釈由美子? [BOOKS]

Shaku_Yumiko[www_japan--world_net].jpg体調不良なので今夜は酒場には行かず、家でゴロゴロしている。昨夜も午後5時半から飲み始め、家に戻ったのが午前2時過ぎ(だと思う)。「もう勘弁してくれ」と内臓のほうも悲鳴を上げているに違いない。それでも来週にはまた酒を飲んでいることであろう。「わかっちゃいるけど止められない」、酒は私にとってはそういう存在らしい。

さて、高橋秀実さんの『トラウマの国ニッポン』という本に面白いことが書いてある。人事院というところが「公務員研修教材」を公務員向けに作っている。そのなかにある面談マニュアルには「面談中にユーモアなどを適切に入れ、面談中の雰囲気をやわらげるように努力する」「面白い話題で相手の注意をひくようにすることが大切」などと書かれているらしい。要するに、公務員は誰かと面談するときはユーモアを交えて面白く話をするように心がけなさい、そう教育されているということだ。

そんなこと言っても、公務員になるまで面白くなかった人が、心がけを変えただけでユーモアのある面白い人に急に変身するとは考えにくい、というより無理だろうと思う。真面目で無口な公務員がつまらないギャグなんか喋ると相手は白けてしまい、かえって逆効果になる。面白い話をしろといっても、普段から真面目で平々凡々な生活だけを送っていれば、面白い話なんかできっこない。ユーモアのセンスとか面白い話をできる能力というのは多分、その人が生来的に身につけているものだろう。

無骨で無口な高倉健さんは映画ではほとんど冗談なんか言わないし、人を笑わせるような話もしない。想像であるが、私生活でも同じなのではないだろうか。だからと言って、彼はコミュニケーションが取れないのかと言えば、決してそんなことはない。彼の重厚な存在感とか、喋ったときの言葉の重み、そのようなものが相手側にズシリと伝わる。百の軽い言葉よりも、一つの重い言葉がコミュニケーションでは肝心なのではないだろうか。そういえば、ビールのコマーシャルで三船敏郎が「男は黙ってサッポロビール」と一言で決める、そんなコピーが昔あった。前置きも講釈もない、奥さんはいつもするようにサッポロビールを夫の前に差し出す、夫は黙ってそれをグクッと飲む、そんな夫婦の完全なコミュニケーションが目に浮かぶ。

フジテレビで婚カツに関するドラマを今度やるらしい。いつかそうなるだろうと思っていたが、やはりフジがやるらしい。写真はこのドラマに出演する釈由美子。私、かなり彼女のファンです。

侍ジャパンの次はサムライ札、これが日本を救う。 [BOOKS]

IMG_0063.JPG日銀の短観が発表されたが、予想通り、景気は最悪というものだった。今後のことについては、年前半は厳しい状況が続くが、年後半は明るさも見えてくるのではないか、そんな予想というよりそうなってほしいという願いのようなものになっていた。景気浮揚策の決め手は何なのか、誰もわからないのかもしれないが、今日の産経は、政府紙幣の発行を改めて主張する記事を掲載した。

WBCで優勝した「侍ジャパン」にちなみ、「サムライ札」という紙幣を政府は発行したらどうか、それが産経の提案だ。以前私も、政府紙幣の発行を思い切ってやってみたらと書いたが、悪性インフレになるのではないかという疑問に対して記事は、アメリカや明治時代の日本の例を検証し、あまり気にする必要はない、デメリットを大きく上回るメリットがあるとして、「サムライ札」発行の意義を強調している。百年に一度が二百年に一度かは知らないが、とにかくみんなお金のことで相当の苦労しているのは事実なのであるから、「サムライ札」、やってみたらどうか。

さて、先日、徳島出身の会社OBと話をしていたら、四国は四つしか県がないが、高知の人は他の三県の人と明らかに違うと言っていた。どう違うのかというと、一言で言えば、負けん気が強い、権力にこびへつらわない、ということらしい。その高知出身の漫画家、西原理恵子さんが著した『この世で一番大事な「カネ」の話』は面白い。

人生は金ではない、と理想論を掲げるわけでなく、かといって、人生は金だ、そう割り切ることもしない。西原さんのカネに対する基本スタンスはそういうことではないかと私は理解した。高知の小さな貧しい漁師町で育った西原さんは、貧乏の悲惨さを目の当たりにする。家庭ではささいなことでケンカになったり、子供たちは不良になって社会からドロップアウトしたり、町には暴力が絶えなかったり、社会が歪む。西原さんは、貧乏は病気である、それも治ることのない不治の病だと話す。

持ち前のガッツで自分の漫画を自ら売り込み、24歳にして漫画家としてデヴューする西原さんであるが、「彼女にはもともと才能があったから」と思う人がいるかもしれないが、彼女によれば、才能というのは天賦のものではなく、選り好みせずに仕事をこなしているうちに、自分の力が出せる仕事を周囲が自然と教えてくれるようになる、そういうものではないかと言っている。ちなみに、彼女の最初の仕事はエロ本の挿絵だった。

自分に向いた仕事なんて最初からあるわけではなく、与えられた仕事を淡々とこなしていくうちに、自分の力が発揮できる仕事が見つかってくる。今日、私の会社にも新入社員が2名入社したが、彼らにはこの言葉を贈りたいと私は思う。

貧乏でお金がなくなると、人は追い詰められ、自ら命を落とすことだってある、そう西原さんは書いているが、今の世の中、自ら命を落とすだけではなく、自分以外の人間の命をも脅かす事件も多発している。金がすべてではないと私も思うが、貧困者をいつまでも放置すると社会が暗くなり、犯罪も多発する。サムライ札でも何でも発行して景気を回復させ、みんなが少しずつ豊かになるようにしないと、社会がいつまでもいびつになってしまう。

さて、今日は札幌。ススキノ(写真)で一杯やった。飲んで飲んで、死にそうだ。本当にいつか倒れそうだ。

浅丘ルリ子の裸体図、景気回復につながってくれれば。 [BOOKS]

y2aff.jpg今日は一日中家にひきこもり状態。風があまりに強くて外出する気になれない。こんなときは、パソコン、テレビ、本という三種の神器があれば私は事足りる。さて、不況が長引いていてなんとなく日本全体が暗く低空飛行している感じであるが、久々にスカッとする明るいニュースが飛び込んできた。「麗子像」で知られる洋画家、岸田劉生の静物画が1億3千5百万円で落札された。オークション会社によると、世界同時不況以降、1億円を超える落札額は初めてだそうだ。景気のいい話とはまさにこのことだ。

美術市場は景気のバロメーターの一つだ。バブルのときは多少行き過ぎた感もあったが、この不況下、これを契機に美術市場が活気づき、その流れを受けて株式市場、不動産市場が上向き、ひいては日本経済が復調する、そういったシナリオだってありうるわけだ。経済の浮き沈みは、経済政策の成功とか失敗とか、決してそういう大袈裟なことの結果として起こるのではなく、今回の落札劇のように、現在の世の中のムードをちょっとだけ変えるようなささいな出来事がきっかけになって起こることのほうが多いような気がする。

美術といえば、現代美術の奇才、横尾忠則さんの『病気の神様』という本を読んでいろいろ感心した。知らなかったが、横尾さんは、頭のテッペンから足のつま先まで、身体のあらゆる部位の病気を体験した病気のデパートのような人だ。それも、最近そうなったわけではなく、若い時からそうだった。また、病気だけではなく、何度も交通事故に遭遇しムチ打ち症などにもなっている。

本から、面白い話を一つ。ムチ打ち症で神奈川県のある病院に入院したとき、病室の白い壁がキャンバスに見え、何か描かなければいけないという強迫観念に襲われた。とりあえず横尾さんは、家から自分のポスターを持ってきて壁全体をそのポスターで埋めた。あるとき、精神科の医師がやってきて「親戚に精神病患者はおられませんか」と聞いた。病室での簡単な質問が終わると今度は、精神科専門のフロアーに来るように言われた。どうやら病院側は、横尾さんの前衛的な美術ポスターを観て、この人は精神異常者ではないかと思ったらしいのだ。結局その「嫌疑」は晴れ、後日その精神科の先生が再び病室にやって来て「少し変わっているほうが、芸術作品が生まれるんでしょうね」と横尾さんに言ったという。

医者がなんと言おうが、自分は好きな酒を飲む、暴飲暴食をする、いつ死んでも構わない、芸術の天才はそういう人ばかりだと思っていたが、横尾さんはこれとは違った。酒は飲まない、タバコは吸わない、グルメでもない、7時間睡眠を目指している、貝原益軒の『養生訓』が愛読書である等々、普通の人以上に「健全」なのだ。そういった彼が数々の病気体験を通じて感じてきた「生と死」、「心と身体」に関することで、私が一番感心したのは次の言葉だ。

「人間の身体というのはおかしなもので、心の思うように身体が従ってしまう。だから本当は心のほうが身体の都合に従うべきと思う。」。心(脳と言ってもいい)と身体の話をするとき、一般的には、心は心、身体は身体というように、心と身体は別のもののように捉える。でも本当はそんなにはっきり分けることはできないのじゃないか、普段から私はそう思っていた。「病(=身体)は気(=心)から」、「健全な精神(=心)は健全な肉体(=身体)に宿る」などの言葉があるように、卵が先かニワトリが先かの話ではないが、心と身体というのは、どちらが先か後かとか、どちらが表か裏かとか、そういう関係には立つものではない、そんなことを横尾さんも言いたかったのではないだろうか。

さて、冒頭のポスターは横尾画伯による、浅丘ルリ子の裸体図。片足を切断するかもしれない、そんな深刻な事態があったとき、見舞にきた高倉健さんと浅丘ルリ子さんが病室で鉢合わせになったことがあるらしい。

野球WBC、ベースボールと野球、違いますか? [BOOKS]

00000001.JPG23日月曜日、WBCの準決勝で日本はアメリカと対戦することになった。優勝まであと2戦。なんとか二連覇を果たしてもらいたい。昨日、韓国との試合終了後、アメリカとの対戦を前にして原監督が「野球の母国アメリカと対戦できることに興奮している」と記者会見でコメントしていた。なんでも、原監督は小さい頃「ベーブ・ルース物語」を図書館で読んで以来、ベースボールの母国アメリカに憧れていたのだそうだ(アメリカ人記者向けのリップサービスもあったかもしれない)。

今朝テレビを観ていたら、メジャーリーグに詳しいある専門家が必ず準決勝では日本が勝つと嬉しい予想した後、「月曜日は、ベースボールと野球の対決になります」と締めくくりのコメントをした。「やっぱりこのコメントが出たか」と私は思った。

ベースボールと野球は何が違うのだろうか。作家、佐山和夫さんの『日本野球はなぜベースボールを超えたのか 「フェアネス」と「武士道」』を読むとそのへんの違いが少しわかる。まず野球という言葉であるが、これは明治27年、中馬庚(かなえ)という人がベースボールの訳語として付けたものだ。そこから遡ること22年前の明治5年、アメリカ人のホーレンス・ウィルソンが一高(今の東大)にベースボールを日本で初めて紹介したとされる。

明治29年、初めての国際試合が横浜で行われた。日本は一高野球部(日本野球の黎明期は学生野球部が中心)、対戦相手は横浜外人(アメリカ人)倶楽部。結果は29-4でなんと一高が圧勝した。つまり、歴史上初めての日米野球対決は日本が勝利していたのだ。この試合で横浜外人倶楽部は「隠し玉」というトリック・プレーを連発して日本からアウトを取った。これに対して日本は試合後、公平にプレーを裁いてくれたとして、アメリカ人審判に感謝の意を表している。佐山氏はこの試合に日米野球の違いが、はからずも出ていると指摘する。

アメリカのベースボールは1840年代が創生期で、その後50年代に入り大衆化と商業化が一気に進む。この頃からベースボールは単なるゲームから賭けの対象になり、イカサマや八百長が普通になり、へースボールが「腐敗」する。これに対して日本の野球は、その黎明期から徹底したフェアネスの精神を貫いてきた。それは、日本において野球は教育の一環として学生野球が長くその中心にあったことが大きい。その後日本でもプロの野球チームが誕生するが、そこにおいても学生野球のフェアネス精神、アマチュア精神が貫かれた、佐山氏はそうみている。

かなり大雑把かもしれないが、ベースボール=勝つために何でもありの賭けゲーム、野球=フェアネス精神のスポーツ、そう整理できるかもしれない。そして佐山氏は、すでに野球はベースボールを超えている、そうこの本で言いたかったようだ。

まあ、ベースボールと野球の違いとかいろいろ理屈があるかもしれないが、正々堂々とアメリカと戦って勝利することを私は願っている。

ここでちょっと情報ですが、ブログ仲間で、いつもコメントを頂いている名古屋在住の美人日本画家、蝶々さんの『花と仏』~蝶野麗子の世界~と題する個展が来月名古屋で開催されますので、ご都合のつく方は是非足を運んでみてください。蝶々さんの強烈なキャラクターにも触れることができると思います(http://40744783.at.webry.info/)。

東京で今日桜が開花した。でも明日は天気が崩れるらしい。今日は本当にいい陽気で、コートを脱ぎ、ブルゾン(ジャンパー)を着て新宿に出かけた。新宿駅東口、スタジオアルタ前は午後3時を過ぎても陽射しが強く、なかには半袖で歩いている人も見かけた(写真)。

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