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「好きな男の腕の中でも 違う男の夢を見る」、男もです。 [BOOKS]

belle-au-bois.gif  昨夜も小雨の銀座で飲んでしまった。これで二日レンチャンの銀座飲み会となったわけだが、銀座で飲む機会がこのように多いのは、会社が現在築地にあって銀座が近いという理由が一番大きい。実は来月、会社が上野に移転する。そうなると、銀座に来る機会は多少は減るかもしれないが、銀座線を使えば15分程度で銀座に出られるので、引き続き銀座で飲むことにはなると思う。ということで、私のブログタイトル「銀座、新宿の夜は更けてⅡ」は変更せず、「上野・浅草」を新しいカテゴリーとして追加しようと考えいる。

で、酒ばかり飲んでいるとクルクルパーになってしまうかもしれいので、今日は祝日ということもあり、久しぶりに本を読むことにした。その本の話をする前に、イントロとして歌謡曲の話を一つ。レコード大賞を受賞したジュディ・オングの「魅せられて」に次のような一節があることをご存知の方は多いと思う。
♪ 好きな男の腕の中でも 違う男の夢を見る
この一節にドキッとした男性も多かったと思う。でも、当時18歳だった私は「そんなもんかなあ」くらいにしか思わなかった。

今日は川端康成の『山の音』と『眠れる美女』を読んだ。ともに、62歳と67歳の老人が主人公である(今だったらこの年齢では「老人」と呼ばないかもしれないが)。

『山の音』の主人公・信吾は62歳。信吾には妻の保子と息子の修一、娘の房子がいるが、修一は結婚後浮気をして家に帰らなかったり、娘の房子は二人の子供を連れて出戻りするなど、家族になかなか明るい話題がなかった。信吾は実は、妻である保子の姉にずっとあこがれていて、彼女の面影をいつまでも忘れることができず、信吾のその思いは、息子・修一の妻、菊子に向けられる。もし自分の人生をやり直せるなら、自分は処女の菊子、つまり修一と結婚する前の菊子を愛したのではあるまいか、そんなふうにまで信吾は考えるようになる。

「山の音」とは死期を告知する地底の響きというイメージであるが、この小説は人間の生きることのかなしさとか、老いてもなお衰えることのない情念(パトス)のようなものを描いていると思う。ジュディ・オングの、好きな男性と抱き合いながら、違う男性の夢を見るのは女性だけの専売特許ではなく、男性だって同じようなことをしているかもしれない。

さて、『山の音』の後半に、酔った信吾が若い芸者としけこむシーンがある。「信吾はなにもしなかった。いつのまにか、女は信吾の胸にやさしく顔をすり寄せて来た。媚びるのかと思って見ると、女は寝入ったようだった。信吾はほほ笑んだ。胸に頭をつけて、すやすや眠っている子に、信吾は温かいなぐさめを感じた。」。

全裸で眠る若い少女に添い寝する老人の姿を描いたのが『眠れる美女』である。この小説の主人公は67歳の江口老人。性的には不能になった老人たちが、睡眠薬を飲まされて眠る少女と一晩中添い寝ができる秘密の家を知り合いの老人から紹介され、江口老人も何度かその家を訪れる。

眠れる美女を前にすると老人たちは「近づく死の恐怖」「失った青春の哀絶」「おのれがおかして来た背徳の悔恨」などを、羞恥心を感じることなく、そして自尊心も傷つけられることなく、まったく自由に悔い、そして全く自由に悲しむことができる。してみると、眠れる美女は、老人たちにとって生きた仏のような存在になっていると言える。

『山の音』も『眠れる美女』も、「老い」「老境」といったものがテーマになっている。どちらの作品も全体的に暗く、そして悲しいトーンで貫かれているが、見方を変えると、すべての人間にあてはまる普遍的で、人間的なことがらが描き出されているように感じる。

写真はディズニー「眠れる森の美女」。

あなた、ちょっといい女、でもズルい女、嫌い。 [BOOKS]

se-k-051-01.jpg♪Bye-Byeありがとう さようなら 愛しい恋人よ
あんたちょっといい女だったよ だけどズルい女

お馴染み、シャ乱Qの「ズルい女」の一節である。ちょっといい女でも、ズルい女は嫌だ、どんなにイケメンの男でも、ズルい男は嫌だ、なんとなくわかる気がするけど皆さん如何だろうか。

どういう人間が好きかと聞かれると即答できないが、どんな人間が嫌いかと聞かれると即答できる人は多いような気がする。思うに、「ズルい人間」、「卑怯な人間」、こういう人間を私たちは最も嫌うのではないだろうか。

ベストセラー『国家の品格』の著者である藤原正彦さんは、子供向けに書かれた『心に太陽を 唇に歌を』という本で自身の子供時代の話を例に挙げながら、「卑怯な人間になるな」と子供たちに説いている。彼の父で作家でもあった新田次郎氏は、卑怯な行為として次の五つのことを藤原氏に厳禁したそうである。1.大勢で一人を殴ること、2.大きな者が小さな者を殴ること、3.男が女を殴ること、4.武器を用いること、そして、5.相手が謝ったり泣いてもなお殴ることの五つである。要するに、平たく言えば、弱い者いじめをするなということであろう。

夕方テレビを観ていたら、一昨日引退を表明した朝青龍をハワイまで追跡する様子が放送されていた。引退まで追い込まれた彼のこれまでの言動は非難されるべきものは確かにあると思うが、引退という最も重いケジメを彼はつけたわけだから、もう放っておいたらいいのではないだろうか。上述の新田次郎氏の教えに従えば、このテレビ局の行為は「5.相手が謝ったり泣いてもなお殴ること」、正にこれに該当するのではないかと思う。

死人に鞭を打たない、これは日本人の誇るべき道徳観だと思う。世間の前で文字通り「謝り」そして「泣いた」朝青龍はいわば「死人」同然なのである。その「死人」に対していつまでも「鞭を打とう」とする一部マスコミの姿勢に、無神経と気味の悪いものを私は感じる。

さて、昨日は新宿二丁目で寒ぶりのしゃぶしゃぶ鍋というのを頂いた。時節柄、鍋はいい。北海道の鍋と言えば、もちろん石狩鍋(写真)。ぶつ切りにした鮭と野菜を味噌仕立ての汁で煮込んで頂く。そういえば、石狩鍋、しばらく食べてないなあ。今月22日に札幌に行くことになったので、久しぶりに石狩鍋食べて温まってこよう。

幸せってなんだっけ、なんだっけ、それは、とりあえずこれでいいかと思うこと。 [BOOKS]

DSC_0161.JPG新宿のビックカメラで、新しいデジカメを買ってきた。今使っているキャノンのデジカメも十分使えるが、ずっと使っているとどうしても飽きがくる。使えるのに新しいデジカメを買うことは贅沢なことかもしれないが、思い切って買うことにした。

何度もここで書いてきたが、飽きる、というのは人間のもっとも基本的な性質のような気がする。多少話は飛躍するかもしれないが、不況で国民は摂生生活を続けているが、忍耐生活にも限度があって、どこかで欲求不満が爆発するのではないかと思う。

今の時代をどう生き残っていくべきなのか、精神科医の香山リカさんが著した『しがみつかない生き方』はいい処方箋になるような気がする。香山さんはこの本で、自己啓発本なんかに踊らされないこと、高望みをせず、とりあえずこんな感じていいじゃないかと思ってそこそこの幸せで満足すること、そんなことをアドバイスしている。

香山さんはこの本の最後で、ベストセラーを連発している勝間和代さんを痛烈に批判している。ご存知のように勝間さんは、「努力をすれば必ず成功する」式の自己啓発本をたくさん書いているが、その本どおりに人生を変えられる人はほとんどいないと香山さんは指摘する。私もまったく同感で、香山さんと同じような批判をすでに1年半前にここで書いていた(http://karubi53.blog.so-net.ne.jp/2008-05-29、文中「売れっ子の主婦評論家」というのが勝間さんのこと)。

さて、この本から面白い話を一つ。1990年代、香山さんの診察室には、普通の幸せを手に入れているのに「もっと自分は幸せになれるはず」と、客観的な幸せと主観的な幸せのズレに悩む患者が多く訪れた。2000年代に入ると、とりあえず普通の幸せを手に入れたが、この幸せは一体いつまで続くのだろう、そんな不安を相談しに来る患者が増えた。そして現代、香山さんの診察室には、どうしたら普通の幸せを手に入れられるのか、一体幸せってなんなのですか、そんな訴えをする患者が来るようになったという。

明石家さんまのテレビコマーシャルではないが「幸せってなんだっけ、なんだっけ」と、幸せの意味を考え始めている人が増えているということらしい。そういう時代は不幸な時代に違いない。経済がどんどん発展していた「三丁目の夕日」の時代には、幸福の意味なんて考える必要がなかったろうし、そんな暇もなかったに違いない。昨日、ヤフーニュースを見ていたら、新成人の8割が、これからの日本の将来は暗いと答えたそうだ。何とも悲惨な状況ではないか。政治に期待できない今、我々はちょっとした工夫と忍耐力を持って、嵐の過ぎるのを待つしかないようだ。

写真は新宿駅西口のあるユニクロ。デフレ経済の象徴とされるユニクロであるが、消費者は助かっていることも事実である。

40代男性の皆さん、包容力があってセックスが上手ですか? [BOOKS]

200906240906376e6.jpgこのところ、芸能界やスポーツ界は熱愛、結婚ラッシュである。先日、東山紀之さんと木村佳乃さんの熱愛報道があったばかりであるが、昨日、スピードスケートの清水宏保選手とモデルの高垣麗子さん(写真)の結婚が報道された。高垣さんのことは知らなかったが、写真を見ると本当に美人だ。

ところで、一頃世間を騒がせた女優の沢尻エリカさんと映像クリエーターの高城剛さんの結婚、そして、ダウンタウンの松本人志さんと20代女性の結婚にはある共通点があるのだが、おわかりだろうか。それは、ともに男性が40代、女性が20代の結婚だということだ。

電通の大屋洋子さんが著した『いま20代女性はなぜ40代男性に惹かれるのか』によると、40代男性に20代女性が惹かれるのにはそれなりの理由があるという。20代女性は個性尊重という社会風潮のなかで「あなたはあなたのままでいい」と言われ自由に育った世代であるが、結果がどうなったかといえば、皮肉なことに没個性的で自分自身に自信を持てない人が多く現れることになった。

一方、40代男性はどうかといえば、バブルを経験したこともあって遊び心があり、総じて仕事もできる。ただ、会社では大切なポストに就いていることからストレスは多く、いつも安らぎを求めている。しかしながら、この世代の男性には日本男児気質というものがまだ残っているため、たとえ辛いことがあってもめったに愚痴は言わない。

そんな20代女性と40代男性。実際に40代男性と付き合っている20代女性に男性のどういうところに惹かれるのか聞いてみると「包容力がある」「尊敬できる」「生活力がある」という意見が多く、厳しく叱ってくれるところも魅力の一つだという。セックスも重要なポイントで、男の色気を出しながら、独りよがりではないセックスは20代男性には望めない部分だという。要するに、40代男性はしっかりしていて、セックスが上手いということらしい(私もかろうじて40代であるが、私には当てはまっていないように思う)。

これらの話はマーケッティングのプロが調査したものだから嘘はないかもしれないが、飽くまでも「傾向値」だと理解するべきだと思う。

さて、今の20代「草食男子」は、女性にもてたいという気持ちが希薄だと大屋さんは指摘している。だから、お金を貯めてかっこいい車も買うことをしない。必要があれば電車やバスを利用すればいいと思っている。作家の開高健は昔「女を飾るために男は泥まみれになる」と言ったが、以前のように宝飾品などを女性にプレゼントしたり、食事の場所に気を遣ったりすることに今の「草食男子」は関心がないのかもしれない。



100グラム100円のステーキが国産和牛に勝利するとき。 [BOOKS]

IMG_0367.JPG税務調査が先週あり、その対応をしてくれた部下の慰労会を昨日銀座でやった(写真)。お店のほうは任せるからと言ったら、案の定、焼肉屋になった。美味しそうなホルモンがたくさんあったので、私も好物のマルチョウ(丸腸)を注文した。ダイエット終了後緊張感がなくなってしまい、このところ肉と酒の日々が続いている。

メニューに一人前2200円の「絶品カルビ」というのがあって、部下の手前少し格好つけて2人前注文してみた。なるほど適度にサシが入っていて肉質が柔らかくて美味しかった。今私がしたこのコメント、グルメ番組で高級な焼肉を食べたときにするグルメレポーターのコメントを真似てみたのだが、そもそも肉の柔らかさと美味しさの間には相関関係はないということを、友里征耶(ともさとゆうり)さんという方が『グルメの嘘』という本で書いている。

友里さんは、確かに人工的に作り出したサシが入っている和牛も美味しいが、硬くて不味いといわれるアメリカ牛のなかにあって、アンガス牛は硬くても肉本来の美味しさがあると指摘している。友里さんはこの本で「世の料理評論家、グルメ・ライター、グルメ雑誌記者、マスコミ関係者などは、本当は美味くもない料理を無理やり美味いと言って、一般人を騙している」ということを主に書いている。

以前、こんなテレビ番組があった。テーブルに1本500円のワインと1本数万円のワインがそれぞれグラスに入っている。それを、グルメを自認する芸能人が目隠しをして飲み、どちらが1本数万円のワインか当てるという番組だ。ワインと同様、100グラム100円の牛肉と100グラム数千円する国産和牛のステーキを食べて、どちらが国産和牛かを当てるというのもあった。結果は驚いたことに、半数以上の芸能人が安いほうのワインと牛肉を選んでしまったのだ。

人間の舌というのは実にいい加減なものだとこのとき思った。1本500円のワインでも、有名シェフやソムリエが「これは1本5万円のワインです」と言えば、「実にまろやかで美味しいワインですね」と思わずほとんどの人はコメントしてしまうものなのだ。人間は実に権威に弱い、そういうことも言えるかもしれない。

そういえば先月、私はある料理店でボジョレヌーボーをいただいた。ワインに興味がないので味はどうでもよかったが、一緒にいたある方が「今年のボジョレーは50年に一度の出来らしいね。だからきっと美味しいよ」と言っていたが、この段階で彼はもうボジョレヌーボー関係者の戦略にまんまとひっかかっていると言える。大体、ボジョレヌーボーを50年間飲み続け、かつ、それらを比較できる人はどこの誰なのだろうか。一般人、庶民というのは実に愚かなものだから「50年に一度の出来」と聞かされただけで興奮し、知ったかぶりをして伊勢丹あたりで一本買ってしまうのだ。

友里さんは反骨のライターで、タブーに切り込んでいこうとする姿勢は立派だと私は思うが、世の中、騙す人と騙される人がいるお陰で回っている部分というのもあるわけで、何でもかんでも物事を一刀両断にすることだけを声高に叫び続けると、世の中が窮屈になることもある、私はそんな感じもする。

牛丼1杯の牛肉、ここに来るまで2000リットルの水使いました。 [BOOKS]

IMG_0358.JPGさて、いきなり質問です。あなたは1日、どのくらい水を使っていると思いますか? 1リットル、10リットルそれとも100リットル。100リットルの水と言えば、最近見かけるようになった2リットル入りのミネラルウォーターのペットボトルで50本分。相当の量ですね。さて、正解は、375リットルです。

この使用量は世界で3番目に多く、第1位はご想像のとおりアメリカで575リットル、第2位はオーストラリアで495リットルだそうです。こうしてみると、思ったよりも人間は水を使っていますね。

それでは、日本人は、375リットルという水をどのような用途に使っているでしょうか。正解は、トイレ28%、風呂24%、炊事23%そして洗濯17%と続きます。世界一キレイ好きな国民らしい内容です。一方オーストラリアの場合を見てみると、何と80%が庭への散水だそうです。ちょっと驚きですね。

以上の話は、吉村和就(よしむら かずなり)さんが著した『水ビジネス-110兆円水市場の攻防』という本に書かれているものです。あまりにも身近な存在であるため普段関心を抱くことのない「水」の話を、水専門の第一人者である著者がやさしく教えてくれます。面白い話をこの本からもう一つ紹介させてもらいます。

牛丼を皆さんはお好きでしょうか。私は吉野家の牛丼特盛りに生卵をかけて食べるのが好きです。それはさておき、牛丼1杯に入っている牛肉が牛丼の肉として提供されるまでに、どのくらいの水が使われているかおわかりでしょうか。牛肉の場合、牛の飼料である穀物を育てることから始まり、その穀物を食べて牛が育ち、最終的に牛肉になるわけですが、その全プロセスを通して必要とされる水の量は、牛丼1杯の肉で実に2000リットルになるのだそうです。

このように、輸入されているモノ(上の場合で言えば牛肉)を作るために必要になるであろう水のことを「バーチャル・ウォーター」(仮想水)というのだそうです。上の例で言えば、牛丼1杯のバーチャル・ウォーターは2000リットルということになるわけです。少し言い方を換えると、牛丼一杯食べると海外から水2000リットル輸入し飲んでいることになるということです。

ちなみに、ハンバーガーのバーチャル・ウォーターは1000リットルだそうです。ですから、牛丼を半分残して捨てると1000リットルのバーチャル・ウォーターを、ハンバーガーを半分残して捨てると500リットルのバーチャル・ウォーターを無駄にしたことになるわけです。ですから、食べ物は残さず食べましょう、そういう教訓がでてくるわけです。

写真の雲。築地で撮ったものですが、ご存知のとおり雲は水と氷からできています。何かと嫌われ者の雲ですが、我々が生きていくために必要な雨(水)は雲が降らせてくれるのです。

新宿歌舞伎町、安心して酒が飲めますので、ご安心を。 [BOOKS]

DSC_0163.JPGこのところ酒太りだ。私の家には体重計がないので、痩せたか太ったかはパンツをはいたときにわかる。2年くらい前まで、パンツのウエストは88センチだった。今は90センチになっていて、このごろは90センチでも少しきつくなってきた。昨日久しぶりに会った新宿のバーのママさんから開口一番「少し体格よくなられました?」と言われたが、要は太ったように見えたのだろう。

酒を飲んで二日酔いになると、どうして自分は酒を飲むのだろうといつも自問自答する。銀座で飲み、新宿で飲み、中野で飲み、高円寺で飲み、北海道に行けば札幌や釧路で飲む。でも考えてみると、日本中どこにいても治安のことを気にせず安心して酒を飲めるというのはひょっとしたら画期的なことなのかもしれない。新宿歌舞伎町は治安が悪く、ぼったくりバーが多いと昔言われたが、今に決してそんなことはない。女性でも外国人観光客でも、朝までうろついていても身に危険を感じることはほとんどないと思う。

治安以外でも、外国人の目から見て日本が恵まれているというところはたくさんある。ベトナムのサイゴン(今のホーチミン市)に生まれ、日本に帰化して今は都内でクリニックを経営している武永賢さんが書いた『日本人が知らない幸福』という本を読むとそのことがよくわかる。武永さんはいわゆるボートピープルで、1982年、運良く日本に亡命することができた。恵まれた才能と努力、そして運も手伝って、彼は日本の大学の医学部に進学し、今は日本に住む外国人などの診療にあたっている。

さて、例えば水道水。美味しさの程度は別にして、日本では水道水を飲料水として飲むことができる。東京の水道水は正直あまり美味しいとは思わないが、私が生まれた釧路の水道水は冷たくて十分飲めた。一方ベトナムでは、水道水は一旦煮沸し、それから少し冷まして飲むのだそうだ。そんな面倒くさいこと、日本では必要ないわけだ。電気はベトナムにももちろんあるが、ときどき停電する。今から、十数年前、初めてベトナムの首都ハノイに行って市内のホテルに着いたら、館内が真っ暗で至るところにろうそくが立てられていた。聞くと、停電だという。でも、停電はしょっちゅうあることなので、しばらくすると電気が来るから心配しなくていいとフロントの人から言われ、唖然とした経験がある。

国民全員が健康保険に入れるというのはベトナムでは信じられないことらしい。あちらでは、医療費は全額患者負担であるから、お金がなければ医療を受けられない。日本に帰化し、晴れて日本国籍を取得した外国人患者が、誇らしげに健康保険証を武永さんに見せるという。武永さんは、こんなにいい制度のためなら喜んで税金を払いたいと言っている。

武永さんは、とてもバランス感覚のすぐれた方で、かつ、理想ばかりを追わない現実主義者でもある。それは、サイゴン陥落によって理不尽に国を追われてボートピープルとなり、厳しい現実と戦ってきた武永さんだからこと持ちえる感性、哲学のような気がする。この本のあとがきに、私がいつも言いたいと思っていることが実にうまく整理されて書かれているので、その部分を少し長いが引用させてもらう。

「わたしは「夢を追いかける」という言葉を正直なところ、嫌っている。自分に夢がない、という訳ではない。しかし夢があっても、早いうちから追いかけなかったことを今でも後悔していない。なぜなら、追いかけない分の時間を自分の本当の適性、自分の限界、などを見極めることに使えたと思うからである。テレビ、雑誌などでよく目にする「夢を追いかける」ストーリーは成功した物語ばかりである。成功した彼らの苦労は並大抵ではないはずだ。が、彼らの成功した要因は、苦労もあるだろうが、それより生まれつきの才能、そして運に恵まれたことだ。そんなことを言うと、それこそ夢がないと罵倒されそうだが、それが現実である。」。

私は、人間の運命は生まれたときにその80%は決まっていると思っていて、そのことはここでも何度か書いてきた。だからと言って努力は必要ないということではなく、残りの20%の範囲内で自分の身の丈に合った夢を目指して生きていこうというのが私の考え方だ。「人には分というのがある」ということも武永さんは書いているが、私も全く同感である。私の考え方は独善的なのかもしれないといつも思っていたので、この本を読んで正直、少し安堵した。

写真は今日の新宿。新宿は決して怖い街ではありません。

ヴィヨンの妻、酒浸りだけ私と一緒です。 [BOOKS]

DSC_0160.JPG根岸吉太郎監督の映画「ヴィヨンの妻」が国際的な映画祭で賞を受賞したというので、太宰治の原作を読み直してみようと思って文庫本を探したのであるが、結局見つからない。本棚という立派なものをこれまで私は持ったことがなく、今でも引越しのときに使ったダンボールの中にほとんどの本が納まっている。ダンボールは20箱以上あって、今回も一箱一箱中身を調べ始めたのであるが、途中でなんとなく馬鹿馬鹿しくなってきて、結局本屋で文庫本を買うことにした。

「ヴィヨンの妻」は酒に溺れ、女に溺れ、家庭をかえりみない放蕩詩人とその妻の話であるが、なかなか面白い。才能のない人間が単に酒や女に溺れるというのは絵にならないが、才能のある人間が酒や女に溺れて放蕩の限りを尽くすというの絵になるものだ。例えば、『火宅の人』を書いた檀一雄はこれに近いかもしれない。現代では伊集院静さんが候補の一人かもしれないが、ご本人は決してそう思っていないかもしれない。永井荷風もエロ作家と言われながら優れた作品を残した作家だと思うが、彼を尊敬して止まなかった佐藤春夫の『小説永井荷風伝』を読むと、荷風は結構計算高く、ケチな性分だったことがよくわかり、いい意味での天然さ、人間としての豪快さに欠けているような気がする。

さて、「ヴィヨンの妻」であるが、「妻」とある以上、主役は飲んだくれの放蕩詩人ではなく、飽くまでもその妻である。本の解説を読んでみたら、この本が何をいわんとした小説であるのか明確に書かれていなかった。それどころか「ヘンテコな小説」とあまり褒められていない。根岸監督がどんなテーマをイメージしながら映画化したのかわからないが、考えられるのは月並みだが「女性の包容力、生活力」というものではないだろうか。毎夜飲み歩き、妻以外の女性と関係を持ち、行きつけの飲み屋には多大の借金をするような男に愛想をつかすのが普通の妻だろうと思う。ましてや、夫が借金を作った飲み屋に女中として居つき、その店の人気者になってしまうという芸当は女性でなければできるものではない。

「ヴィヨンの妻」は太宰治晩年の作品であるが、最後の作品となった「人間失格」にしても、暗いとか、悲惨とかいう評価もあるが(作品というより、太宰治の生き方自体についてそう評価する人もいる)、私は必ずしもそうは思わない。酒を飲み、女に溺れ、借金をして家庭をかえりみないというのは馬鹿馬鹿しいことかもしれないが、どんな人にも滑稽で馬鹿馬鹿しいことは結構あるもので、放蕩詩人はそれを多少デフォルメされた形で語られたに過ぎず、決して暗くも、悲惨なことでもないように思う。

小説の最後に妻が「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」と語るが、これは実に意味深である。死に方をいつも考えていたとされる太宰治であるが、本当は何としても生きていきたかったのかもしれない。

さて、昨日は浅草、銀座(写真)そして締めは新宿で飲んだ。家の着いたのは午前2時。ひたすら飲みまくった私のシルバーウィークでした。

運命の人、赤い糸イデオロギー、婚活の障害です。 [BOOKS]

IMG_0291.JPG雑誌「新潮45」の今月号で神戸女学院大学教授の内田樹(たつる)さんが「婚活」について面白いことを書いている。婚活ビジネスが流行るのは、いつか世界でたった一人の運命の人に出会えるという「赤い糸イデオロギー」を未婚者が鵜呑みにさせられているかだという。昔よくいた世話好きのおじさん、おばさんは決してそんな運命論に依拠してはいなかった。

「もうそろそろここで手を打ちなさい」「結婚なんか誰としても同じようなもの」、昔のおじさん、おばさんはそういう決めゼリフを持っていた。内田教授は、赤い糸で結ばれた運命の配偶者と生涯愛し合うことよりも、どんな人間と結婚してもそこそこ幸せになれる能力を育てる、そこに教育資源が投入されるべきだと指摘している。

なるほど、こういった「他者と共生する能力」というのは婚活ばかりではなく会社などの組織でも同じことが言える。毎日会社に来て私も、100%わがままに自分の主張を通せればどんなに愉快なことだろうと思う。もしそうなれば、ストレスだって発生しないに違いない。私の場合振り返ってみると、年を取るにつれ、自分の言いたいことをぐっとこらえ、相手に譲る割合がだんだん大きくなってきたように思う。

出る杭になれ、という言葉がある。確かに若いときにはそういうファイトは必要なのだろうけど、普通の人の場合、40歳を過ぎても出る杭ばかりやっていると、社会でうまくやっていけなくなる。天才は別にして、普通の人は(世の中の99%以上は普通の人だと思うが)そういう認識を持っておかないと、自分だけは特別だとか、自分だけが正しいといつまでも考えていると、社会の輪の中からはじき出されてしまう。

何となく夢も希望もない話のように聞こえるかもしれないが、世間は冷たく、現実は厳しいものだ。生活の知恵と思って、たまには自分を殺す、人に譲るということが肝心だと思う。

さて、今日は久しぶりに中野の名居酒屋「らんまん」に行った(写真)。お店の女性従業員の方が「お久しぶりですね」と言って岐阜の辛口「三千盛」の熱燗をお猪口に注いでくれた。ごぐっごくっと音を立てながら注がれるあの微妙な時間が何とも粋でエロチックだ。こういうデリカシーは洋酒では味わえない。ところで、この店のこはだ酢は本当に絶品だ。職人の技が光るという表現がぴったりくる。ここに来ると私はいつもいの一番にこはだ酢を注文する。

今週はこれで月曜日から三連荘。六本木・赤坂、上野、そして中野と飲み歩いている。どうしてこんなに毎日飲み歩いているのか、そんな自分がよくわからない。そして多分、明日も明後日もまたどこかで飲むに違いない。こんな不摂生を続けていると、きっとどこかで野垂れ死にするに違いない。もともと北海道の馬の骨。どこでどうなろうと、構わないのだが。

アンジャッシュから、エスケープしないように。 [BOOKS]

IMG_0234.JPG飲み会で午前様になるときは別にして、私は毎日午後11時前後に就寝する。小学生のときからの習慣で、ラジオを聴きながらベッド入る。最近は専らJ-WAVEの「PLATON」を聴いている。パーソナリティーはお笑いコンビ、アンジャッシュのツッコミ担当である渡部建である。

アンジュッシュのよく練り上げられたネタを私は気に入っている。お互いが勘違いしながら会話が進むのだが、表面上は不思議とコミュニケーションが成立しているところが面白い。渡部建はなかなかハンサムでいい。声もいいし、ラジオを聴いているとプロのアナウンサーのように喋りも上手い。

そんな渡部建が『エスケープ』という処女小説を発表した。この本、芸人が片手間に書いた本と侮ってはいけない。文章力もしっかりしているし、何よりもワクワク感があって並の小説より格段面白い。私は一気に読んでしまった。小説を読み進むうちに、途中からあることが判ってきた。それは、「勘違い」というアンジャッシュの基本的な芸風、コンセプトがこの小説にも踏襲されているということだ。

大学生の主人公シュウは、迫りくる就職、そして近い将来訪れるであろう彼女との結婚を考えると、平々凡々な自分の人生に物足りなさを感じる。あるときシュウは雑誌で、プロの空巣が教える成功する空巣のテクニック、そんな記事を目にする。シュウは彼女の友達でお金持ちであるフーちゃんの家に侵入するのであるが、そこには思わぬ事態が待ち受けている。最後の最後に用意された「オチ」も見事である。

さて、小説のなかで、主人公シュウが出身地を聞かれ、「北海道釧路市」と答える場面がある。釧路市出身の私もさすがに驚いたが、ちょっとだけ嬉しい感じもした。渡部さんは八王子出身で、公式ホームページの経歴を見ても北海道と縁があるようには思えない。どういう連想で釧路市が出てきたのか、是非聞いてみたいところである。それはさて置き、渡部建『エスケープ』、お薦めです。

さて、今日は仕事で札幌にやってきた。東京は朝からこぬか雨が降っていたが、北の大地は晴天、快適である。

写真は、昨日撮った新宿駅南口。お笑いライブの「ルミネtheよしもと」はここにある。

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