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タバコ増税、今後「ティファニーで朝食を」は観られなくなるかも? [映画]

audrey_hepburn_breakfast_at_tiffanys.jpgタバコの価格が上がるかもしれない。長妻大臣は当初「日本のタバコの価格は欧米に比べて著しく低い」としてタバコ増税を匂わせたが、その後「健康のために」増税することを検討するとして、タバコ増税の趣旨を修正した。増税後の価格は600円で、その後段階的に引き上げられるという話が出ている。私はタバコをやらないが、以前からタバコ増税については関心があった( http://karubi53.blog.so-net.ne.jp/2008-03-04 )。

そもそも論として、タバコという嗜好品をどう考えるかという問題がある(嗜好品ということから言えば、酒もこの話と同じような構図を持っている)。まず、「タバコは健康によくない。だから全面的に禁止すべきだ」という主張がある。この場合、「健康によくない」というのはタバコほ吸う本人の健康問題と、いわゆる受動喫煙と言われるタバコの煙を吸う周囲の人間の健康問題の両方が含まれる。昨今問題にされるのはどちらかと言えば受動喫煙のほうだと思う。

タバコを吸っている人のほとんどは、タバコは健康上よくないということを承知の上で吸っているように思う。それでも、ストレス解消のためとか、リラックスするためとか、いくつかの理由で吸っている人が多いのではないか。一方、受動喫煙はなかなか難しい問題だ。嫌煙家は受動喫煙を問題視するが、これまで受動喫煙に関するさまざまな科学的データが発表されているにもかかわらず、「受動喫煙は確かに問題だね」と誰もが納得するデータというのは今のところないと、私は理解している。

「酒は百薬の長」と言われ、ある程度までなら健康によくないどころか、健康にいい影響を及ぼすと昔から言われている。しかしながら、飲みすぎると肝硬変になったり、明らかに健康上問題が起こることも確かだ(酒の飲みすぎが身体によくないことは私も経験している)。以前にも書いたが、アメリカの禁酒法は結局、国の思惑に反して酒の消費量増やし(密造酒などが増えた)、アル・カポネに代表されるギャングによる闇社会を誘発してしまった。この教訓は、嗜好品というものは極端な法的制約を行うと、かえって社会がおかしくなってしまうということだ。

この教訓を生かせば、タバコについても、欧米並み価格にしなければならないとかいう取ってつけたような理屈をこしらえて価格を極端に上げるのではなく、いろいろに意味でバランスの取れた価格の値上げに留めるべきではないかと思う(私は以前、500円くらいにしたらどうかという提案を行った)。

将来、タバコの価格を段階的に700円とか800円にするということになると、兆の単位の税収が増えることになる。そういう大切なことを民主党はどうして選挙公約である「マニフェスト」に謳わなかったのだろうか。多分、タバコ増税はもともと考えていなかったに違いない。しかしながら、来年度の予算を検討し始めたら、どうしても税収が足りない。だから、「物言わぬ弱者」である喫煙者から税金を巻き上げよう、これが本音ではないだろうか。

ただそう言ってしまうと民社党がまた「公約違反」(マニフェストに書いたことをやらないという公約違反ではなく、マニフェストに書かなかったことを急にやるという公約違反(それも大衆課税に関する重要な増税))したと言われかねないので、「国民の健康を守る観点から」というもっともらしい理由をつけてタバコ増税をしようという魂胆だと思う。

「税収が足りないので、喫煙者の皆さん、少し協力してください」とお願いするほうが正直で、聞いている国民のほうもわかりやすい。「健康上の問題」ということになれば、「タバコは明らかに健康上害がある」ということを示す誰もが納得する科学的データを示す必要が出てくる。そんな準備を国がしているとは到底思えない。それに、そんなにタバコを悪者扱いにしたいのなら、国はタバコから税金を取ることも止めたらどうだろうか。タバコはよくないと言いながら、売っているのは実質国で、一方で喫煙者からはちょっかり税金を取る、こんな構図は誰が考えてもおかしいよね。

写真は、映画「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘップバーン。作品では何度もタバコを吸ったり、キセルをふかしたりしていた。タバコは健康によくないことを強調しすぎると、今後こういう映画は「R」指定映画になるかもしれないね。

酒井法子容疑者の「秘部」に女郎蜘蛛の刺青? [映画]

ayako-wakao-tatouage.jpg増村保造監督の作品はエロスがあって好きだ。なかでも若尾文子が出演した「卍」「刺青」はよかった。見えそうで見えない、そんなじれったいエロティシズムがたまらない。そのほかでは、安田道代が主演したこちらも谷崎潤一郎原作の「痴人の愛」、肉感派女優、渥美マリが主演した「でんきくらげ」もよかったが、マニアックな私としては、田宮二郎主演の「黒の試走車」で共演していたグラマラスな女優、叶順子がひそかに好きだった。

「刺青」は谷崎潤一郎の処女作とされる短編で、足フェチ、女性のスキンフェチであったと言われる谷崎の面目躍如とも言える作品だ。映画はこの作品をベースにして、見事なカメラワークで腕利きの刺青師、清吉が若尾演じるお艶の白い背中に彫った女郎蜘蛛と(写真)、女の魔性を開花させていくお艶のエロティシズムを見事に映像化していた。

さて、連日のように酒井法子容疑者のことが報じられているが、時間が経つにつれて彼女を応援する声が小さくなってきているような気がする。そんななか、ある新聞が今日、本当か嘘かわからないが、酒井容疑者の「秘部」に刺青があるということを伝えていた。事件がこういう展開になってくると、いろいろな話が出てくるものである。それにしても、新聞の話が本当なら、酒井容疑者の「秘部」にどのような画が彫られていたのか、野次馬的に興味のあるところである。

さて、釧路から社員が二人上京していたので、一杯やった。厄介なことに、二人とも北海道出身者であるにもかかわらず魚介類があまり好きではないので、結局、新しく銀座に出来たホルモン専門店に行ってきた。焼肉は最近意識的に避けていたが、こういう場合は仕方ない。二次会は赤坂へ。若い二人は元気一杯で飲み、そして歌い、オジサンはへべれけ。少し前に家に戻りました。


忠犬ハチ公、完璧な美談はありません。 [映画]

IMGP0736.JPG用事があって、久しぶりに渋谷に行った。新宿もどちらかと言うと若者の街だと思うが、渋谷は正真正銘若者の街、否、正確にはギャルの街かもしれない。さて、衆議院議員選挙真っ只中ということで、ここ渋谷では今日、新党日本の田中康夫党首が道行く人々にマニフェストを配っていた。写メのリクエストにも快く応じていたが、いかにも選挙向けの受けを狙った対応という感じだった。

渋谷といえば「ハチ公」だろうか。リチャード・ギア主演の映画「HACHI約束の犬」が公開中であるが、どういう内容か大体わかるので観る予定はない。ところで、どうして「ハチ」と呼ばれたのかご存知だろうか。ハチのことを書いた本を読んでみると、飼い主の東大教授、上野栄三郎博士の8番目の飼い犬だったのでハチと名付けられたらしい。それまでの7匹は上手く育てられず、死なせてしまったそうだ。

ハチは秋田犬で、1924年に今の秋田県大館市で生まれた。生後すぐに今の渋谷区松涛にある上野博士の家に引き取られた。上野博士は翌年の1925年に急逝するので、博士とハチが交流を持ったのはたった1年間という短い期間だった。それからハチが死ぬ1935年までの10年間、毎日のようにハチは主人である上野博士を迎えにいくため、渋谷駅の改札口に現れた。主人の帰りをひたすら待つ姿は当時のマスコミにも大きく取り上げられ、ハチはいつしか「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。

美談に水を差すようで恐縮であるが、本を読んでいて多少疑問に思ったことがある。ハチを秋田県から引き取ったとき上野博士は53歳。それまで7匹の飼い犬を死なせてしまったということだが、常識的に言って少し多すぎないか。ちょっと酷な言い方かもしれないが、ハチのことも含めて考えると、上野家は犬という動物と相性があまりよくなかったのではないかと思う。

もう一点。博士の死後、渋谷の自宅は他人のものになり、ハチは浅草にある奥さんの遠い親戚の家に預けられる。しかしながらすぐにハチは浅草から渋谷の元の家に自力で戻ってしまう。その後ハチは「野良犬」になるわけだが、博士と同様にハチを可愛がっていた奥さんが、どうして引き続き世話をしなかったのかという疑問である。資力も十分あっただろうから、奥さんが決断すればハチは普通に幸せな生活を送ることができたのではないかと思うのだ。

ハチが野良犬になってから渋谷駅に行ったのは、主人に会うためではなく、野良犬として生きるために、好きな焼き鳥とか屋台のおでんを貰うためだったのだという説がある。ただこの点については、主人に会いに行くことが主目的だったと考えてよいのではないかと思う。

完璧な美談、つまり一から十まで一点の曇りもない美談というのはないのかもしれない。現実はクリーンな話ばかりではなく、人間の醜さ、ダーティーな部分が必ずどこかにあるもので、ハチの話にしても、私の疑問がもし正しい疑問だとするならば、本当は道徳の教科書に載るような話ではないのかもしれない。さはさりながら、飼い主に対する犬の忠誠心を伝える話として、ハチの話は十分その役割は果たしていることも事実だ。

写真は今日の渋谷駅ハチ公前。右側の木の幹のところにかろうじてハチ公像が見えている。

日本一の無責任男、明るいズルさで世の中すーいすーい。 [映画]

IMG_0215.JPG昨日発売された文藝春秋で、前総務大臣の鳩山邦夫議員が兄で民主党代表である鳩山由紀夫氏のことを滅茶苦茶に言っている。所属する党は違うかもしれないが血の繋がった兄弟であるわけだから、そこまではっきり言わなくてもと思うのだが、彼の言うことが本当ならば鳩山由紀夫氏はリーダー、もっと言えば人間として如何かと誰もが思わざるを得ない。

少し抜粋してみるとこうである。「兄は努力家です。しかし信念の人ではまったくないと思います。自分の出世欲を満たすためには信念など簡単に犠牲にできる人です。」「(子供のころのお兄さんのエピソードはと聞かれ)まず、ズルいんですよ、兄貴は。兄弟喧嘩をしても、自分が悪くないよう、おふくろにうまーく言い逃れますから。そして私が悪いことになっていく。」「ズルい人ですから、いまでも政界遊泳術という点では日本一のスイマーでしょう。」「私からみれば宇宙人ですね、まさに。自分の権力欲にここまで忠実に生きてこれるというのは大したものですよ。」。

とにかく、ボロクソなのである。これを読んで私は往年の植木等の映画を思い出してしまった。映画とはもちろん、クレージーキャッツ時代に東宝で撮影された「無責任シリーズ」である。植木演じるサラーリーマン平均(たいらひとし)が口八丁手八丁で世の中をすいすいと渡り歩いて行くという映画である。彼に信念なんてものはなく、状況が自分に不利と判断すると手の平を返したように前言を翻すことなんか平気でできるのである。

もし、植木等演じる平均(たいらひとし)に陰湿な「ズルさ」が見えていたなら、この映画シリーズはヒットしなかったに違いない。以前にも書いたが、人間が最も嫌う人間の性質は「ズルい」「卑怯」ではないかと思うのだが、ただこういう性質はどんな人間にも程度の差こそあれあるわけで、問題となるのは「凄くズルい」「凄く卑怯」といったように程度が極めて酷(ひど)い場合と、「ズルい」「卑怯」がとてもジメジメしていて陰湿で生理的に受け付けられない場合ではないかと思う。平均(たいらひとし)の場合は「明るいズルさ」でこの両方の場合に当てはまらなかったので、映画は庶民に受け入れられたのだと思う。

さて、鳩山由紀夫氏の「ズルさ」は果たしてどのような「ズルさ」なのだろうか。印象からすると、少なくても平均(たいらひとし)のような「明るいズルさ」ではないような気がする。ついでに言うなら、邦夫氏は兄を「宇宙人」と評しているが、彼の風貌は何となく「宇宙人」的な感じもしないでもない。

さて、昨日は会社のボーナス支給日だった。この日はデートや家族サービスで早めに退社する社員が多いので、酒を誘わずにそっと一人で帰るつもりだったのだが、神宮球場でヤクルト・横浜戦があることを知り、私はどちらのファンでもないのだが、天気がよくて金曜日の夜ということもあり、とりあえず行ってみることにした。午後6時過ぎに球場に着いたのだがチケットは余裕で買えた。3塁側の内野席を取り、生まれて初めて横浜の応援をした(知っている選手は3人しかいなかったが)。結局ヤクルトが勝ったが、外で野球を観ながら飲む生ビールはほんとうに旨かった。

写真は神宮球場。午後7時半頃撮ったのだが、空席が目立つ。

一攫千金、10億ルピーは誰の手に! [映画]

DSC_0003.JPG先週土曜日の夜に上野で飲んでから、身体中が痛くて、のたうちまわっている。痛みは肩、背中、臀部、脚と全身にわたっている。立っているときはそうでもないのであるが、一旦横になると痛みが走る。したがって、夜ベッドでじっとしていられず、ほとんど寝られないでいる。単なる筋肉痛かと思い、熱い風呂から上がってすぐにエアサロンパスを全身くまなく拭きつけたりして対処している。今朝ラジオを聴いていたら、咳が止まらない、熱がある、筋肉痛などの症状がある方は近くの病院に行って新型インフルエンザかどうか検査に行ってくださいというので、「ひょっとしたら」と一瞬思ったのであるが、これは海外旅行から帰ってきた人向けの話だと思い、無視することにした。

そんななか、昨日は一日中家に閉じこもっていた。雨が降っていたこともあるが、身体中が痛くて外出する気になれなかった。子供が飛び跳ねていつもうるさい上の階の家族もゴールデンウィークでどこかに出かけているらしく、昨日は物音一つなく静かだったので、月曜日に三省堂で買った『ぼくと1ルピーの神様』を読むことにした。この本は、今年のアカデミー賞で作品賞など8部門を受賞した映画「スラムドッグ$ミリオネア」の原作である。今年最も高い評価を受けた映画の原作ということで、期待して読み始めた。

原作と映画の出来映えとは必ずしもイコールでないことはよくあることだ。総じて言えることだと思うが、原作を映画が超えることは稀なような気がする。原作と映画は全く異なる表現方法であるから、比較すること自体ナンセンスという意見もあるかもしれないが、原作と映画を両方知ってしまえば、優劣をつけたくなるのは人情というものである。

さて、『ぼくと1ルピーの神様』であるが、半分くらいまではわくわくしながら読んでいたが、後半からは少し飽きてきた。なぜなら、同じような物語の展開が何度も繰り返されるからである。こうなると映画のほうに期待するしかない。今週末あたり、新宿の映画館に行ってみることにする。

二日も家にいると身体が本当におかしくなってしまいそうなので、今日は昼から新宿に出かけた。家を出た頃は雨が降っていなかったのだが、それから1時間くらいすると雨が降り出してきた(写真、新宿駅西口)。こうなると「戦闘意欲」が一気に萎えてしまい、さっさと家に帰りたくなる。私は家では料理はしないのだが、昨夜、あるテレビ番組で超旨そうな焼肉とハンバーグが紹介され、今日はどちらかを絶対食べると心に決めていたので、帰り際小田急ハルクの地下食料品売場でハンバーグを買ってきた。我が家(といっても一人だが)のフライパンが本当に久しぶりにキッチンに登場することになった。

ココ・シャネル、指に挟んだタバコが似合う。 [映画]

audrey_tautou_4.jpgこのところ一人カラオケボックスに行っていないが、行ったときは第一興商のDAMで歌うことにしている。もう一つJOYという機種もあるが、キーがDAMと微妙に違っていて、DAMで歌い慣れているとJOYはとても歌いにくい。そのDAMでよく歌われる昭和歌謡曲のランキングを第一興商が発表した。

第1位は石川さゆり「天城越え」、第2位は岩崎良美「タッチ」、第3位はイルカ「なごり雪」となっている。演歌「天城越え」の第1位は意外だった。年輩の方々のカラオケボックス利用が増えているとはいえ、まだまだ利用者の多くは10代から30代の若者だ。銀座や新宿のクラブに行って歌唱力のあるホステスさんが「天城超え」を熱唱する姿はよく目にするけど、若い女性がそう頻繁に歌うとは思えない。ちなみに、発表されたベスト20のなかで私がたまに歌う曲が1曲だけあった。それは辛うじて第20位に食い込んだ「ロンリーチャップリン」。どうやら私が日頃よく歌う曲はDAMではマイナーな曲ばかりのようだ。

さて、話は変わる。かのマリリン・モンローは「寝るときに身につけるのはシャネルの5番だけよ」と言ったそうだ。シャネルの5番とはご存知の通り、世界的デザイナーだったココ・シャネルが作った香水のことだ。シャネルは1883年にフランスに生まれ、1971年に87歳で死んでいる。幼少時代は孤児院で生活するなど恵まれたものではなかったが、その後デザイナーとしての才能が開花し、シャネルを世界的なブランドに育ち上げた。「機能的でエレガント」が彼女のモットーであったが、私生活では数多くの資産家、芸術家、詩人などと浮名を流し、弟二次世界大戦時には敵国ドイツの協力者ではないかと疑われるなど、常に世間の耳目を集めた(山口昌子著『シャネルの真実』)。

そのココ・シャネルの半生を描いた映画「ココ・アヴァン・シャネル」の宣伝用ポスターがフランスの公共機関で締め出されている。そのポスターには、シャネルがタバコを指で挟んでいる姿が映っている。これが、タバコやアルコールを公共機関で広告をすることを禁じた法律に抵触するというのだ。この動きに対して「行きすぎた規制だ」との反論もあり、議論が起こっているらしい。

ポスターを見ると確かにタバコは持っているが、タバコ自体の宣伝を目的として作成されたポスターでないことは明白であり、私も「行きすぎた規制」だと思う。喫煙者でない私でさえ、昨今の禁煙ブームには閉口することが多い。その極めつけは、居酒屋やパチンコ店などで禁煙を努力義務とした神奈川県の条例である(もともとの条例案では「努力義務」ではなく「完全禁煙」だった)。

タバコやアルコールと人間の付き合いは古代からあるそうだ。それだけ深く付き合ってきたタバコやアルコールを急に止めろというほうが不自然なのである。タバコやアルコールは健康によくないとか、他人に迷惑をかけるとか、いろいろ理屈を言ってそれらを排除しようとする潔癖人間をたまに見かけるが、そういう人間のほうが私からすると煩わしくて協調性がなく、自己主張だけを突き通そうとする鼻もちならない人間で、甚だ迷惑である。

さて、今日は釧路に来ている。これから午後、支店で仕事。二日前には10センチの積雪があったそうだ。来月はまた釧路、札幌と出張が続く。さしずめ「北の旅人」といったところだが(そんなカッコよくはないが)、ちなみに、第一興商よく歌われる昭和歌謡曲で石原裕次郎「北の旅人」は第6位だった。

写真は、映画「アメリ」でお馴染みのオドレイ・トトゥ。映画「ココ・アヴァン・シャネル」に出演する。

雨、私はいつ、世の中の傘になれるのか。 [映画]

xu-jinglei3.jpg今日は朝からずっと雨が降っている。濡れるのが嫌だからどこにも外出せずに家にいる。午後、テレビで競馬中継を見ていたら、この悪天候のなかでも競馬は行われている。ただ、激しい雨が降っていても、馬は傘を差してはいない。当り前のことである。雨が降る。傘を差す。雨に濡れないために。やはり、人間だけが傘をさすのだろうか。

亡くなった阿久悠さんはエッセイで、歌謡曲の場合、傘は単に雨に濡れないためのものではない場合が多いと書いている。なかでも阿久さんが仰天したのは、川内康範が作詞して森進一が歌った「おふくろさん」に登場した「傘」だそうだ。

おふくろさんよ おふくろさん
空を見上げりゃ 空にある
雨の降る日は 傘になり
お前もいつかは 世の中の
傘になれよと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない

雨と傘に関する曲はたくさんあるが、千家和也が作詞して三善英史が歌った「雨」に登場する女性は雨が降っているにもかかわらず傘を持っていない。雨に濡れながらひたすら愛する男性を待ち続ける。

雨にぬれながら たたずむ人がいる
傘の花が咲く 土曜の昼さがり(1番)
雨にうたれても まだ待つ人がいる
人の数が減る 土曜の昼さがり(2番)

さて、雨にも種類がある。阿久さんが作詞して八代亜紀が歌った「雨の慕情」は日本レコード大賞を受賞した名曲であるが、なかでも何度も繰り返される「雨々ふれふれ もっとふれ」の歌詞は耳から離れない。この場合の雨は多分、「どしゃぶりの雨」だろう。

一方、欧陽菲菲が歌ってヒットした「雨の御堂筋」に登場する雨は「霧のようなやさしい雨」だ。余談だが、「小ぬか(糠)雨」という言葉を初めて知ったのはこの曲のおかげだった。

小ぬか雨降る 御堂筋
こころ変わりな 夜の雨

海外に目を転じると、カーペンターズに「雨の日と月曜日は」という曲がある。雨と日と月曜日はいつも気が滅入ってしまう、そんな内容の曲だったが、今日のようにせっかくの土曜日に雨が降ると、私なんかは猛烈に気が滅入ってしまう。

さて、今日から16連休する会社があるらしい。私は貧乏症で3日も会社を休むと何となく不安な気持ちになってしまう。ところが、私の会社も5月1日から6日まで6連休になるので、どう過ごすのか今から対策を練らなければならない。もちろん、旅行はしない。仕方ないので、普段行かない都内の繁華街を毎日まわってみようかと思う。あとは映画。ジャッキー・チェン主演の「新宿インシデント」が1日から公開されるので、これは観なければならない。

写真は「新宿インシデント」に出演する中国人女優、シュー・ジンレイ。なかなかの美人。

ピンク映画「痴漢電車 下着検札」、オスカー「おくりびと」の原点かも。 [映画]

81_039.jpg「ピンク映画は先生であり、学校。社会の縮図でもある。そこから人生を学んだ」。この言葉、誰の言葉かご存じだろうか。実はこれ、今をときめく「おくりびと」の滝田洋二郎監督が、明日から渋谷のシアター・イメージフォーラムで開かれる「WE ARE THE PINK SCHOOL! 日本性愛映画史 1965-2008」の上映に合わせ寄せた言葉である(読売夕刊)。

若松孝二(「壁の中の秘事」)、高橋伴明(「歓びの喘ぎ 処女を襲う」)、山本晋也(「特殊三角関」)、滝田洋二郎(「痴漢電車 下着検札」)、周防正行(「変態家族 兄貴の嫁さん」)などの監督作品、全42作品が上映される。ピンク映画といえばタイトルの妙ということなるが、「行く行くマイトガイ 性春の悶々」「姉妹どんぶり 抜かずに中で」「痴漢電車 びんかん指先案内人」「荒野のダッチワイフ」など、思わず噴き出したくなるものばかりだ。

大学生のとき、ピンク映画をたまに観に行った。館内では映画を観ながらマスターベーションをしている奴、一人で喘いでいる奴、ホモっている男性同士など、ちょっと変わった連中がいた。そういう連中から極力離れた席に座るようしたが、男性の腕が後ろから突然私の股間に伸びてくるのではと、多少恐怖心に怯えながら観ていた記憶がある。ピンク映画を観に行ったのに、なんとなく気分はサスペンス、そんな変な感じだった。

経済学を多少でも勉強された方なら、経済学者である中谷巌さんの名前を知らない方はいないと思う。今月の文藝春秋に「竹中平蔵君、僕は間違えた」という中谷さんの論文が掲載されたが、これが今月号のなかで一番面白い論文ではないかと私は思った。中谷さんが間違えたもの、それは小泉元総理、竹中元大臣主導で進められた構造改革だ。

端的に言えば、構造改革とは市場原理主義を徹底させるということだ。中谷さんも竹中さんも、どちらも優秀な学者で、二人ともアメリカで研鑽を積み、市場原理主義の信奉者になっていた。しかしながら、現在の日本経済の惨状を目の当たりにして、中谷さんは自分のやってきたことは間違いだったと、公の場で認めたのである。一方の竹中さんはどうかというと、景気が悪いのは構造改革を途中で止めてしまったからで、構造改革は間違っていないという考え方だ。

優秀と言われる学者ほど、理論に溺れ、理論に酔うところがあるような気がする。少し前まで中谷さんもそうだったのかもしれない。でも中谷さんは当時を振り返りつつ「社会に生きる人々への視線が欠けていた」「社会の価値がマネー一色に染められていくことがこれほど危険なこととは思わなかった」「私は自責の念を持ちつつ、「社会」というものの重要性を改めて痛感した」と「懺悔」し、「人と人とがつながりを持つ「社会」への視点」が重要である、そう考えるようになった。

芥川賞受賞作「ポトスライムの舟」に関して、作家には生活実感という感性が大切ではないかと昨日書いたが、政治に係る人たちにも同じようなことが言えるのではないだろうか。家柄とか高学歴だけで国の政治がよくならないことはすでに立証されたわけだから、これからは、社会に生きる普通の人々に目配せ出来る、普通の政治家に政治を司ってもらいたいと思う。

写真は「おくりびと」の広末涼子。滝田監督の映画の原点、それはピンク映画だったのだ。

おくりびと、アカデミー賞外国語映画賞って、必要なのでしょうか。 [映画]

IMG_0646.JPG今朝の読売コラム「編集手帳」に次のようなことが書かれていた。少し長くなるがそのまま引用してみる。「なぜ仕事をするのか-3人が答える。最初の若者は「お金のため」と言う。次の人は「生き甲斐だから」と。最後に、農業を営むおじいさんがしみじみと語る。「仕事は神聖なものだ」。小学生の頃、道徳の授業で見た教育テレビの番組を今でも覚えている。何十年かが過ぎ、第3の回答の達観には遠く及ばず、第1と第2の心境を行き来している。」。

言いたいことは何となくわかる気がする。このコラムニストは農業を営むおじいさんの境地に達したいに違いない。「何のために働くのか」、この問いはいつの時代にもある。仕事というものが神聖なものかどうかは知らないが、私は、特別の目的とか意義があって人間は働くのではなく、人間として生まれた以上働くのは当たり前のこと、理屈ではないことだと思っている。「何のために働くのか」と似たようなレベルの質問に「なぜ人を殺してはならないのか」というのがある。専門家が本を書いていろいろ議論しているが、子供からもしその質問をされたら、親はやさしく「人を殺してはいけない、そういうものだからね」と答えるのが正しいと思う。

人を殺してはいけないけど、人は病気や思わぬ事故で必ず死ぬ。人の死体、つまり遺体を納棺することを生業(なりわい)とする納棺師、それをテーマにした日本映画「おりくびと」が見事、第81回アカデミー賞外国語映画賞を獲得した。暗いニュースが多い中、嬉しい知らせが届いた。本場オスカーのホームページによると、「おくりびと」は日本映画として12度目のノミネーションで初めての受賞となったらしい。ただし、外国語映画賞がアカデミー賞の正式部門となった1956年以前には、「宮本武蔵」(55年)、「地獄門」(54年)、「羅生門」(51年)の3作品が外国語映画賞名誉賞を受賞している。

せっかくの祝賀ムードのなか、またケチをつけるようで恐縮であるが、愚痴を聞いてほしい。アカデミー賞で、外国語映画賞を敢えて一つの部門として独立させる意味があるのだろうか、と思うのだ。さっそく外国語映画賞をウィキペディアで調べてみると、アカデミー外国語映画賞は「アメリカ以外の映画で、外国語(英語以外の言語)の映画のための賞で、アメリカ国内で上映されている必要はない」とあった。なかなか面白いですね、この決まり。

つまり、アメリカにおいて英語で製作され、アメリカ国内で上映された映画しか、作品賞などの主要賞は受賞できないということだ。正直、こういう理解を私はしていなかった。優れた作品なら世界中のどの作品でも作品賞などを受賞できるものだと思っていた。ところで、外国語映画賞を審査する際、スクリーンにはきっと英語の字幕があったに違いないと思うのだが、英訳が正しくなされていれば、アメリカ作品と外国作品を比較考量することは可能なのではないだろうか。今回、「スラムドッグ$ミリオネア」が作品賞を受賞したが、映画好きの人間なら、この作品と「おくりびと」は映画としてどちらが優れていると評価されるのか、とても知りたくなるところである。

古い話であるが、岩崎宏美が「聖母たちのララバイ」を大ヒットさせたとき(「火曜サスペンス劇場」のテーマ曲だった)、作曲に外国人が係っていたという理由で、その年のレコード大賞のノミネーションから外されたということがあった。このときも、作詞・作曲が日本人でなければならないというルールがあったらしく(今どうなっているのかは知らないが)、そのとき私は、日本レコード大賞は随分了見が狭いなあ、と思ったものだ。

世界のアメリカなら、英語ではないとダメだとか、アメリカ作品でなければダメだとか、そういう器量の小さいことを言わずに、本当に世界一優れた映画作品をアカデミー賞で選んでみたらどうなのだろうか。

今年初めて焼鳥屋に行った。熱燗をがぶがぶ飲んでいたら知らない間に午後10時を過ぎていた。銀座の夜は今夜も更けていく(写真)。

Strong Sex Sceneあり、15歳未満はお断りです。 [映画]

IMG_0608.JPG最初は、いちゃもんから。成田から海外出張するとき、駅のことでよく混乱する。新宿から乗ると、最初に着くターミナルはJALなどがある「第二旅客ターミナル」、続いてANAなどがある「第一旅客ターミナル」である。これに対応するJRの駅はそれぞれ「空港第二ターミナル駅」と「成田空港駅」である。

誰でもわかるようにシンプルにすることが物事肝心であるから、空港に向かって最初に着く駅を「第一旅客ターミナル駅」、次の駅を「第二旅客ターミナル駅」として、現在JALなどがある「第二旅客ターミナル」を「第一旅客ターミナル」に、現在ANAなどがある「第一ターミナル」を「第二ターミナル」と呼称変更したらどうだろうか。そうすれば、迷う人はいなくなると思うのだが。それと、昨日気づいたことだが、「空港第二ターミナル駅」の一つ手前に単なる「成田駅」というのがある。「成田駅」と「成田空港駅」、日本人でも間違えそうである。JRさん、思い切って一度整理されたらどうですかね。

さて、今日はブリスベンで仕事。打ち合わせをする会社は、町の中心からハイウェイに乗って(日本の高速道路より断然早く、料金もかかりません)40分ほど行ったところにある。会社のすぐ隣にゴルフ場があるくらいだから、相当の田舎である。会議を終えてタクシーを呼んでもらったら、タクシーが来るまで20分近くかかった。そもそもその辺はタクシーがあまり走っていないのである。さて、仕事のほうは、満足度で言えば90点、わざわざ高いお金を使って来た甲斐は十分あったと思う(自己評価はとりあえず高くしておく)。

ブリスベンは今、夏。今日も最高気温が28度くらいあった。それでも湿度がそう高くないので助かる。上の写真は最も人が集まる「モール」と呼ばれる商店街にあるカフェの様子である。このすぐ近くにバーガーキングがあるのだが、その店は、私が語学研修でここに来ていた22年前からずっと同じ場所で営業を続けている。オーストラリアではハンバーガーといえばマックよりバーガーキングだ。

0000427307-63818L.jpgオーストラリアといえば、そのものズバリ、「オーストラリア」という映画がニコール・キッドマン主演で公開される(写真)。彼女はアメリカ生まれであるが、オーストラリアの国籍も取得して現在はオーストラリアの女優として活躍し、オスカーも手にしている。前夫であるトム・クルーズと共演した「アイズ・ワイド・ショット」はエロスに満ちた作品で好きだったが、ひょっとしたら彼女が主演した映画のDVDが円高の力で安く買えるのではと思い、「モール」にあるHMVに行ってみたら、思わず面白いものを見つけた。

それは、DVDに「暴力シーンが多く15歳未満には売らない」「激しいセックスシーンが多く18歳未満には売らない」「暴力的な言葉が多く15歳未満には売らない」とか、いろいろ販売を制限するシールが付いていたのだ。これに対して、誰が観ても問題のない作品には「M」マークが付いていて、これはModerate、つまり、適切、適当な作品であるという意味なのだ。モノ好きの私は当然日本では上映できないようなDVDを一枚買ってみることにした。そのDVDには「Strong Sex Scene」と書かれ、15歳未満には販売しない旨のシールが貼ってあった。日本のHMVにはこういった自主規制はないのではないだろうか。オーストラリア人は大雑把な国民のイメージがあるが、結構きめの細かいこともやっているのだ。

法律による規制、自主規制ということを日本人はあまり好きではないのかもしれない。いろいろな法律、ルールに縛られたくない、そう考えている人が多いような気がする。太宰治は『人間失格』で、合法というものには底知れぬ強いものが感じられ自分は好きではない、自分は非合法というもののほうが居心地がよくて好きだということを書いているが、こういう心情は日本人なら理解できるが、法律、ルールで世の中を律してきた欧米の人々にはひょっとしたら理解に苦しむことなのかもしれない。

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