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琥珀で、ひつまぶし、否、お暇なら来てよね。 [新宿]

RIMG0083.JPGある週刊誌の見出しに、「放送局を一つ潰したら、原発一基分の電力が賄える」というのがあった。なるほど、そういうこともあるのかなあと思ったが、テレビ好きの私としては少し複雑な心境だ。

通常モードの放送に戻り、深夜放送も復活した。時節柄、深夜は当分放送しないという選択肢はあるような気もする。これはもちろん、節電という観点からのことだが、実はそれだけが理由ではない。この頃つくづく、今のテレビは、お笑いタレントの生活のために存在するような気がしてならない。大袈裟かもしれないが、朝から晩まで(深夜まで?)出ずっぱりのお笑いタレントが何人もいる感じがする(彼らはかなり稼いでいるに違いない)。

彼らの芸が心底面白いのなら構わないが、中には、ちっとも芸が面白くないお笑いタレントもいる(素人のほうがよっぽど面白いと思うときもある)。こんなときだから、笑うということはとてもいいことだと私は思うのだが、もう見飽きたお笑いタレントが出ているテレビ番組を観るのを止めて、たまには違う方法で笑うことも一法のような気がする。

劇作家である野田秀樹さんの『ひつまぶし』は笑える本だ。「ひつまぶし」はもちろん「暇つぶし」にかけている。読んでいて、「なるほど、なるほど」という話がたくさんある。この本から一つ二つ引用してみたい。

野田さんのある友人が、某大手広告代理店に勤めていたときの話。彼は若い女子社員を集めて「いいか、これは俺の股間(こかん)に関わる問題なんだぞ」と眉間に皺を寄せて語り、ひかれた。もちろん正しくは「沽券(こけん)に関わる」だ。また、若い社員を鼓舞しようとして「お前たち、もう匙(さじ)は投げられたんだぞ!」と言ってしまった。これでは、いきなり終わってしまう。正しくは「賽(さい)は投げられた」である。この彼、寿司屋で「まぐろのみぞおちありますか?」と聞いたが、もちろん正しくは「まぐろの中落ち」で、決して「まぐろのみぞおち」ではない。

このような日本語の間違いというのはよくある話であるが、次の話はもっと面白い。野田さんは、近頃の若い人たちは、自分のことに、周りの人間が興味があるのは当然という前提で話しかけてくるという(私も同感です)。

「自分って、A型じゃないですか」 → 知らねえよ。
「俺って、甘いものだめじゃないですか」 → だから、知らねえよ。
「あたし、花粉症じゃない?」 → そんなこと威張られてもな。
「あたし、肩こりなんですよね」 → あのさ、世界中がお前の体調に興味あるわけじゃねえんだよ。

こんな感じで始まる会話がのさばっているというのは、やっぱり大人が悪い。その子が10歳を超えたら「世界中の人間がお前を知っているわけではないし、知りたがっているわけでもない」という現実を教えてあげるべきだと野田さんは主張する。私も賛成である。

これは少子化の影響が大きいと私は思うけど、それはさておき、この本にはお笑いタレントの肉体的、強制的笑いとは別次元の楽しい笑いが詰まっている。お薦めです。


写真は、新宿ゴールデン街5番街「琥珀」の店内。今週15日、16日一周年パーティーがあります。写真中央の腕は、ゆうママです。セクシーダイナマイトボディーで待ってます、とのことです。



神様、仏様、これからもよろしくお願いいたします。 [芸術]

RIMG0078.JPGNHKの日曜日美術館の司会者がこの4月に替わり、先週からこの番組をまた観ている。今日は今年で生誕100年を迎える画家、岡本太郎の特集だった。私は以前から彼の書いたものをよく読んでいたが、今日改めて、岡本太郎の桁外れた存在感のようなものを感じた。

どんなにテクノロジーが進歩しても、人間のほうはちょっとも進歩しないとか、例え原子爆弾で悲惨なことがあっても、人間はそれを克服して生き続けるとか、岡本太郎の言葉は今も色褪せていない。

さて、評論家の西部邁さんが昨日あるテレビ番組で今回の東日本大震災に触れ、深刻な原発事故は、テクノロジーに対する人間の過信が引き起こしたのではないかと指摘していた。一見月並みな指摘のようにも思えるが、そうなのかもしれない。少し前にここで、人間が作った形あるものは、いつかは必ず壊れるという、私の祖母の言葉を紹介した。だが、1基500億円かけて造った原子力発電所は絶対安全で壊れない、そう信じた技術専門家が多分たくさんいたに違いない。

今回の原発事故で見逃していけないポイントがもう一つあると私は考えている。それは、自然だ。日本でいつか大地震が起きるだろう、そう想定していろいろな備えをしていたはずである。しかしながら、想像を超える大津波の前では、すべての備えは無駄でしかなかった。だからといって、今回の事態が自然の怖さを日本人が軽視した結果だと決め付けるのは性急かもしれない。でも、我々の心の奥底に、人間はこの世の中で一番偉い存在であり、自然をも征服できるといった「驕り(おごり)」が我々の心のどこかに存在してはいなかっただろうか。

岡本太郎は自らカメラを持って、日本各地の祭りを精力的に取材した。ところで、祭りとは、神や自然に対する祈り、感謝の儀式のことだと言える。我々はその「祭りの精神」みたいものをこの頃忘れているのかもしれない。飽食の時代にあって、海の幸をもたらしてくれる海の神、海の幸以外の恩恵を与えてくれる動物や草木に宿る神などに感謝する気持ちが、現代に生きる我々には希薄であったような気がする。

神の逆鱗に触れたとは思いたくないが、いずれにしろ、今回の大震災には自然以外の「何かの力」が働いたような気がする。


写真は、新宿花園神社の今日の様子。境内の建築物に「ここは神域につき貼り紙厳禁」との警告文があった。「神域」を土足で侵すようなことをすると、天罰が下る、ということか。

乳首とアンダーヘアー、人間ならみんな持っています。 [映画]

1169089-1-thumb.jpgこのところ少し暗めの話題が続いたので、今日は少しだけ色っぽい話を書いてみたい。佐藤寛子さん(写真)というグラビアアイドルをご存知だろうか。あまり派手さはないが肉感的で、根強いファンが多く、実は私もその一人なのだ。

彼女はこれまでヘアヌードになったことがなかったが、その彼女が突然、昨年公開された映画「ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う」で大胆なヌードを披露した。彼女の水着姿の写真や動画を見続けてきた私は、いつか彼女のヌードが見たいと思っていた。そういう写真集が出たらすぐ買おうと決めていたが、写真集が出る前に映画でヘアヌードを拝むことが出来ることになったわけだ。

劇場公開には行かず、DVDが発売になったらすぐに買って彼女の肢体をじっくり鑑賞しようと思い、紀伊国屋のWEBサイトでDVDの購入予約をした。発売になってすぐ、待望のDVDが私の家に届いた。

結果どうだっか。実は、期待はずれだったのである。期待はずれというのは、思っていたより胸が小さかったとか、アンダーヘアーが薄かったとか、そういうことではなくて、なんのことはない、裸は裸であり、それは単なる肉体、皮膚なのである。当たり前のことであるが、胸には乳首あるし、下半身には黒いアンダーヘアがある。なーんだ、我々と少しも違わないではないか、そう思ったのである。

何でも知りたがる、人間にはそういう基本的性向がある。でも、知らないほうがいいことだってたくさんあるのだ。佐藤寛子さんについても、水着姿を見てイマジネーションを膨らませ、不埒なことに想いを巡らせているときが一番興奮し、かつ、充実するのであって、ひとたびヌードになってしまえば、彼女のシークレットな部分がなくなってしまい、結果、彼女に対する興味も失せてしまうのである

さて、裸それ自体には、思想とか、人間性というものはない。でも、裸に例えばSMという行為が加わると、人間のドロドロしたエロスが湧き出てくる。杉本彩が主演した「花と蛇」は正に人間のエロスをテーマにした映画であって、この作品は単に彼女のヌードが素晴らしかったということにとどまらず、人間の「性(さが)」をも表現したものであった。そういった映画の奥行き、深さという観点からすれば、「花と蛇」は「ヌードの夜」を遥かに凌ぐ名作だと言える。

支離滅裂な文章になってしまった。今夜は赤坂で一杯やったのだが、飲みすぎた。まだ酔っ払っている。でも今夜は、東北支援の意味も込めて、日本酒は南部美人(岩手)、奥の松、大七(福島)をしこたま飲んだ。

何度も言いますが、そろそろ通常モードでいきましょう。そうしないと、日本は本当に沈没しちゃいますよ。

こんなときだから、歌謡曲、講談、漫才、ラジオドラマで楽しみましょう。 [BOOKS]

7046194.jpgようやく、通常モードのテレビ番組が放送されるようになってきた。大震災以来すべてのことが自粛ムードになっていたが、少しずつ普段の生活が戻りつつある。

今から10年前の9月11日、アメリカ同時多発テロが起きた。当時、ニューヨーク市長だったジュリアーニ氏は市民に対し、経済への影響を避ける目的から、「普段通りの生活をしよう」と呼びかけた話は有名だ。テロと自然災害(大地震)という違いはあるにしろ、「有事」における指導者の言葉には重いものがある。

学習院大学教授である井上寿一さんの『戦前昭和の社会1926-1945』に次のような話が書かれている。日中戦争が始まった1930年代後半の頃、庶民が情報を得る主な手段はラジオであった。日中戦争開始直前、首相に就任した近衛文麿は、自身の印象操作のためにラジオを巧みに利用した。近衛の口調は穏やかであったが、戦時にあって団結をラジオを通して国民に直接語りかける手法は、国民の支持を得たという。

ラジオは一方で、国民を慰安する役割も果たした。当時のラジオは、現代におけるテレビだと思えばいい。その当時、国民がラジオに期待したものはもちろん戦況などのニュースもあったが、1937年の聴取状況調査によれば、聴取率が75%以上になったものとして、浪花節、歌謡曲、講談、漫才、ラジオドラマなどの娯楽番組があった。

これらのラジオ番組は時局柄相応しくないとする意見があった一方で、「国民は国策遂行のためには増税も物価の騰貴も欣然と負担する。節約も貯蓄も励行する。そのあらゆる物資生活の対する緊張は、精神生活で慰安されなければならない。」として、戦時下における娯楽番組の放送を擁護する意見も少なくなかったという。

今引用したカギ括弧の部分は、今回の大震災でも同様のことが言えるのではないかと私は思う。相当のことを我慢しなければならない、賢明な我が日本国民は皆そのことを十分理解している。ただ、なんでもかんでも我慢しなさいと言われると、精神的に参ってしまう。そうならないために必要なことは、日常生活を普段通りに送り、娯楽に接することだと思う。「これはこれ、あれはあれ」、そういうバランス感覚を指導者が持ち、そのことを国民に呼びかけることが、政府に今求められることではないだろうか。

写真は上野公園の桜(誰かが撮った写真です)。今年は誰も上野で花見をしませんね。寂しいことです。

計画停電、アロハシャツで乗り切るしかない。 [北海道]

akb9.jpg昨日、午後から会社を早退して、プライベートで札幌に来た。主目的は、新宿ゴールデン街でたまに寄らせてもらっている「SUZY-Q」で、火曜日と土曜日にお店に入っているシャンソン歌手のサカイレイコさんのステージを観ることである。

さて、札幌に来てコンビニに入ってみたが、牛乳も生卵もトイレットペーパーも、普通どおりに店頭に並んでいた。夜、ススキノを歩いてみても、いつも通りネオンは輝いている。大震災の影響はここ札幌ではほとんどないことを実感した。

報道によると、首都圏で実施されている計画停電の影響は、電力需要が一気に伸びる真夏が一番深刻らしい。そのときは、エアコンの設定温度を一段と上げる必要があり、汗タラタラで仕事をせざるを得なくなるだろうという。もうこうなったら、格好なんかは気にしていられない。私はここ数年、クールビズの時期が来ると、ビジネスマンは通気性に優れているアロハシャツで勤務したらどうかと提案してきたが、なんとなく現実味が出てきた(参考:http://karubi53.blog.so-net.ne.jp/2008-05-07 )。

大震災そのものの影響はないといっても、札幌でも被災地を支援しようという大きな動きは起きている。今朝、大通り公園の地下を歩いていたら、若者数名が募金箱を胸の前に抱えながら、被災者支援のための寄付を大きな声で通行人に呼びかけていた。

多少不謹慎かもしれないが、募金活動などの際に見られる呼びかけ人の「絶叫」が私は生理的にダメなのである。歩いていて「絶叫」が聞こえはじめると、私は避けるように「絶叫」が聞こえない場所に逃げ込んでしまう。そもそも私は、大声というのが嫌なのだ(カラオケの大声は別ですが)。だからというわけではないが、私は芝居などの「舞台物」を観ない。役者などが出すあの大声がダメなのだ。

大声は、英語では何というか。直訳でa big voiceというのは不正解で、正解は、a loud voice。また、声は口から出るからといって、big mouthと訳してしまうと、「大口を叩く人」「口先だけの人」「口が軽い人」という全く別の意味になってしまうので、要注意。大声が決してbig mouthにならないよう、気をつけなければいけない。

今、新千歳空港にいます。これから東京に戻ります。

写真はAKB48。彼女たちは大震災に対する義援金を呼びかけ、すでに6億円以上を日本赤十字社に寄付したという。AKB48というのは間違いなく「化け物」だね。

「形あるものは、いつかは壊れる。」、ということです。 [銀座]

RIMG0039.JPG今から50年以上も前の話であるが、私の母が父の家に嫁いで来たときに、家には父の両親、つまり、私の祖父と祖母が同居していた。当時父は小さな工務店をやっていて、若い大工を数人住みこませ、毎朝早くから大工たちと一緒に仕事に出かけた。家にはこの他に、結婚していなかった父の兄弟が三人同居していて、そんな「大家族」のなかで私は生まれ育った。

母はそんな大変な家に嫁いできたわけだが、当時、我が家で一番怖かった存在はなんといっても明治生まれ祖父だった。祖父はとにかく頑固で怒りっぽく、典型的な明治気質の人間だった。ただ、孫である私にはとても優しくしてくれた。そんな祖父の趣味の一つが盆栽いじりだった。祖父が丹精込めて作り上げた盆栽は子どもの私から見ても、風格と趣があった。

そんな祖父の大切な盆栽の鉢を、おっちょこちょいの母があるとき棚から落としてしまった。台無しになった盆栽を見て祖父は母に対し、烈火のごとく怒った。母はただただ謝るしかなかったが、そんな母の姿を見て口数の少ない祖母が「形あるものは、いつかは壊れる。仕方ないよ。」と励ましてくれた。

これは、私が母から何度か聞いた話である。「形あるものは、いつかは壊れる。」、怒りっぽい祖父よりも、祖父には一切抵抗しなかったこちらも明治生まれの祖母のほうが「人生の達人」だったに違いないと、後年、私はそう考えるようになった。

東日本大震災で福島第一原発が被災したが、やはり、「形あるものは、いつかは壊れる。」、ということなのだろう。別の表現をすれば「世の中に絶対ということはない。」、そういうことになるのではないだろうか。

「原子力は絶対安全」、そう説明されて、福島県も原発を受け入れたのだろう。その見返りということではないのだろうが、周辺地域にはいろいろな経済的メリットが与えられた。この図式は、沖縄の基地問題に酷似している。

「原発」という嫌悪施設を受け入れる一方、周辺地域は雇用創造と経済的メリットを享受する、一見バランスが取れた取引のように見えるが、原発事故という想定外の事態が発生してしまった今、このバランスは完全に崩壊し、東電(政府)と周辺地域は「共倒れ」してしまった。

東京新聞の昨日の記事は衝撃的だった。福島第一原発の設計を担当した元技術者の証言であるが、彼は当時の上司に「マグニチュード9の地震や航空機が墜落して原子炉を直撃する可能性まで想定すべき」と進言したのだが、上司は「千年に一度とか、そんなことを想定してどうなる」と一笑し付したというのだ。だが、その「千年に一度」がまさに今回発生したのである。当時想定した津波の高さは最高5.5メートルで、今回実際に発生した津波の高さは想定をはるかに超える14メートルだったのだ。

人間の作ったものは、必ず壊れる、祖母の言葉を今回改めてかみしめた。

写真は、並木通りのシャネルかディオールのショーウインド。マネキンの女性は綺麗だけど、はかなさも感じる。


そろそろ「通常モード」に戻りませんか。 [時事]

RIMG0070.JPG東日本大震災が起きてからなんとなく慌しくて、ブログを更新できなかった。被災地にはまだ多くの行方不明者がいるし、避難している方々も35万人以上にのぼるという。「悪夢」という言葉がこれほど相応しい災害はそうないのではなかろうか。正直言うと、自分が生きている間に、こんなに大きな災害を遭遇するとは思っていなかった。「自分だけは例外」と思っていたが、甘かった。

さて、無頼派作家と呼ばれた坂口安吾が「堕落論」を書いたのは終戦間もない昭和21年のことだった。第二次大戦の前後で人間は果たして変わったのだろうか、否、人間はいつの時代も変わらない、変わるのは世相の上皮だけだと坂口安吾は喝破し、「生きよ、堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。」というあの有名な一節を書くのである。

震災前、日本政治の体たらく見ていて、坂口安吾の言うように政治は一度堕ちるところまで堕ちたらどうなのか、半ばやけっぱちにも似た心境になっていた。そんな矢先、今回の大震災が発生し、一瞬、日本全体が「堕ちた」ように私には思えた。

こんなことを書くと菅総理にとても失礼かもしれないが、今回の大地震は菅総理のせいで起きた、そんな心境にも私はなった。これはもちろん根拠のないことであるが、怒りや不満をぶつける矛先がとりあえず、菅総理しか思い浮かばなかったのである。

日本は地震大国である。世界で発生するマグニチュード6以上の地震の約2割が、日本で起こっている。ご存知のように、日本列島は4つの大きなプレートの上に乗っかっているわけで、地質的に見て、日本列島に地震が多いのは当然のことなのだ。したがって、地震などで放射能汚染を起こす可能性がある原子力発電所というのは、そもそも論として、日本で建設するには無理がある施設なのだ(参考: http://karubi53.blog.so-net.ne.jp/2009-07-27 )。

そろそろ、日本全体のムードを明るくしていかないといけない。我々の生活も苦しいが、それ以上に被災地域の方々は苦しい。各個人の出来うる範囲内で義捐金を拠出するのは当然だが、だからといって、将来への備えなどと称して被災しなかった我々が消費を過剰に控え、結果、日本全体が「沈没」する「二次災害」だけは避けなければならない。

そろそろ、「通常モード」に戻るタイミングではないだろうか。そうすることによって、世の中が少しずつ上手く回りはじめるような気がするのだが。

写真は、新宿の老舗洋風居酒屋「どん底」。ピンチをチャンスに転じさせ、「どん底」から一日でも早く抜け出そう。

ハリを刺す手に、目がついていました。 [北海道]

RIMG0042.JPG40肩で肩が痛い。50肩というのもあるらしい。私は丁度今50歳なので50肩のほうが相応しいような気もするが、40肩のほうが一般的な言い方のようだ。40肩で何が困るかといえば、腕が上手く回転しないので、背広やコートなどに腕を通す際に激痛が走る、浴室で身体を洗う際に腕が背中に回らないので、背骨の周辺をうまく洗えないなど、日常生活にいろいろ不便なことがある。

ということで、あまりに肩が痛いので、生まれて初めてカイロプラクティックスと鍼灸院に行ってきた。カイロでは、身体のことをいろいろ検査され、足の長さが左右違うとか、肩や首がバリバリに張っているとか、股関節がよくないとか、40肩以外で身体の悪い点をいくつも指摘された。要は、身体がボロボロということらしい。鍼灸院でも同じようなことを言われ、どうやら、「身体の整備」が必要なタイミングにあるらしい。

カイロでも鍼灸院でも、施術をする際に私の身体全体を見て、そして触診をして、どこが悪いのか調べることがわかった。特に鍼灸では、首、肩、お腹、足など、身体の上か下まで軽く押しながら状態を確認し、ハリを刺す適切なポイントを見つけているようであった。

鍼灸師の竹村文近氏が『はり100本』という本を書いている。本のタイトルどおり、竹村氏は大袈裟ではなくハリ治療で100本くらい患者の身体にハリを刺すのだそうだ。それも、普通よりかなり深く刺すので、ハリを刺された患者はかなり痛いらしい。でも、多少痛くても効果抜群ということで、タレントのタモリ、ピアニストの山下洋輔、デザイナーの稲葉賀惠、女優の加賀まりこなどが彼の顧客になっていることも紹介されている。

さて、人間の身体には約300ものツボがあるといわれている。人体には「気」と「血」の運行経路である14本の経絡があるのだが、ツボはその経絡上に存在するのだそうだ。ただ実際には、これら300ものツボをすべて覚える必要がなく、せいぜい30程度覚えていれば治療は可能なのだそうだ。

竹村氏の師匠は彼にこう言ったという。「まず10年間は、按摩(あんま)をみっちり勉強することだ。揉んで揉んで揉み抜きなさい。そうすると、手に目がついてくる。そうでないと鍼は刺せない。手に目がつくと、鍼を刺すべきところで自然に手が止まるようになる。解剖学や鍼灸理論といった机上の学問などしなくてもよい」。「手に目がつく」、なんとも含蓄のある言葉ではないか。

さて、今、新千歳空港の待合室にいる。本来ならもっと早い便で帰京する予定だったのだが、午前中、新千歳空港の滑走路の除雪が遅れたことから、予定より3時間遅い便で新千歳空港を発つことになった。普段の精進が悪いとこういうことになる。

写真は新千歳空港内の様子。私がこれまで行った国内空港の中で、羽田空港も含め、新千歳空港のお土産などの売店、レストランが一番充実しているように思う。

カンニングで、石打ち刑は、ちょっと酷です。 [時事]

RIMG0038.JPG昨年、イラン人女性が姦通罪の罪で石打ち刑による死刑宣告がなされ、人権団体などが抗議したことがあった。日本でも昔は姦通罪が刑法にあったが、今は廃止されている。この姦通罪の「姦」という漢字は不倫などを意味し、総じて道徳的に否定的な熟語のなかで用いられる(姦通、姦淫、強姦、近親相姦など。)ところで、「姦通罪」はこの罪の内容を知らない人でも、漢字を見ただけで朧(おぽろ)げに罪の内容をイメージできるところがあるのでないだろうか。でも、同じ刑法に関する法律用語でも、何のことかさっぱりイメージできないものもある。

京大などの入学試験問題が、試験中にインターネット上の掲示板である「ヤフー知恵袋」に投稿された事件で、京大は「偽計業務妨害罪」の疑いがあるとして京都府警に被害届を提出した。報道によると、携帯電話を使って「ヤフー知恵袋」に試験問題を投稿した受験生は仙台在住の19歳男性で、本日、仙台市内で逮捕された。

人を欺いて他人の業務を妨害すること、これがどうやら「偽計業務妨害罪」ということらしい。今回の場合、京大が実施する公平な入学試験という「業務」を、仙台の受験生が携帯電話を使って不正に正解を入手したことで「妨害」した、こんな感じになるのだろうか。

一連の報道を見ていると、どうやらマスコミなどは仙台の受験生を「罪人」「悪人」扱いにしようという雰囲気が感じ取れる。なるほど、悪いことをしたのだから当然なのかもしれないが、一方で、今回受験生がやったことはいわば「カンニング」であるわけだから、「偽計業務妨害罪」なんて大袈裟なことを言わなくてもいいような気もする。

また、大学のほうは、現代社会におけるインターネットの利便性、携帯電話の多機能性などを十分熟知しているはずだから、入学試験の際に携帯電話を一切持ち込ませないようするなど、必要な対応が取れていたのではないだろうか(海外では同様のことが既に起こっていたという指摘もある。)。その点からすると、大学が一方的に被害者のように装うのは如何かという感じもする。大学にも責任の一端があるのではないだろうか。

19歳の青年を「魔女狩り」のようにするのは、ちょっと酷なような気が私はする。

写真は今夜の新宿歌舞伎町。今週は一度も新宿で飲んでいない。明日は必ず新宿に立ち寄ろう。

世界残酷物語を、人は好んで観るのです。 [映画]

RIMG0034.JPGニュージーランド大地震の救助活動が遅々として進んでいない。素人からすると、瓦礫を撤去するのにどうして一週間以上もかかるのかと思う。いまだ27名の日本人の安否が確認されていない。奇跡を信じ、なんとか全員助かってほしいと祈るばかりだ。

地震発生時の様子を、日本人観光客のビデオカメラが捉えていた。大きな地震が最初に発生したとき、街のシンボルである大聖堂の尖塔部分が崩壊した。その直後、その崩れ落ちた尖塔部分を別の観光客がデジカメで撮影する様子がビデオカメラに撮っていた。

この映像を観て私は少し考え込んだ。観光客が反射的に崩壊した尖塔部分をデジカメで撮影した心理的動機とは一体何だったのだろうか、と。

それは多分、残酷なものを見たいという人間の本能的な欲求なんだと思う。それは非難されるべきという類のものではなく、人間である限り誰もが多かれ少なかれ持っている性質のような気がする。去年、東京拘置所の刑場(死刑執行の現場)が公開された。当時の法務大臣が、死刑制度の是非に関する国民的議論をしてほしいとの趣旨で、実施されたものだ。

死刑囚が首に縄をかけられた状態で立つ「踏み板」のある部屋や、刑務官が踏み板を開くボタンを押す部屋などが公開され、私もその様子をテレビで観たが、我々が考えたことは、少なくとも死刑制度の是非に関するイエス・ノーではなく、死刑囚が実際に踏み板に立ち、首に縄をかけられ、ストンと身体が下に落ちて絶命する姿だったのではないだろうか。そんなことを想像してはいけないと心の片隅で思いながらも、我々の想像力は人が死んでいく様子を見たいという圧倒的な欲望に支配されたのではないだろうか。

人間は残酷な生物なのだろうと思う。YOU TUBEでは、政治的独裁者の最期の姿を観ることができる。例えば、ルーマニアの独裁者だったチャウシェスクが妻とともに公開銃殺刑に処せられた様子とか、イラクの独裁者だったサダム・フセインが絞首刑に処せられた様子とか、生々しい映像が結構ある。そういう映像を我々は多少の後ろめたさを持ちながらも、思わず観てしまうわけだ。

ホロコーストで有名なドイツの独裁者ヒットラーは、数百万人とも言われるユダヤ人を迫害、殺害したとされる。その彼はワーグナーやベートーヴェンなどの音楽をこよなく愛したというエピソードはあまりにも有名だ。ホロコーストと音楽を愛する心というのは、一見相容れないもののように思われるが、決してそれらは相反して存在するものではなく、人間の心のなかに並存、並立しているものなのだと思う。人間は残酷でもあり、心優しくもある。そういう部分が、人間の理解というものをわかりにくくしているのではないだろうか。

ちょっと支離滅裂になった。というのも、今夜は久しぶりに赤坂で飲んだからだ。熱燗をやりすぎた。写真は、赤坂見附の赤坂エクセルホテル東急。

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