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登場しました正義の味方、貴乃花親方。 [新宿]

IMG_0427.JPG都心で初雪が降った。テレビはそのことをさも大事件のように伝えたが、どうみても大袈裟である。この程度の雪で騒いでいたら雪国の人から笑われる。しかし、よく考えてみると、私の故郷である釧路で、夏にもし最高気温が30度を超えれば大騒ぎになるに違いない。そんな北海道人をみて今度は東京の人が笑うかもしれない。

さて、今日の新聞各紙は、日本相撲協会の理事選で元横綱、貴乃花親方が当選したことを伝えた。角界改革を訴え続けたとされる貴乃花親方が事前の予想に反し当選したことを、各紙は貴乃花親方の大きな写真入りでセンセーショナルに伝えた。そして私の想像であるが、このどんでん返しの結果について国民はおおむね好意的にとらえたのではないだろうか。

貴乃花親方の理事当選がそんなに大袈裟なことなのか、というのが私の第一印象だ。調べてみたら、日経以外の一般紙はすべて、理事選問題は小沢献金問題に次ぐトップ2記事扱いだった。相撲は国技だからということなのかもしれないが、改革を訴える理事が日本相撲協会に一人入ったことが、今の世の中、一面記事になるほど重要性があることだとは思えない。

ところで、角界にどのような問題が内在していて、それがどのくらい深刻なものなのか、そして貴乃花親方はそれらの問題をどのように解決、改善していきたいのか、そういったことを我々は実はよく知らないはずだ。それにも係わらず我々は、日本相撲協会というのは古い体質を持った悪い集団、貴乃花親方はその悪を退治するために登場したヒーロー、そうした漠然としたイメージをいつのまにか持つようになっている。

「改革」「チェンジ」という言葉に我々は滅法弱い。オバマ大統領しかり、民主党しかり。「改革」「チェンジ」と聞いただけで我々は不思議な高揚感を覚えてしまう。本来なら、もっと冷静に状況を見て、もっと自ら情報を収集整理し、そしてマスコミの報道に踊らされることなく自ら判断すべきなのだが、我々は日常のことがとても忙しくてそんな余裕がないのである。会社での仕事のこと、今夜の晩ご飯の準備のこと、明日の飲み会のこと、来週行く旅行のことなど、とにかく国民は日常のことが忙しくて、時事のことを深く勉強する暇なんかないのが実情である。

そんな状況だから、たまたまちょっと観たテレビ、たまたまちょっと見た新聞、たまたまちょっと聴いたラジオの報道を、多くの国民はそのまま鵜呑みにしてしまうのである。でもそれは仕方のないことといえば仕方のないことだと思う。もともと大衆というのはいつの世も、そのような存在だから。

さて、今夜は新宿方面に住んでいる部下2人を引き連れて大久保の居酒屋で一杯やった。彼らとはその店で別れ、私は一人歌舞伎町に向かった。居酒屋でしこたま飲んで食べたのでもう一軒行くつもりはなかったが、ホームグランド歌舞伎町のエアーシャワーを浴びたい気持ちになったのだ。千鳥足で歌舞伎町をふらふら歩いていたら某有名ホストクラブの前に来た(写真)。一本何十万円もするドンペリを入れて盛り上がることで知られた店であるが、この不況下どうなのだろうか。入口付近にいたホストと思われるオニーチャンに酒の勢いで聞いてみようと思ったが、無視されそうでやめた。

Perfume オジサンは恥ずかしい、斬り! [新宿]

IMG_0421.JPG出張先の帯広から昨日戻ったら、人間ドックの結果表が届いていた。さっそく封を切ってみると、事前予想に反し、総合評価は昨年より良くなっていた。総コレステロールや中性脂肪などの数値も改善した。酒浸りの日々が一年続いたので当然悪くなると思っていたので意外だった。とうことで、気を良くした私は昨夜、またまた新宿ネオン街に突入してしまった。

上の写真は、新宿ゴールデン街のある店に昨夜やってきた鈴木左千夫さんという「ギター侍」と、鈴木詩織さんという現役女子大生の流しのコンビである。バニーガール姿の鈴木さんはなんでも武蔵野美術大学の学生さんだそうで、へべれけ気味だった私はさっそく、彼女の豊満な乳房の間に二つ折りにした千円札を2枚押し込んだ。こういう「余興」があるところもゴールデン街の魅力の一つだと思う。

IMG_0422.JPGさて、ブログ仲間で名古屋在住の日本画家、蝶々さんが22日から今日まで南青山のスパイラルガーデンで開催された「日本・フランス現代美術世界展」に出品したので、今日それを見てきた。出品されたのは「伽羅(きゃら)」という作品で(写真)、これは昨年11月、パリ国際サロンでザッキ賞という名誉ある賞を受賞したものだ。今年4月には蝶々さんは、地元名古屋で個展を開催する予定ということなので、私も久しぶりに名古屋に行ってまたいろいろ社会勉強をしてこようと思う。

先日のテレビで、モーニング娘などが所属するハロープロジェクトのコンサートに来ていた熱狂的なオジサンが紹介されていた(私と同じ世代のオジサンだと思う)。以前の私ならそのオジサンを「いい年して」と軽蔑したに違いない。でも今は少し事情が違う。私はハロープロジェクトのほうは興味がないが、広島出身のテクノポップグループ、Perfumeが少し前からとても気になっているのである。

一昨年の紅白に初出場したときは別段関心がなかったが、昨年、PerfumeのライブDVDを初めて観てその場でハマッテしまったのだ。Perfumeの人気は絶大なものがあって、最新のDVDは売上げトップなのだそうだ。どんな人たちが買っているのか知らないが、ひょっとしたら私のようなオジサンも結構多いのかもしれない。PerfumeのDVDを観ているときに、自分は何を集中的に観ているのか冷静に考えてみるとき、私は単なるエロオジサンではないかと思うと、少し恥ずかしくなることがある。

初夢、朝起きると親指がペニスになっていました。 [新宿]

DSC_0157.JPG皆さん、新年あけましておめでとうございます。

おめでたくない方もいらっしゃるかもしれませんが、新春の慣用句なのでお許しください。さて、私は昨日東京に戻り、今日、新宿の神様がいる花園神社にお参りに行ってまいりました(写真)。今年もこの神社の半径500メートル以内の酒場で、さまざまな社会勉強をしそうな気がします。


20代の頃、帰省から戻るとよく風俗店に行った。釧路では風俗店は皆無に近いので、3日、4日そうした環境にいると、男性自身がムクムクとしてきた(今は残念ながらそういうのはないけど)。東京に戻り、男性自身を慰めるためにソープやヘルスに行くと、私と同じような境遇と思われる人たちが列をなしていた。そんなこともあって、新春の2日、3日というのはなんとなく男性の性欲処理日のようなイメージが私にはある。

ということで、今日はペニスに関する話をしたい。作家の松浦理英子さんに『親指Pの修行時代』という著作がある。読まれた方も多いと思うが、ある若い女性の足の親指が突然ペニスになってしまうところから物語が始まる。親指がペニスになるという発想も奇抜であるが、次々と現れる性的奇形者の描写に松浦さんが持つ桁違いの想像力を感じる。

例えばこうだ。親指がペニスになってしまった若い女性、一実は、性的な奇形を売り物にする見世物一座<フラワー・ショー>に加わる。そのメンバーの一人に保という男性がいる。保のお腹にはシャム双生児の弟が入っていて、弟のペニスが保のヘソの下あたりから突起している。保自身のペニスはというと、弟の身体に邪魔されて先端しか外に出ていない。弟のペニスを触っても性的なものを感じているのは飽くまでも弟であって、兄、保ではない。

こんな感じの話が延々と続くのだ。夢野久作の『ドグラ・マグラ』も読んでいるうちに頭の中がどうにかなってしまいそうな奇書であったが、『親指P』もそれに決して負けていない。『ドグラ・マグラ』のほうは一度映画化されているが、『親指P』は露骨なセックスシーンも多く、映画化はまず不可能だろうと思う。

kaori-shimamura-00018382.jpg『親指P』の前作は『ナチュラル・ウーマン』で、これはレズビアンの物語である。この作品は映画化され、私の好きな嶋村かおり(写真)と緒川たまきが共演し、二人のレズビアンシーンは生唾ものだった。このように松浦さんはデヴューから一貫して「性」をテーマにした作品を書いているが、彼女のエッセイ『ポケット・フェティッシュ』や『親指P』のあとがきなどを読んでみると、彼女がどんなことを書こうとしているのかが少しうかがえる。

松浦さんが書こうとしているのは、男性優位社会への批判、性器結合中心的性愛観への批判ということらしい。「男性優位文化への批判が活発になされ、性器結合中心的性愛観への疑問も提出され始めた二十世紀末の今日、私たちは女性器をめぐる隠蔽と暴露のゲームに飽き飽きし、女性器に貼り付けられたイメージを引き剥がして女性器をゲームから解き放ちたい、という新しい欲望を抱いていると言っていいだろう」「私がこの小説(『親指P』)において読者に与えたかったのは、性器的な快楽ではなく、非性器的な快楽なのです。あまり適切なことばではないかも知れないけど、精神的な快楽を含めて、とりあえず私が非性器的な快楽としているもの。好きな人と抱き合ったり手を繋いだりじゃれ合ったり、あるいは接吻したり、必ずしも性行為に結びつかない、性器的な欲望に導かれて起こるわけではない、好きな人と軽くスキンシップすれば非常に気持ちがいいというような皮膚感覚的な快楽の方を読者に与えたいのです」。

これらの文章は今から15、16年前くらいに書かれたものなので、松浦さんの言われる状況も当時はあったのかもしれないが、少なくとも現代には松浦さんの危惧するような状況はないように思う。私もお陰さまでいろいろなところで遊んでいるので感じることだが、男と女、男と男、女と女、性の世界は実に自由奔放で、決して男性上位の世界ではないし、また、必ずしも性器的快楽だけを当事者が求め合っているわけでもないと思う。それに敢えて異論を唱えるならば、松浦さんが主張された当時も決して「性器結合中心的性愛観」が大勢だったとは思えない。「皮膚感覚的な快楽」を性器結合よりも好む人たちは今も昔も結構多いのではないだろうか。

新春早々変な話になってしまいましたが、今年もこんな調子で書きますので、宜しくお願いします。

昭和初年から、クリスマス・イブ、聖夜は性夜でした。 [新宿]

IMG_0397.JPG酒浸りの日々が続いている。今週月曜日、厳寒の北見で熱燗一気飲み合戦であえなく撃沈。帰りの機中、フライトアテンダントの美脚、美尻を一度も拝むこともなく爆睡。迎えた火曜日の深夜。新宿の社会勉強をしたいというM嬢(因みに、あちらのほうはSだそうです)を伴い、ゲイタウン新宿二丁目と呑み助の聖地新宿ゴールデン街をハシゴ。最後は寿司屋で締め、家に戻ったのは午前6時過ぎ。二日間で死ぬほど飲んだ。

この頃、労働時間よりも飲酒時間のほうがはるかに長い感じがする。時節柄というのを割り引いても、明らかに飲み過ぎである。この時期、酒は熱燗が中心で、最初の乾杯から熱燗というケースも少なくない。一時期焼酎もよく飲んだが、最近はほとんど飲まなくなり、最後はやはり日本酒に戻った。

SMAPの稲垣君が出ていた日本酒のCMコピーをご存知だろうか。
♪ 酒は大関、心意気
短いCMコピーであるが、それだけに何度も聴いていると耳に残る。他の大手酒造メーカーでも同様で、例えば日本盛のCMコピーは、
♪ 日本盛は、よいお酒
であり、実にシンプルである。そして、灘の辛口、菊正宗の場合は、
♪ やっばり俺は、菊正宗
と、短いコピーながらも説得力のあるものになっている。

その菊正宗が、「美人酒風呂」と称して入浴剤を販売している。コメの発酵液(保湿成分)をたっぷり使用した「菊正宗美人酒風呂 竹の香り」と「菊正宗美人酒風呂 日本酒の香り」の二種類で、「日本酒の香り」のほうは文字通り日本酒の香りがするのだそうだ。この日本酒入浴剤、予想以上に売れているというのだからちょっと驚く。

二日酔いの酒を抜くときに私も熱めの風呂に入ることがあるが、正直、向かい酒のような「日本酒風呂」に入るような気には到底なれない。しらふのときに一度試してみようと思うが、間違って飲んでしまうのではないかと少し心配である。

さて、今日はクリスマス・イブ。この日はカップルにとって飛びきり大切な日。マーケッティング・コンサルタントの西川りゅうじんさんによると、日本でも、昭和の初年には既に、イブは男女がデートする日になっていたという(今朝の産経)。なるほど、なるほど、つまり聖夜は性夜ということか。イブに関係のない私は一人、小型のクリスマスケーキを食べながら、いきなり黄金伝説の5時間スペシャルでも観てけらけらとイブを過ごそう。

写真は今夜の新宿駅東口。私も、悔い改める必要があるかもしれないね。

A感覚、V感覚、そこに酒があるから酒を飲む。 [新宿]

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♪ 酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を
 飲み取るほどに飲むならば これぞまことの黒田武士

ご存知、民謡「黒田節」である。酒の歌と言うと河島英五「酒と泪と男と女」をすぐ思い浮かべるが、古いところではこの「黒田節」が代表選手であろう。

昨夜、会社の同僚6名で忘年会をやった。私も含め全員が呑み助で、飲むほどにボルテージが上がり、談論風発、喧々諤々、実に楽しい酒だった。酒を楽しむコツは、気の合う仲間と飲むこと、そしてもう一つは、酒を飲める仲間と飲むことだと思う。

『作家の酒』という本がある。井伏鱒二、山口瞳、池波正太郎、山田風太郎など酒を心から愛した作家26名の酒に関するエピソードなどが紹介されている。世の中には凄い人がいるものだが、詩人、田村隆一の飲み方は半端ではない。体調のいいときは毎朝ステーキと赤ワインをグラスで3杯飲む。午後からはウイスキーの水割りを際限なく飲み続け、夕食のときは冷酒にスイッチ。要するに、起きてから寝るまでずっと飲んでいるのである。死の直前、冷酒を一合飲んで彼は静かに息を引き取ったそうである。

A感覚、V感覚で有名な作家、稲垣足穂は、風呂帰りに近くの酒屋で酒を飲み、体調のいいときはウイスキーの大瓶を1本空けたというから尋常ではない。彼の酒を飲む姿を思い出して娘は「登山家が山に登るのはそこに山があるから、そんな感じで父は酒を飲んでいた」と述懐している。「そこに酒があるから酒を飲んだ」、そういうことだろうか。

ということで、今夜は築地で大切なお客様と水だきで忘年会をやった。先方もよく飲むので、私も負けずに飲んだら少しフラフラしてきた。お客さんと一緒に飲む酒はどうしても気を遣い、正直言うとあまり楽しくない。やはり酒は気心の知れた仲間と一緒に飲むに限る。築地を後にして、私は一人新宿に移動(写真)。区役所通りの台湾パブで一人盛り上がる。来年2月、台湾に旅行することにした。

新宿深夜食堂、草食動物と肉食獣はうまくいきません。 [新宿]

IMG_0380.JPG昨夜、久しぶりに新宿ゴールデン街で大飲みした。新宿歌舞伎町は忘年会シーズンとあって、老若男女入り乱れて大混雑していた。ネオン輝く日本一の繁華街新宿歌舞伎町にも、黄色いイチョウの木はしっかりと根ざしていた(写真)。

ところで、皆さんは「肉派」と「野菜派」、どちらだろうか。私はどちらかといえば「肉派」であるが、かといって野菜が嫌いなわけではない。世の中には徹底している人というのがいるもので、私の会社の社員に、野菜を一切食べない「完全肉派」の男性社員がいる。キャベツ、レタス、ネギなど全く野菜を食べない。先日彼と一緒にラーメンを食べたとき、彼はネギを器用に避けてラーメンを食べていた。肉を食べるときも、赤身の部分ではなく脂肪の部分を好んで食べる。

彼は私より年上なのだが、これまで大きな病気をしたこともないという。人間は野菜なしで生きられるのか知らないが、その答えは彼自身が身をもってこれから証明することになるのだろうと思う。

話は変わるが、新宿花園神社近辺の路地にある小料理屋を舞台にした「深夜食堂」というコミックをご存知だろうか。新宿が舞台ということもあって読んでいるのだが、営業時間が深夜零時から午前7時までというこの小料理屋では、連日いろいろな人間模様が繰り広げられる。人間模様といえば昔「人間交差点」というコミックがあったが、これはなんとなく全体が暗かったが、「深夜食堂」はどこかに必ず救いがあるので、深刻にならずに読むことができる。

「深夜食堂」単行本第4集に「肉と野菜」という話がある。この店の常連である草野さんは実はバツイチ。店にやってくるといつも野菜ばかり食べている。一方、離婚した奥さんは肉が大好きで、今付き合っている彼氏は草野さんと違い肉好きである。野菜好きでやさしい草野さんと、肉好きでアクティブな奥さんの姿を見て「深夜食堂」の主人がこうつぶやく。「オレは草野さんが別れた理由がわかる気がしたね。しょせん草食動物と肉食獣が、ひとつ屋根の下で暮らすのは無理があったんじゃないかな。」。

主人のこのつぶやき、結構重い一言のような気がする。同棲も結婚もしたことのない私が言うのも説得力がないが、ここは思い切って言わせてもらうと、男女が一緒に生活する上で、食事はかなり大きな意味を持つような気がする。もちろん、食べ物の好き嫌いが100%同じと言うことはありえないが、少なくても50%以上食の嗜好に共通点がなければ、一緒に暮らすことは難しいのかもしれない。このことは特に国際結婚の場合に、より顕著のような気がする。

明日会社に行ったら、野菜を食べない男性社員に奥さんの食傾向について聞いてみようと思う。多分、奥さんも「肉派」のような気がする。

新宿ゴールデン街、あやしい雰囲気も残してね。 [新宿]

DSC_0193.JPG先週土曜日に放送された「アド街ック天国」で新宿花園が紹介された。メインは花園神社(写真)と新宿ゴールデン街だったが、このあたりは私にとっては最も馴染み深い場所だけにじっくりと観させてもらった。実は、昨日も新宿ゴールデン街で飲んでいた。今でこそ誰でも気軽に入ることの出来る飲食店が多くなったが、歴史をたどってみると今のような明るさばかりあったわけてはなかった。

新宿ゴールデン街からそう遠くないところに、ゲイタウン新宿二丁目がある。ご存知のように新宿二丁目は、昭和21年から売春防止法が施行された昭和33年まで、東京を代表する「赤線」だった。「赤線」では、特殊飲食店の許可を得て売春が公然と行われていた。これに対し無許可で売春をしていた地域を「青線」といい、新宿では歌舞伎町花園近辺が「青線」エリアで、新宿ゴールデン街はその一部であった(警察が、合法売春エリアを「赤線」、非合法売春エリアを「青線」で囲ったことからそう呼ばれる)。

ゴールデン街には3階建ての建物が少なくない。その昔、1階が店舗、2階が店主の住居、そして3階が所謂「ちょんの間」で簡単な布団を敷き売春が行われていたといわれている。私はその頃のことはもちろん知らないが、会社に入り初めてゴールデン街に飲みにきた昭和60年頃、この一帯には素人が生半可に立ち入ることの出来ない「あやしい雰囲気」がまだ漂っていたものだ。

その後、バブルとその崩壊に弄ばれたゴールデン街は店舗数を大幅に減らし一旦疲弊するが、その後、奇跡的に復活する。その復活の担い手は、新しい若い世代の経営者たちだった。彼らの力で生まれ変わった明るいゴールデン街は各種雑誌などで取り上げられ、今では女性同士でも気軽に立ち寄れる繁華街に変貌した。

ところで、どんなものにも光と影というものがあると思うが、光ばかりではつまらないし、かといって影ばかりでは滅入ってしまう。光と影は並存してこそ面白いのであり、新宿ゴールデン街も明るく健全というばかりではなく、適度な毒も持ち合わせていてほしいと思う。そうでないと、どこにでもある月並みな繁華街になってしまう。

ということで、昨日の酒(正確に言うと今日の酒も何時間か含まれている)がようなく抜けてきた。今日は花園神社大酉祭の前夜祭、そして明日が本祭。明日は会社が終わってから本祭に来て、屋台で一杯やろうと思う。

誰がなんと言おうと、やっぱり新宿はいいね。

karubi、あー悲しき男一人焼肉。 [新宿]

IMG_0355.JPG昨日の夜、新宿の回転寿司屋に行った。ときどき無性に寿司が食べたくなることがあって、そのときは回転寿司を食べることにしている。ただ、量はそんなに食べられなくて、6皿か7皿が限界だ。このくらいの量だと、会計のほうは千円前後と安く済む。

寿司と言えばマグロという人も多いと思うが、私はマグロをほとんど食べない。でも、他のお客さんを見ていると、マグロの赤身が乗っている皿に手を伸ばしている方がかなりいる。日本人のマグロ好きは世界的にも有名であるが、一方でマグロの漁獲制限は年々厳しくなってきている。

報道によると、地中海などで獲ることのできるクロマグロ(本マグロ)の量が来年は4割削減されることになったという。この手の話題は一頃大騒ぎになったものだが、今は誰も騒がなくなった。理由の一つは、不況で高級なクロマグロに関心がなくなった人が増えていること、もう一つは、養殖のマグロがかなりの量獲れるようになって、マグロの供給不安が薄れてきていることだ。

さて、不況が長引いていて庶民の懐具合は寂しくなる一方である。今月の月例経済報告で政府は、今の経済状況を「デフレ」であると公式に認めるらしい。デフレとは商品やサービスの価格が下がり続けることで、モノの価格が下がることは良いことのように思うかもしれないが、それは短期間のことで、長引けば「デフレスパイラル」になって経済は縮小し、庶民の生活は一層苦しくなる(参照: http://karubi53.blog.so-net.ne.jp/2009-10-25 )。

事業仕分けも大切かもしれないが、民主党は早急に大胆な景気浮揚策を打ち出さないと、経済は「二番底」に直面する可能性が高い。そうなると国民の生活は一層苦しくなり、「国民の生活が第一」なんて完全に絵空事になり、結果、民主党は国民を裏切ることになる。主要国の中で、リーマンショック以前の株価水準を回復していないのは日本だけである。何故か?世界の投資家は、日本には経済成長戦略がないと見ているからである(管さんは来年には策定すると、実に呑気なことを言っている)。

素人である私が「予言」というのもおこがましいが、早晩、なんらかの「増税」ないし、新しい税金が創設される可能性が高いと思う。そうなると、庶民の消費マインドは一層冷え込んでしまい、景気はさらに悪化するかもしれない。無駄をなくすることは大切であるが、無駄や遊びがあることで世の中が上手く回転することは結構あるものだ。どんなことでもゴシゴシやり過ぎると、あまりいいことはない。


今日は用事があって夕方、新大久保に行った(写真)。用事を済ませ、何か食べてから帰ろうと思って少し考えたが、新大久保と言えばやはり「焼肉」である。ダイエットで肉からしばらく遠ざかっていたが、たまにはガッツリ行こうと思い、一人である焼肉店に入った。

男の一人焼肉は惨めなものである。店に入ると女性客ばかりで、男性客はカップルで来ていた一人だけ。私は二人がけのテーブルに座らされ、カルビ(karubi、共食い?)、豚カルビ、ホルモンを注文。すると、店の女性の方が私のところに付きっ切りで焼肉を焼いてくれるではないか。最初のころは嬉しかったけど、だんだん時間が経つにつれてなんとなく惨めになってきて、「もう結構です」と言いたかったのだが、多少怖そうなオムニだったので、最後まで焼いてもらうことにした。帰り際、「美味しかった?」とそのオムニが聞くので、私は満面の笑みで「えー、とても美味しかったです」と爽やかに返しておいた。

1億円もらおうが、2億円もらおうが、そっとしておきましょうよ。 [新宿]

00000001.JPG韓国釜山にある実弾射撃場で火災があり、日本人8人が亡くなった。防災上の不備が指摘されているが、遺体は焼け焦げていて見ただけでは誰か判別できないというのだから悲惨である。韓国にはこのような射撃場がいくつかあって、日本人観光客でどこも賑わっているという。韓国に行ったことが私はないので、そういう事情は今回の報道で初めて知った。

私も人並みに好奇心があるほうなので、何でも見てやろうという精神はあるが、海外に行って実弾射撃をやってみたいと思ったことはない。美味しいものを食べたい、美味しい酒を飲みたい、名所・旧跡を訪ねたい、男性だけが楽しめる場所に行ってみたい、そういった気持ちはいつもあるが、銃を手にしてみたいという衝動に駆られたことは一度もなかった。銃を手にしたいという気持ちは単なる好奇心なのか、それとも人間の深層心理に係る根源的なものがあるのか、事故の真相もさることながら、こちらのほうも気になる。

さて、次はスポーツの話。テレビのスポーツコーナーを観ていると、ゴルフの石川遼選手が賞金ランキングで1位になっただの2位に落ちただのとしょっちゅう騒いでいる。どうしてこんなことが連日のように大騒ぎされなければならないのか皆目わからない。そんなことどうだっていいことじゃないかと私なんかは思う。

プロ野球のほうは、先日行われた日韓対決で原ジャイアンツが勝って今年は「原イヤー」だったという感じであるが、これから年末にかけては、スター選手の年俸更改の話題が連日報道されるに違いない。誰が1億円アップの推定2億円で一発サインしたとか、誰が10億円でメジャーリーグに移籍するとか、聞きたくもない話をマスコミは嬉しそうに報道する。なにがそんなにマスコミは嬉しいのか私にはさっぱりわからない。

大体、庶民が億単位の話を聞いてもまるでリアリティーというか臨場感がない。それに、そもそも、自分の給料は何億円ですとわざわざ記者会見まで開いて話をする選手の神経というものがよくわからない。ファンだって、スター選手は高額な年俸を取っていることくらいはよく知っているし、それが悪いことだとも思っていない。それならば、生々しいカネの話はよしたほうがいいのではないかと私は思う。「そっとしておいたほうがいいこと」、そういうことが世の中にはカネの話以外にもたくさんあるような気がする。

今日は久しぶりに新宿でシャツターを切った。街には「Happy Holidays」という文字も登場し、いよいよクリスマスムードが漂ってきた。このところ時間の経つのが早く感じる。年のせいかなあ。

河島英五、「酒と泪と男性と女性」なんか変です。 [新宿]

DSC_0190.JPGさて、上の写真に写っている群衆が見上げている先には何があるかわかりますか。正解は、新宿アルタの大ビジョンで中継している競馬、天皇賞の様子です。G1レースの中でも天皇賞は最も格が高いレースの一つなので、今日は私も久しぶりに馬券を買いました。結果はどうだったか。お蔭様で三連複が見事的中し、若干ではありますが儲けさせてもらいました。

さて、話は変わり、結婚詐欺で逮捕された34歳女性に関する話。マスコミが予想通り猛烈な食いつきを見せ、ニュースとワイドショーでは連日この話で持ちきり状態である。この事件の結末は大体見えてきたように思うけど、今日は事件そのものとはあまり関係のないことを書いてみたい。

それはズバリ、「男性と男」「女性と女」の話。多くの方々が気付いていると思うが、この事件ではマスコミは終始、「34歳の女」「被害者の男性」という表現を使っている。この事件に限らないが、あるときからマスコミは、容疑者などの場合は「男」「女」、被害者などの場合は「男性」「女性」と、表現の使い分けをするようになったのではないかと思う。

仮に、「34歳の女性」「被害者の男」というように、マスコミの表現と「真逆」の表現をすると皆さんどう感じるだろうか。これは私の意見であるが、「34歳の女性」というのはそんなに違和感がないが、「被害者の男」というのはなんとなく違うような気がする。一般的に言って、「男性」「女性」というのは単に性別を示し、無機質な感じがする。それに対して「男」「女」にはいい意味においても悪い意味においても、人間臭さのようなものを感じる。

「34歳の女」と表現すれば、すでにこの女性は「悪女」であることを匂わしている。でも「34歳の女性」と表現すれば、場合によっては「悪女」になるかもしれないし、また、場合によっては無罪放免されるかもしれないというように、決めつけができない。

話は少し脱線するかもしれないが、歌謡曲では圧倒的に「男」「女」である。「酒と泪と男と女」(河島英五)、「男と女」(チャゲアス)、「男と女のラブゲーム」(武田鉄矢&芦川よしみ)、「函館の女(ひと)」(北島三郎、「女」と書いて「ひと」と読ませる曲はたくさんある)、「色つきの女でいてくれよ」(ザ・タイガース)、「女のみち」(びんからトリオ)など、挙げると切りがない。例えば、チャゲアスの「男と女」を「男性と女性」というタイトルに変えると、全くお話にならないくらい変なタイトルになってしまう。河島英五の場合はもっとひどくて「酒と泪と男性と女性」、一体何の歌だろうと思ってしまう。

歌の世界ではやはり「男」「女」でなければならない。歌には人間臭さというか、人間の体温のようなものが必要だから、「男性」「女性」では話にならないのである。

マスコミにはどういう基準で「男性と男」「女性と女」を使い分けているのが聞いてみたいところであるが、想像するに、厳格な基準はないように思う。

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